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男装騎譚  作者: ヤナギ
第1幕 遠征編
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第57話

 瞼が重たい。鉛が貼りついているみたいだ。

 エルゼリンデは微かに身じろぎした。体もまるで鎖が絡まっているみたいで、思うように動かない。

 ここは、どこなのか。

 温い水の底に沈んでいた意識がゆっくり浮上してくるにつれ、その疑問がはっきりと形になってくる。目を開けるのが酷く億劫な所作に思えたが、気力を総動員して重い瞼を押し上げた。

 最初に瞳に映ったのは、石の天井だった。表面が滑らかに削られているから、それなりに手は入っているようだ。目だけを動かして左右を確認してみると、左側にはやはり石造りの壁、右側の壁には木枠で囲まれた小さな窓。どこかの部屋の中であるらしい。

 ――ああ、そうだ。戦場にいたはずなのに。

 うっすらと記憶が甦ってくる。確か自分はさっきまで戦場にいて、退却戦の渦中にあったはずだ。そうして、援軍でローゼンヴェルト将軍に会って……

 それからどうしたっけ。途絶えてしまった記憶の糸を手繰り寄せようと、眉根を寄せる。頭の芯がズキズキする。

 そこで彼女の注意は、急に別のことへと向けられた。扉の蝶番が軋む音がして、何者かの気配が室内に入ってきたからだ。

「お目覚めになられましたか」

 柔らかい男性の声が降ってくる。次いで、眼前に見知った顔が現れる。柔和な表情を浮かべる整った顔立ち、まぎれもなくローゼンヴェルト将軍のものだった。

 何で将軍がここにいるのだろうか。そもそもここはどこなのだろうか。

 鈍い頭痛と寝起きの朦朧とした意識の中、ローゼンヴェルトの顔を凝視する。

 王弟殿下の腹心は、彼女の様子を見て軽く眉を顰めた。

「……まだ熱が下がっていないようですね」

 熱? そうか、熱があるからこんなに体がだるくて頭も痛いのか。エルゼリンデは自分の状態にようやく得心がいった。

「時間はたっぷりありますから、ゆっくりお休みになってください」

 何か食べたいものや、飲みたいものがあれば何なりと申し付けてください。そう続けるローゼンヴェルト将軍の声音は、戦場での勇猛さが嘘のように消え去っていた。この前フロヴィンシア城で遭遇した時と変わらぬ、物腰の低さである。

「あの」

 口を開くと、自分でも驚くほど掠れた、細い声が発せられる。

「何でしょう?」

 ローゼンヴェルトは彼女が寝かされている寝台の傍らにあった椅子に腰掛け、首を軽く傾げた。

「ここは、どこですか?」

 目覚めて真っ先に思い浮かんだ疑問を、エルゼリンデが口にする。

「ここはゼーランディア城の一室ですよ。私の部隊と合流してすぐ、気を失われてしまったので、こちらにお運びしました」

「私、倒れたんですか?」

 急激に具合が悪くなったことは何となく憶えているが、まさか気を失って倒れたとは。ちょっとばつが悪そうに、エルゼリンデは腕をもぞもぞと動かして敷布を鼻の辺りまで引っ張り上げた。

「怪我は大したことがなかったそうなので、外傷による発熱ではなく、疲れが出たんでしょう」

 落ち着いた口調で将軍は告げる。その頃には、エルゼリンデの意識も記憶も随分鮮明になってきていた。

「――そうだ」

 そうして、一番大事なことを思い出す。

「エ、エレンカーク隊長は!? それに、ザイオン、エレンカーク隊は、どうなったんですか!?」

 本当は起き上がって詰め寄りたかったのだが、体の自由が利かない。何とか首の向きだけ変え、上擦った声で訊ねた。自分の声が頭の中で反響してずきりと痛んだが、それすら今は気にならなかった。

「あまり興奮されると、体に差し障りますよ」

 ローゼンヴェルト将軍がやんわりと宥める。彼は一度そこで口を閉ざし、僅かな間を置いてから話し始めた。

「平原での戦闘は、我が軍の勝利をもって終結しました。現在は攻城戦の局面を迎えています。その戦いが終わらないかぎり、私の口からは何とも言えません」

 明言を避けた返答だった。攻城戦。つまりエレンカーク隊長たちも、負傷していなければそちらに加わっているのだろう。だとすれば、戦いが終わって戻ってくるまで「無事」とか「大事無い」とか、安易に言えないのも肯ける。エルゼリンデは鈍痛の治まらない頭で、わりかし冷静に将軍の言葉を受け止めていた。

 エルゼリンデが小さく首を縦に動かしたのを見て、ローゼンヴェルト将軍はどこかほっとした表情を滲ませた。

「……病人に長話を強いるのも良くありませんね」

「あ、あの」

 音もなく椅子から立ち上がる将軍を、エルゼリンデは呼び止めた。ローゼンヴェルトの顔色が、若干警戒に染まったような気がした。

「まだ、何か気がかりなことでも?」

「あ、いえ、その……お水をいただけないでしょうか」

 高熱を出していたところに迂闊に結構喋ったものだから、さっきから咽喉が渇いてしょうがなかったのだ。



 白湯を飲んで眠り込み、再びその目を開けたときにはだいぶ体が軽くなっていた。どのくらい寝ていたのだろうかと、窓に視線を移す。外は白んできているから、ちょうど朝が夜を押し退けた頃合のようだ。

 ――熱出して寝込んでたんだっけ。

 まるで兄さんみたいだな、とエルゼリンデは遠く離れた王都にいる兄ミルファークを想った。兄と違い、健康なだけが取り柄の自分が倒れるなんて、珍しすぎて前に倒れたのが何時だったかも思い出せない。

 よいしょ、と勢いをつけて上体を起こす。改めて室内を観察してみると、なかなかいい部屋だった。ゼーランディア城の性質上、絢爛豪華な装飾は施されていないが、調度品などはよく整えられている。

 エルゼリンデは何だか落ち着かない気分になった。多分、ローゼンヴェルト将軍の計らいでこの部屋を宛がわれたのであろうが、貧乏貴族で一介の騎士でしかない身分には分不相応すぎる。そわそわした心持ちのまま、とりあえず寝台から降りて部屋の扉を開け、顔だけ出して外の様子を窺う。ひとけはないのか、石造りの広い廊下はがらんとしている。薄闇に目を凝らすと、反対側にも扉がいくつか並んでいるのが見えたので、この辺り一帯は客を泊めるための区画なのかもしれない。

 と、部屋から出てもいいものかと逡巡していたエルゼリンデの頬に、

「あら、起きていたんだね」

 聞き慣れない女性の声が当たったものだから、びくりと肩を震わせてしまった。

 廊下の奥から、大柄な女性がこちらに向かってくる。その足取りは勇者のごとく勇ましい。エルゼリンデは扉から首だけ出した間抜けな格好で、ぽかんとその姿を凝視した。何となく、見覚えがある気がする。

「あ、あの……おはようございます」

 躊躇いがちに挨拶するエルゼリンデを、彼女より十以上年上に見える女性はまじまじと観察し、それから豪快に破願した。

「おはよう。だいぶ顔色が良くなったね。気分はどうだい?」

「わ、悪くはないです」

「そりゃ良かった」

 この女の人は誰だろう。エルゼリンデも失礼にならない程度に見上げた。エルゼリンデより頭ひとつ分は背が高く、しっかりと筋肉がついていて肩幅も広い。女戦士さながらの風貌だが、顔立ちは上品に整っている。着ている物も上等なので、それなりの身分であることは疑いない。

 エルゼリンデの疑問を含んだ眼差しに気づいたのか、大柄な女性は軽く肩を揺すった。

「私はベリンダ・ヴァン・ヴァンゲルマイヤー。ここの城の女主人みたいなもんさ」

 女性の告げた名を耳にして、エルゼリンデはようやくゼーランディア城主にして第十騎士団団長の名前を思い出した。フランク・エドガー・ヴァン・ヴァンゲルマイヤー将軍。ということは、目の前の女性は年齢的にも、彼の夫人だろう。見覚えがあるのは入城の時に将軍とともに出迎えてくれていたからだ。

 まさか起き抜けに城主夫人が訪ねて来るとは夢にも思ってみなかった。やや狼狽しつつも、エルゼリンデは廊下に出た。さすがに首だけ出した格好で名乗るわけにもいかぬ。

「……ミルファーク・ヴァン・イゼリアと申します。この度のご厚遇、心より感謝いたします、ヴァンゲルマイヤー夫人」

 僅かながらぎこちない所作で騎士の礼をとる。ヴァンゲルマイヤー将軍の奥方は、そんな彼女に気さくな笑顔で応じた。

「ベリンダで構わないよ。それはそうと、ミルファーク、折角早く起きたんだから湯に浸かったらどうだい」

 戦場から戻ってきてずっと寝たきりだったから、さっぱりしたいだろう。そう言われてみれば、服だって甲冑を脱いだだけの状態で、汗と砂埃の臭いが鼻をつく。ここは夫人の好意に甘えよう。そう思い、お願いしますと頭を下げるとベリンダは鷹揚な仕草で肯き、浴場まで案内してくれた。

「ゆっくり浸かっておいで。着替えはローゼに用意させておくから」

 予想していたよりずっと広く、綺麗なお風呂場に呆然とするばかりのエルゼリンデにそう声をかけ、城主夫人は浴場の戸を閉める。

 こんなに広い風呂を独り占めしていいのか。それを訊こうにも、ヴァンゲルマイヤー夫人の足音は既に遠ざかってしまったあとだった。

 まあ、いいか。使ってくれていいと言われたのだし。エルゼリンデは自分を納得させるように肯くと、脱衣所で服を脱ぎ、久々の温かい湯を堪能した。

 誰か来たらどうしよう。軽い緊張があって完全に寛げたとまではいかなかったが、それでも汚れを洗い流し、お湯に浸かると体も心もじんわり解れていくのを感じる。エルゼリンデは深く息を吐いた。

 自分がどれくらい眠り込んでいたのかはまだ分からないが、少なくともつい2、3日前は戦場で剣を振るい、弓を引いていたのだ。それが信じられない。もうずっと遠い昔の出来事のような気分だ。

 両の掌を見下ろす。

 この手で敵を討ったのも、ほんの少し前のことなのだ。

 網膜に、彼女の放った矢を受けて落馬していく敵将の姿が再び映し出される。エルゼリンデは居た堪れず、一人で入るには広すぎる浴槽に頭のてっぺんまで沈み込んだ。

 早く、少しでも早くエレンカーク隊長に会いたかった。そうすればきっと、この胸の燻りもきれいさっぱり霧散するのに。

 息が苦しくなって顔を水面に出す。今の攻城戦が終わるまで、どれくらいかかるんだろう。

 ――待つ身も楽じゃない。

 エルゼリンデはため息とともに独りごちた。


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