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男装騎譚  作者: ヤナギ
第1幕 遠征編
72/97

第72話

 ぴんと張った闇の音が響いてくるほどの静寂があたりを包む。ほんの一瞬だったとしても、ひどく長い一瞬のように感じられた。

 エルゼリンデは涙に濡れた目を何度も瞬かせて、目の前の男を見上げた。いつの間にか、腕は掴まれたまま、向かい合わせになっている。

 彼は宵闇を思わせる蒼い瞳に険しい色をのせたまま、自分をひたと見据えている。

 ――どうして王弟殿下がここにいるんだろう。

 ぐらぐらと揺れる頭で、エルゼリンデは今更ながらそんなことを考えた。

 無論、声にならない疑問など聞き取ってくれるはずもなく、アスタールが口にしたのは別の言葉だった。

「エルー」

 自分の名前。不思議と違和感はなかった。この人が名前を知っていても何もおかしいことはない。

「お前は何のためにここまで来た」

 眼差しとはかけ離れた静かな声音だった。

「現実から目を背け、悲嘆にくれるためか」

 淡々としたその声が、かえって耳に突き刺さる。何のため? 何のためだろう。頭の中がぐるぐると引っかき回されて、言葉も思いも浮かび上がってこない。そういえば、似たような台詞を以前も聞いた覚えがある。ひどく遠い昔のことのような気がする。誰が言っていたんだろう。その時、自分はちゃんと答えられていただろうか。

 エルゼリンデは俯いた。これ以上、その蒼い目を見つめることに耐えられなかった。美しいけれど、全て見透かされているようで、恐ろしい。

 彼女の挙動に、王弟から返ってきたのは軽いため息だった。

「強くなりたいと俺に啖呵を切っておいてこのザマか」

 その一言は直接彼女の胸を抉った。細い肩が小刻みに震える。

「……だって」

 どこかに消えかけた涙が再び戻ってくる。

「だって、私、助けられなかった……ナスカも、ゲオルグも。二人とも、助けられなかった……死なせてしまった!」

 さっき見た夢が脳内に閃く。闇の中に溶けていくその背を見ていることしかできなかった無力な自分。エルゼリンデは夢の残滓を振り払うように、俯いたまま大きくかぶりを振った。

「甘えていたから、弱かったから、私……私がもっと強かったら、助けられたのに」

 涙が雫となって、テラスの石畳に黒い染みを描いていく。夜に覆われた中でも、その黒色だけはくっきりと目に映った。

 下を向いているから、今王弟殿下がどんな表情をしているのか分からない。呆れているだろうか。それとも怒っているだろうか。

 エレンカーク隊長は、どう思っているだろう。

 エルゼリンデは震える唇から、か細い声を紡ぎ続けた。

「……隊長の言ったことも、守れなかった」

 熱を持った目頭が痛む。

「強くなれって、そう言われたのに」

 強くなれなかった。エルゼリンデはかたく瞼を閉ざす。エレンカーク隊長の姿は、瞼の裏に浮かび上がってきてくれなかった。いよいよ呆れられてしまったのだろうか。

「お前は何のために強くなろうとしたんだ?」

 それまで黙って彼女の独白を聞いていたアスタールが口を開く。だけど、エルゼリンデは答えられなかった。顔を上げることすらできないで、ただむずかる子どものように首を左右に振るだけ。

 アスタールはそんな彼女の様子など意に介さず、言葉をつなげていく。

「エレンカークに言われたからか」

 分からない。

「戦場で生き残るためか」

 それも分からない。

「じゃあ、何故だ」

 視界に、再び蒼い光が戻ってくる。アスタールが片手で彼女の顎を掴み、強引に顔を上向かせたのだ。

「自分の言葉で答えろ」

 有無を言わせぬ意志を持った声だ。エルゼリンデは息を詰まらせた。そんなことを言われても、分からないものは分からない。

「わ、分からないです、そんなの」

 だから、正直にありのままを告げるしかなかった。

「死にたく、だってないし、強くなれば皆に迷惑をかけなくても済むし、そっ、それに……隊長とかナスカとかの力にもなれるって……私も誰かを守ることができるかもって思って。父さんや、兄さんだって――」

 嗚咽混じりの声がはたと止んだ。


「お前は、何のために戦うつもりなんだ?」


 耳元に、エレンカーク隊長の声が届いた気がした。そうだ、そうだった。エレンカーク隊長にも問われたんだ。

 家族をこれ以上失いたくない。

 その時の自分の答えも、思いもまざまざと甦ってくる。

「……ちゃんと分かっているだろう」

 彼の一言で、彼女は現実に手を引かれた。

「でも、……でも、失いたくないものがたくさん増えてしまったら? それを全部抱えるほどの強さなんて、私に持つことができるんでしょうか。そうして、また、失ってしまったら」

 どうやって立ち上がればいいのか。前に進めばいいのか。

「私には、何も分からないんです……」

「――大事なものを全て抱え込めるほど、人の腕は大きくない」

 不意に目の前が翳る。顎から背中に回された腕の感触で、殿下に抱き寄せられたことを悟った。

「それは、お前に限った話ではない」

 アスタールの口調は静かだが優しかった。

「誰しも大切なものを抱え込み、時に零し、あるいは自らの意志で捨てていく。人として生きていく以上、当たり前のことだ」

 腕の中にある少女の背を、あやすように軽く叩く。

「零れてしまったものを拾うことに心を傾けてもいい。自らの腕から離れたものを顧みず進むのもいい。選ぶのはお前自身だ。だが、ここでお前が逃げてしまったら、まだその腕に抱えているものはどうなる?」

 エルゼリンデははっとして王弟殿下の顔を見上げた。殿下も彼女を腕に抱えたままの姿勢で見下ろす。彼の目に、先ほどまでの厳しさはない。

「お前が死んだら、父や兄はどう思う? お前が家族を失いたくないと思うのと同様、彼らもまたお前を失いたくないと思っているはずだ」

 今、自分のこの腕に抱えているものまで零してしまうのか。エルゼリンデはしゃくりあげ、小さくかぶりを振った。

「わた、私は、父さんと兄さんにまた会いたいです……!」

 エレンカーク隊長にも会いたい。ナスカにだって会いたい。だけどそちらを拾い上げれば、きっとまた別のものを失ってしまう。

「そうか」

 アスタールがとめどなく涙の流れる頬を指で拭ってくれる。

「だっ、だけど、隊長やナスカのことも忘れたくないです」

「忘れる必要はない」

 零れてしまったものを捨てておいたままにする必要はない。彼はそう続けた。

「お前の母親もそうだろう。お前は忘れたいのか? 忘れたいと願ったのか?」

 エルゼリンデは王弟殿下の胸に顔を埋めて首を振る。

「無理に捨てようとすることはない。腕の中には戻らずとも、思い出としてお前の中に残しておくことはできる」

「思い出……」

 母のことも思い出にできているのだろうか。これからのことも、思い出にできるのだろうか。

「今でも、悲しくて押し潰されそうになるのに」

 今でも母親のことを考えると、胸の奥がちりちりと疼き、その場から動けなくなってしまうというのに。

「悲しみに足を絡めとられたままでいるのは、お前がそれを受け止めきれていないからだ」

「受け止める……?」

 顔を上げようと思ったが、何だか瞼が重くなってきたせいか、うまく体が動かない。

「自分の感情を受け止めることができるのは、自分だけだ。他の誰も肩代わりすることはできない。エルー、お前は」

 と、ここで殿下が呆れ気味の歎息を漏らした。

「もっと自分のことを考えろと、エレンカークにも言われなかったか」

「!!」

 エルゼリンデはびっくりして、重たげな目をぱちくりさせた。王弟殿下には魔法使いのような能力があるのではないか。

「あの男なら言いそうなことだ」

 やっぱり殿下はこちらの心を読めるようで、にべもない答えを返してくる。

「フロヴィンシアでも思ったが、お前は他人にかまけすぎる。他人に振り回される前に、自分がどうしたいのか、立ち止まってでもいいから考えろ。他人の目で物事を見ようとするな」

「自分がどうしたいのか……」

「そうだ。もっと自分を大事に扱え。抱える腕がなくなっては元も子もないからな」

 アスタールはふと苦笑を浮かべた。

「……これは受け売りだがな。――お前の騎士の」

「わたしの、騎士……?」

 自分の声まで遠くから聴こえてくる。瞼が更に重みを増して、エルゼリンデはたまらず目を閉じた。

 おそらく脱力して重くなったであろう彼女の体を器用に抱え直し、王弟殿下は最後にこう言った。

「ところで、もう一度聞いておくが」

「はい……?」

 ほとんど言葉になっていない声を返す。

「あの酒はどこで手に入れた?」

 酒? 酒――ああ、さっき飲んでしまったやつか。ふわふわしたまどろみの中、エルゼリンデは何の躊躇いもなく答えた。

「ファルクさんからもらいました」

「……あいつか」

 そこで眠りの世界にいざなわれてしまったので、アスタールの目が不穏に光ったことなど知る由もなかった。



 雨が降っている。

 どこかから、すすり泣く声が聞こえる。

 声の泣くほうへ視線を向けると、灰色にくすんだ門扉の隅に小さな女の子が膝を抱えてうずくまっていた。その隣には、やはり同じくらいの年頃の男の子がいて、ずぶ濡れになるのも構わず少女の背を優しく撫でさすっている。

「……おかあさんに会いたい」

 少女がしゃくりあげながら呟く。

「おかあさん、いつ帰ってくるの?」

 その言葉に少年の顔が悲しげに歪む。

「エルー、エルー……大丈夫だよ。ぼくも、お父さんもいるから、大丈夫だよ」

「やだ! おかあさんがいなきゃいやだもん!」

 泣きながら駄々をこねる幼い自分の背中を、兄は必死にさすってくれていた。

「エルー、お家に入ろう。風邪を引いてしまうし、お父さんも、お母さんもみんな心配するよ」

「帰らないもん。おかあさんが帰ってくるまで、待ってるんだもん……」

「ぼくが代わりに待っていてあげるから。お母さんが帰ってきたら、エルーに一番に教えてあげるから」

 ――ああ、そうか。

 小さな兄妹を遠目に見つめながら、エルゼリンデは胸を押さえた。

 私はあの時、兄さんに悲しみを肩代わりしてもらっていたんだ。

 どうしていいか分からずに、持て余した悲しみを兄に押しつけ、自分はそれを忘れることを選んでしまったんだ。

 エルゼリンデは歩き出した。過去の自分に向かって。

 兄妹の目の前に立って、ぽつりと声を落とす。

「兄さん、ごめんね。この子はもう大丈夫だから。ちゃんと、私が連れて行くから」

「――そっか。よかったね、エルー」

 ずぶ濡れの顔で、小さな兄は優しく微笑んだ。


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