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男装騎譚  作者: ヤナギ
第1幕 遠征編
56/97

第56話

 何度も後ろを振り返りそうになるのを、エルゼリンデは必死で堪えながら馬を走らせていた。

 レオホルト隊を先頭に、ベッセル隊、そしてエレンカーク隊と続いているはずだ。隊長格の人間は三人しかいないようだが、エレンカーク隊長が残存部隊を引き連れてきたので、人数は本来よりも多い。だから、後ろを顧みたところで小柄な隊長の姿が確認できるはずもないのだ。

 それでも気になってしまうのは何故なのか、自分でも不明瞭だった。ただ心のどこかに、もう会えないのではないかというおぼろげな予感が渦巻いているのは自覚できた。エレンカーク隊長に限って、そんなことあるはずないのに。

 エルゼリンデはひとつ頭を振った。

 今は自分のことに集中しなければ。胸の内で呟く。自分自身のことすら満足に抱え込めていないのに、他のことばかりに注意が向いてしまうのは悪い癖なんだと思う。

 しっかりと目の前を見据える。

 緑から枯葉色へと色を変えつつある風景が、鮮明にその瞳に映る。と、横合いからまたしても雄叫びや馬蹄を鳴らす、戦いの予兆を告げる音が響き渡ってきた。

 部隊内に緊張が走る。

「うろたえるな! 敵は少数だ!」

 敵影を確認したレオホルト隊長が味方を叱咤する。その声と同時に、左手から弓矢が飛来する。弓を持つ騎士たちが負けじと反撃を開始するなかにあって、エルゼリンデは矢が直撃して落馬した騎士に自分の馬の足を取られかけ、共倒れ寸前の状況に陥りかけていた。何とか手綱をさばいて回避したものの、周りは既に突撃態勢に入っていて、またしても弓を引く機会を逃してしまった。

 敵の数は、レオホルト隊長の言うとおり驚くほど少なかった。十数人といったところか。向こうもまともに接近戦を仕掛けるつもりはないらしく、こちらが近づいていくと、攻撃を止めて蜘蛛の子を散らすがごとくあっという間に退散する。

「やっぱ、あっちの統率が取れてねえっていうのは本当だったんだな」

 これなら退却もちょろいもんだ。さっさと逃げ去っていく敵部隊の背中を見て、せせら笑う声がいくつか聞こえてくる。

「立ち止まっている時間はない。速やかに前進せよ」

 若干緊張の弛緩した空気のなか、レオホルト隊長の命令は硬く、顔色も蒼いままだ。気が緩んだとはいえ、今は退却真っ只中の身。皆すぐさま馬首を巡らせ、前進を再開する。ふと後方を顧みると、ベッセル隊がすぐそこまで迫ってきていた。

 エルゼリンデも馬を進めるため前を向きかけて――藍色の視線が、ある一点に留まる。

 ついさっき敵軍の出現した反対側、小高い丘の頂上付近に、一騎の兵士の姿が見えた。わりと離れているが、目で見えない距離ではない。纏う鎧からして、モザール人だろう。陽の光を受けて輝く兜の立派さからも、将軍かそれに準じる身分であるのは疑いない。将軍格の身分の人間が単騎で行動するなど、ライツェンヴァルトの常識からは考えられなかったが、草原の民にとってはさして珍しくもないことらしい。

 騎影はレオホルト隊の様子を窺っていたようだが、特に何をするわけでもなく身を翻す。

 仲間を呼んでくるのかもしれない。

 エルゼリンデはどきりとした。もしそうであれば、このまま無事に窮地を脱することは難しくなるだろう。そうなれば、最後尾にいるエレンカーク隊も危ない。

 このまま、むざむざ見逃したら。エルゼリンデは反射的に弓を手にした。

 敵将がこちらに背中を向ける動作が、やけに遅く感じる。逆に自分の心臓の鼓動は早まっていくばかり。

 弓を構えた腕が小刻みに震えている。この距離だと、自分の力量では矢が届かないかもしれない。そう考えると、この行動は無意味なのかもしれない。

 敵が完全に背中を向ける。エルゼリンデの動きには気づいていない。

 ――このまま、離れていってしまっては、終わり。

 ――お前も自分にできることはしっかりやれ。

 放たれた矢が、風を切り裂く。やや山形に飛んでいった矢は、敵将の頸部へと吸い込まれる。

 どさり。人間が馬から落ちる鈍い音が、ここまで響いてきたような気がした。

 まだ生きているのか、死んでしまったのかまでは分からない。ただ、彼の乗っていた馬が、戸惑うようにぐるぐるとその場を回っているだけ。

「凄いじゃないか!」

 エルゼリンデを包み込んでいた薄い静寂の膜は、アルフレッドの興奮気味の声に破られた。

「あれ多分、それなりに身分のある人間だな。大金星だ」

「……お見事です」

 彼女の従騎士であるナスカの称賛が、大貴族の少年に続く。

 エルゼリンデは返事を発する代わりに無言で肯いた。動悸が治まらず、嫌な汗が頬を伝う。ナスカに促されてすぐさま弓を下ろし、レオホルト隊の背中を目指して進み始めたものの、手綱を握る手は震えっぱなしだ。

 初めて、敵をこの手にかけた。かけてしまった。

 一対一で斬り結んだわけでもないし、たまたま敵影を発見して弓を引いたら運良く命中した、という偶然に左右された程度のことだ。相手の生死も不明なまま。それでも、敵に刃を向けたことには変わりない。

 アルフレッドの言葉のとおり、結構な手柄である。もし本当に援軍を呼ぶつもりだったとしたら、それも防いだことになる。

 だが、素直に喜べなかった。

 あの人は、生きているのか、それとも死んでしまったのか。家族はいるのだろうか。仮に死んでしまったとしたら、きっと嘆き悲しむにちがいない。

 両肩が重い。まるで自分のしでかしたことを責め立てられているように、エルゼリンデには感じられた。戦場においては人殺しは罪でも何でもない。むしろ称えられるべき栄誉であり、騎士が果たすべき義務である。

 頭では理解していても、心が受け容れてくれない。

 エルゼリンデは不規則な呼吸を宥めるべく、深呼吸を繰り返した。エレンカーク隊長は、今どうしているのだろうか。

 早くこの戦いが終わればいいのに。そうすれば、ザイオンと笑いあったり、エレンカーク隊長に叱られたりと、つい数日前と同じ日々が戻ってくるのに。

 そのためには、この状況を収束させなければならないことも分かっていた。

 早く、一刻も早く味方と合流しよう。エルゼリンデはそれ以上、あの敵将のことを考えるのを止めた。



 つい先刻まで真上にあったはずの太陽は、だいぶ傾きを大きくしている。日没が草原を渡る以前より相当短くなっているのだ。

「陽が落ちるまでに合流しないとな」

 一度襲撃で立ち止まって以来、隣を走るアルフレッドが僅かに硬い口調で呟く。エルゼリンデの頬にも、不安の陰が差した。

 かなりの距離を移動しているはずなのに、自軍の気配が一向に感じられない。もしかして方向を見誤ったのかもだとか、西に味方なんていなかったんじゃないかとか、不穏な想像ばかりが膨らんでいく。

 とそこへ、更に間の悪いことに敵の一団が迫ってきた。今度は敵の数もそれなりに多く、弓矢の応酬の後、両軍入り乱れての斬り合いへと発展する。

 エルゼリンデも否応なしに戦いの渦へと巻き込まれ、剣を振るう。ほとんど休まず、飲まず食わずで退却を続けてきたせいもあり、周囲にも疲労の色が濃い。エルゼリンデとて例外ではなく、剣を持つ腕の動きが鈍化してきている。

 そんな状況下にあって、人一倍気を吐いていたのが彼女らの隊長だった。レオホルトは普段の所作の典雅さとはかけ離れた勇猛さを発揮し、剣を振るって敵の兵士を次々と馬上から叩き落す。

 隊長の奮闘もあり、戦線はこちらが押していた。とそこへ、敵部隊の後方から馬の嘶きが風に乗ってくる。

 敵の新手かと身構えるのもつかの間、だんだんと拡大してきた騎影を見て、周囲で歓声が上がる。

「援軍だ! ようやく援軍が来たぞ!」

 興奮と安堵の混じった叫び声が各処から湧き上がる。一方のモザール側はもはや勝ち目なしと言わんばかりに、素早く遁走していく。

ライツェンヴァルトの旗を掲げた一団を視界に収めたエルゼリンデも、思わずほっと胸を撫で下ろした。これでひとまず戦いからも遠ざかるだろう。

 先頭を走る騎士の下へ、レオホルトが駆け寄る。

「――我が隊の後方、エレンカーク隊に敵が張り付いている可能性があります。すぐに援護を」

 隊長の訴えに、将軍と思しき人物が肯く。

「分かった。ファルク、グレーシェル、先を任せる」

「了解」

 二人の隊長と思しき騎士が、部下を引き連れてエルゼリンデたちの真横を疾走していく。

 エルゼリンデは、しかしそれを見送ることなく小首を傾げた。援軍として現れた将軍の声が、どこかで聞いたことのあるものだったからだ。

 将軍はこちらを見やり、朗々とした口調でこう告げた。

「自陣までお送りしよう。貴公らの機転もあり、我が軍の勝利は目前だ」

 ローゼンヴェルト将軍だ、という声があちこちで上がる。エルゼリンデも瞠目して、まじまじと将軍の姿を見つめる。まさかこんな広い戦場でこんな偉い人と再会するとは夢にも思わなかった。

 その将軍閣下の琥珀色の瞳が、一瞬エルゼリンデを捉えた……ような気がしたが、彼は再びレオホルト隊長に向き直り、言葉を交わしながら来た方向へ馬首を巡らせる。その立ち振る舞いは、彼女の見た穏やかな物腰の彼ではない。猛将と評されるというザイオンの言も、あながち間違いではなさそうだ。

 ローゼンヴェルト将軍の部隊に守られるようにして、レオホルト隊がゆっくりと動き出す。もはや戦の緊迫感はない。

 もう少し頑張れば、エレンカーク隊長とも、ザイオンともまた会うことができる。気持ちは逸ったが、どうにも体が重い。頭もくらくらしてきた。今まで慣れない緊張を長時間強いられたからなのか。視界までもぐらぐら揺れている。

 せめて手綱ぐらいは握っていなければ。そう繰り返し念じたのだが、手綱よりも意識を手放すほうが早かった。


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