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男装騎譚  作者: ヤナギ
第1幕 遠征編
78/97

第78話

 強くなれ。

 エレンカークの声が耳元に甦る。エルゼリンデは閉じていた瞼をゆっくりと開いた。


 ――スヴァルト・エレンカーク、ここに眠る。


 無機質な文字の羅列が目に飛び込んでくる。墓石に刻まれた簡潔すぎる一文が無骨なエレンカーク隊長らしく、エルゼリンデはまざまざと彼の死を見せつけられた気がした。自分の体が冷たく感じるのは、吹き付ける北風のせいだけではない。

 エルゼリンデは灰色の墓石をじっと見つめた。

 ここに来たら自分はどうなってしまうだろう。

 昨日アスタール殿下に墓地の存在を聞いてから、彼女はずっと考え続けていた。またあの時の――殿下に戦死を告げられた時のように――おかしくなっていまうのではないかと。だけどイェルクが朝を告げた時も、ローゼンヴェルト将軍が訪ねて来た時も、エルゼリンデは平静でいられた。結構な努力を必要としたけれど、北の外れにある共同墓地までの道すがら、いつものように穏やかな将軍と他愛もない世間話をすることもできた。

 そして今も、久しぶりに傍に来た今も、泣き崩れたりしていない。

 エルゼリンデは微かに唇を動かした。

「エレンカーク隊長、私、少しは強くなれましたか……?」

 ひっそりとした声は、墓石に阻まれて彼の元まで届いてはいないだろう。それでよかった。もし届いていたら、きっと自分はここから離れられなくなるから。

 エルゼリンデはもう一度瞼を閉じた。

 声も、顔も、佇まいも。ついさっきまで会っていたかのように鮮明に思い出せる。それがいつか色褪せていくのだとしたら、途方もなく恐ろしい。

「――また、来ます」

 恐怖を振り落すように、彼女は言葉を重ねた。

「また、必ず」

 ゼーランディアはとても遠い。何か月もかけていくつもの城市を通過して、広大な草の海を渡ってようやく辿り着くこの国の果てだ。それでも自分は必ずエレンカーク隊長の元に戻ってくるだろう。エルゼリンデは予感にも似た確信をもって目を開いた。

 もっと強くなって。

 その一言は胸にしまっておいた。言葉にするのは次ここに戻った時にしよう。



 離れがたさを堪えて墓地の入り口まで戻ると、ローゼンヴェルト将軍が微笑んで迎えてくれた。

「お待たせしてしまって、すみません」

 エルゼリンデが頭を下げると、彼はいつものようにかぶりを振った。

「いいのです。私が好きで待っていただけですから」

 気を遣うな、ということなのだろうが、やっぱりエルゼリンデには心臓に悪い。彼女はほろ苦い笑みを口元に刻んだ。

「それにあなたとこうしてゆっくり話ができるのも、今日で最後になりそうですし」

 ゆるりと城のほうへ体を向けながら、見た目によらず勇猛と称される王弟殿下の腹心が呟く。その端整な顔がやや翳っているように見えるのは気のせいだろうか――いや、気のせいに違いない。将軍の半歩後ろを歩きながら、エルゼリンデはまた頭を下げた。

「マウリッツさんには大変お世話になって、ほんとうにどうお礼を申し上げたらよいか……」

「お礼など必要ありません。かえってあなたのご負担になってしまっていたのではないかと」

「あ……」

 エルゼリンデはちょっと目を瞠った。昨夜アスタール殿下が「特に理由はない」と放言した謎の厚遇を言いさしているのだろう。ローゼンヴェルト将軍にとっても当たり前のことではなかったようだ。

 エルゼリンデは思わず立ち止ってしまった。ローゼンヴェルトもすぐに気づき、歩みを止めて彼女に向き直る。この温厚な将軍にしては珍しく、少しだけ所在無げな表情を目の当たりにしてエルゼリンデは戸惑った。本心の一部では厚遇の理由を聞きたい気持ちもあったけれど、それよりも先に言わなければいけないことがある。

 彼女は躊躇いがちに口を開いた。

「あの、びっくりしましたけど……でもマウリッツさんや、アスタール殿下、それにザイオンやファルクさんやイェルクさん、ヴァンゲルマイヤー夫人がたに良くしていただいたから、今日ここに来れたのだと思います。ここに来れて、ちゃんとエレンカーク隊長に会うことができたのも、マウリッツさんや皆さんのおかげです」

 琥珀色の瞳が見開かれる先で、エルゼリンデはぎこちないながらも笑顔を覗かせる。

「それにこんなに親切にしていただけて、迷惑だなんて思うはずがありません。本当に感謝して――」

 言葉はそこで途切れた。とっさのことに声を失ってしまったのだ。なぜなら、ローゼンヴェルト将軍に抱きしめられてしまっているから。

 体も思考も硬直する。

 何がどうしてこうなってしまったのか全く把握できないが、体に伝わる熱と、背中に回された腕の力強さだけが鮮烈だ。抱きしめられていることを自覚して、一気に顔に熱が上る。

「マ、マママ、マウリッツ……さん……?」

「――あなたは本当に、優しい人ですね」

 戸惑うエルゼリンデの声に、ローゼンヴェルトの感慨深げな声が重なる。

 優しい? 私が?

 予想外の一言に藍色の目を瞠る。優しいのは自分ではなく、周りの人たちだ。私は迷惑をかけるばかりで何もできていないというのに。

 何かを言いたかったが、きつく抱きしめられているせいなのか言葉が咽喉に張り付いて出てきてくれない。

 と、不意に熱が引いた。

「……失礼しました」

 少しばつの悪そうな声で彼が体を離したのだと悟る。エルゼリンデは硬直したままだったので、どんな顔をしているのかは見れなかった。

「あ、いえ……その、おかまいなく」

 目が眩むのは、何とか絞り出した一言が間抜けすぎただけだと思いたい。

 長身の将軍は動揺しきりのエルゼリンデを一度見下ろして、それからゆっくりと彼女の前に膝を折る。彼女としては急に目前に整った顔が現れたものだから、表情も思考回路もしっちゃかめっちゃかになってしまった。

 そんなエルゼリンデに、どこか悪戯っぽい光を宿した双眸が向けられる。

「親切の見返りというわけではないのですが、あなたに一つお願いがあります」

「お、お願い、ですか?」

「はい。大したことではありませんが……聞いていただけますか?」

 お断りします、などと言えるわけがない。エルゼリンデはこくこくと頷く。

「わ、私にできることでしたら……」

「ありがとうございます」

 花の開くような、とはまさに目の前の笑顔を言うのであろう。アスタール殿下という絶世の美男子が傍にいるから霞んでしまいがちだが、腹心の将軍も相当な美青年なのだということを改めて実感する。

 相変わらず硬直したままのエルゼリンデの前で、ローゼンヴェルトは自分の首の後ろに両手を回す。金属のこすれる音とともに首元から銀色のチェーンが現れ、あっという間にエルゼリンデの左手に収まった。

「これは……」

 純銀の鎖に紺碧に光る石がついたペンダントだった。

「昔、母にもらったお守りなんです。身につけていると幸運を呼ぶと」

 だからあなたにつけていてほしい。

 そう続けられてエルゼリンデは仰天した。

「そ、そんな大事なものをいただく訳には……!」

「王都に戻るだけとはいえ、厳しい帰路であることは変わりません。私やファルクも常に傍についていられなくなりますし。せめてもの気休めに、持っていていただけませんか?」

「……」

 エルゼリンデは眉を下げたまま、ローゼンヴェルトとペンダントを交互に見つめた。こんな高価なものを、それも王弟殿下の腹心の将軍からいただくなんて恐れ多すぎる。そんな彼女の心を読んだのか、彼はこう続けた。

「もちろん大事なお守りですので、無事に王都に帰還したら返していただくつもりですが」

 どうやら一時的に貸してくれるだけらしい。それならばとエルゼリンデは頷いた。さすがにあれだけお世話になっておいて、無下に突き返すのも心苦しい。

「わ、わかりました。では王都に戻ったらお返しします」

「ええ。あなたが返しに私の所に来ていただけるのを待っています」

 満足そうに頷き返すローゼンヴェルトを見て、エルゼリンデはちょっと青くなった。「返しに行く」とはもしかしなくても王宮または侯爵様のお宅に行くとかそういう……

「もちろん、あなたさえよければご家族へのご挨拶も兼ねて、あなたのご実家をお訪ねいたしますが」

「私めが謹んでお伺いさせていただきます」

 ローゼンヴェルト侯爵がしがない我が家を訪問しようものなら家族全員ひきつけを起こしてしまいかねない。それに色々ばれてしまうのもまずい。エルゼリンデは借り物のペンダントを握りしめ、必死に首を縦に振り続ける。そんな様子にローゼンヴェルトは目を細め、改めて彼女の左手を取った。

 そこでようやく、将軍にすごい体勢を取らせていることを自覚する。

 立ち上がってください、慌ててそう言いかけて、琥珀色の双眸とぶつかる。そのまなざしの強さにエルゼリンデは再び声を失った。

 ローゼンヴェルトは熱を帯びた視線のまま、ゆっくりと口を開いた。

「約束、です」



「なーに変な顔してんだ」

「ひょえっ!?」

 急に赤い髪に視界を遮られ、エルゼリンデが間抜けな声を上げる。すっかり見慣れた赤髪の持ち主、ファルクは呆れた表情を隠さずに肩を上下させた。

「もう帰るっつーのにずいぶん余裕ぶっこいてんじゃねーか、ああ?」

「そ、そういうわけでは……」

 気が付けば城内に戻ってきたようだ。エルゼリンデはぼんやりする頭を二、三度振った。

 ファルクはそんな彼女を一瞥し、

「ま、でも顔以外はマトモで何より」

 亜麻色の髪を乱暴にかき混ぜる。

「顔以外ってどういう意味ですか?」

 失礼な言い種にエルゼリンデは赤髪の親衛隊員をじろりと睨み上げる。が、ファルクは意にも介さない。

「てっきりメソメソ帰ってくんのかと思ってたからな」

「……」

 ファルクも、彼女がどこに行っていたのかを知っているはずだ。心配、してくれたのだろうか。

「また変な顔」

「あだっ」

 ちょっとしんみりしたら、容赦なくでこピンをお見舞いされてしまった。

「メソメソしてねーが、いつにも増して挙動不審だな。ローゼンヴェルト閣下に何か言われたりしたのか? あの人が迂闊なこと言うとは思えねえけど」

「……!? な、ななな何でもないです!」

 その人物の名前は今の彼女にとって危険極まりない名だ。思いっきり挙動不審に後ずさり、そのまま彼に背を向けて走り出そうとして――

「こら、勝手にフラフラすんじゃねえよ」

 首根っこを掴まれ、あえなく捕獲さえてしまった。

「第三団に戻るんだろうが。てめえが迷子になったらまーた俺が殴られるんだから、大人しくついてこい」

 そうだった、今日から第三騎士団のベッセル隊長の下に行くのだった。

「あの、犬猫扱いするのはやめてください」

 首根っこを掴まれたままずるずる引きずられるのは勘弁してほしい。彼女は体を捻って何とかファルクの手を振りほどいた。

 この態度のよろしくない親衛隊員の背中を追うのも、今日で最後になるだろう。

 左手の甲がまだ熱を持ったままなのは気が付かない振りをして、エルゼリンデはファルクの背中を見つめた。


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