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男装騎譚  作者: ヤナギ
第1幕 遠征編
53/97

第53話

 遠く、風に乗って無数の音が響いてくる。両軍の兵士たちの雄叫び、弓弦を弾く鋭い音、馬の嘶きと蹄を鳴らす音。

 それに比べ、ここは静かだった。周囲の騎士たちは、息を押し殺して突撃の刻を待っている。

 エルゼリンデは天を振り仰いだ。雲に隠れがちな太陽は、そろそろ真上に差し掛かろうとしている。

 夜も明けきらぬうちからの行軍、そして到着早々の弓兵隊による先制攻撃は、これから戦いに臨む心構えを形成する暇を与えてくれなかった。戦場に着いたらまずは陣を布くものだとばっかり思っていたから、この急展開はエルゼリンデを驚愕させた。

 現在、モザール軍と交戦状態にあるのは、花形たる黒翼騎士団である。今朝、大雑把な説明を受けたところによると、今回の作戦はこの平原の会戦で敵の主力部隊を撃破し、その後この地一帯の中心となっている要塞を落とすという手筈になっているらしい。

 エルゼリンデの所属する第三騎士団に与えられた任務は、自軍の側面を維持すること。端的に言ってしまえば、中央に展開する黒翼騎士団のサポートだ。

 周囲をぐるりと見回してみる。常日頃一緒に行動しているザイオンは、この場にはいない。エレンカーク隊は第三騎士団の先頭を任されているから、彼女よりずっと前方にいるはずだ。ちなみにエルゼリンデの所属するレオホルト隊は、ほぼ殿に位置している。

 不思議と恐怖に慄いたり、不安に押しつぶされることはないが、ザイオンもエレンカーク隊長も目の届かないほど離れていることは今まで一度もなかったから、少し心細くはある。従騎士のナスカは傍に控えているが、相変わらず必要最低限の会話しかしてくれないし。

 それでもまだ、アルフレッドが同じ隊にいるだけ良いけれど。そんなことを考えていると、タイミング良く彼が馬を寄せてきた。

「まだしばらく動きはないだろうな」

 アルフレッドが声を潜めて話しかけてくる。

「そうなんだ」

 エルゼリンデはちょっとだけ周りの視線を気にしながら返答した。

 最近にわかにローデン伯のご子息とお近づきになったこともあり、周囲の人間には若干不審がられている節があるのだ。それでも大半は、年齢が近いから気が合うのだろうと見てくれているようだが。

「ハンスから聞いた話なんだけどさ」

 彼女と同い年の少年は落ち着いた声音で続けた。ひそひそ声で話しているとはいえ、まったく他人の目を気にしないあたり、さすが大貴族と言うべきか。

「今回の作戦、アスタール様の御隊が陽動役なんだってな。いま、派手に動き回ってるのも散らばってる敵軍を引きつけて、別働隊に包囲させて討たせるためらしいし」

 だから、機が来るまではこうやって息を潜めて待機してなければならないと、アルフレッドは語った。

「なるほど」

 首肯してはみたものの、戦闘初経験、当然戦略や戦術にも明るくないエルゼリンデにはいまいちぴんと来ない。一方のアルフレッドは、話に追いついていない彼女などお構いなしに言葉を続ける。

「もちろん突撃するタイミングとか別部隊への指示を間違えれば集中攻撃される危険性もあるわけだけど、そこは何と言ってもあのアスタール様だからね。無用の心配になるのは決まってる」

 これからいよいよ戦闘に入ることもあって、若干興奮気味に見える。エルゼリンデはふと気になった疑問を彼にぶつけてみた。

「でも、敵がその作戦に気がついたらどうするんですか? 包囲する前に逆に包囲されてしまったら、危ない気がするんですけど」

「それはないと思う」

 アルフレッドは彼女の危惧を即座に否定する。

「アスタール様の御隊を攻撃しつつ、こちら側の主力部隊を包囲できるほどの戦力など今のモザール軍にあるはずがない。なおかつ、あのアスタール様を自由にさせておいたら戦線を突破されて、要塞も攻略されるのは確実だし。何たって草原では殿下のご尊名を耳にしただけで震え上がって逃げ惑うって言われるほどだから」

 彼の口調は何故か我がことのように自信満々だ。

「それにアスタール様が陣頭にお立ちになられているとあっては、敵軍の功名心を刺激しないわけがない。こんな場で不謹慎な話だけど、もし仮にライツェンヴァルトの王弟殿下を討ち取ったとあらば、草原だけでなく周辺諸国にまで勇名を轟かせることになるから」

 きっとこれまでの勢力図を塗り替えるほどの大事件になるのは間違いない。アルフレッドは断言してから肩を竦めた。

「今回に限っては、ほとんど絵空事のような有り得ない話ではあるけれど。大体、この規模の戦争にこんな無駄に大きいばかりの兵力も、アスタール様御身自ら親征なさる必要もなかったんだし」

 言葉尻に微量の怒気がこもっているのを、エルゼリンデは耳に捉えていた。

「それに今、王都をお離れになるのは――」

 言いさして、アルフレッドははっと口を噤んだ。それから、ややばつの悪そうな表情で、咳払いをひとつ。

「失礼、話が過ぎた……まったく、君相手だとどうも口が緩くなってしまうようだ」

 人のせいにしないでいただきたい。



 護衛の方々に睨まれたこともあり、アルフレッドはほとんど一方的に話すだけ話して元の場所に馬を歩かせていってしまった。

 当分このまま動かないと大貴族のご子息は言っていたから、まだしばらくは見せかけの平穏が続くだろう。

 ところが、緊迫感なくのんびり構えていた矢先、前方からざわめきが伝播してきた。

 どうしたんだろう。エルゼリンデが眉を寄せていると、隊列がゆっくりと動き出した。

 すっかり気を緩めていたエルゼリンデも慌てて手綱を引く。周りを見ても、彼女と似たような反応をしている騎士が多いのが、ちょっとした救いだ。それでも急な進発に戸惑って前を行くレオホルト隊長を見ると、平静さを崩さず副官に何事かを告げて、前方に使いに出したところだった。

 隊列から切り離されるわけにも行かず、徐々に速度を上げて平原の中心部へと進んでいく。

 馬の蹄の音が大きく、間断なくなっていくにつれ、エルゼリンデの鼓動も跳ね上がっていった。

 いよいよ、本当の戦場へ向かうんだ。不安でもあり怖くもあったが、そうした感情はしかし、土煙とともに巻き起こった特異な高揚感に飲み込まれてしまった。

 エルゼリンデは無我夢中で馬を駆った。

 隊列はなおも加速していき、取り残されないよう必死だった。乾いた土色と周囲の緑が混じり合った景色が猛スピードで通り過ぎていく。冷たいはずなのに熱気を孕んだ風が頬に当たる。弓矢が空気を裂く音、人馬の叫び声、鎧の鳴る音、剣と剣の激突する金属音が間近に、生々しく耳に流れ込んでくる。戦場はすぐそこまで迫っていた。

「突撃だ!」

「奴ら、怯んでいるぞ! 押していけば勝てる!」

 前方の部隊から弾んだ声が聞こえてくる。とうとう第三騎士団が、敵陣に突撃を仕掛けたらしい。

 エレンカーク隊長やザイオンたちも、もう戦っているんだろうか。

 普段聞きなれない音の洪水に直撃され、くらくらしてきた頭の片隅で考える。それでも、以前盗賊の襲撃にあったときのように、周りに流されているようでは駄目だ。気を取り直すために一度深く息を吐き出し、レオホルト隊長の姿を視線で追う。とにかく指揮官の指示に従うこと――エレンカーク隊長に何度も念を押された言葉だ。

 兜から覗く鮮やかな金の髪は混迷とした風景の中でも見つけやすい。レオホルト隊長は隊列を御しつつ、先ほど放った副官からの報告に耳を傾けていた。形の良い眉が2、3度顰められたあと、隊長の口から指示が飛ぶ。

「これより南東へ向かう! 速度を上げよ!」

 その命令にどのような意図があるのか、エルゼリンデに理解できるはずもない。だが、とにかく馬の腹を蹴って手綱を繰り、隊列を乱さぬよう方向転換する。

 戦場の音と匂いが遠ざかっていったので、どうやら戦列を離脱していることは把握できた。一瞬逃げているのかなと思ってしまったが、もちろんそんなことはなかった。

 小高い丘を駆け下りた先に、敵軍と交戦中の部隊が見える。

「側面を討て!」

 号令とともに、騎士たちの雄叫びと、鞘から剣を抜き去る鋭い音がこだまする。

 急速に沸騰していく空気の中にあって、しかしエルゼリンデの体からは、高揚感や浮揚感がきれいさっぱり消え去っていた。

 どういうわけか、敵の姿を眼前に入れた途端に恐怖が体全体に圧し掛かってくる。

 手綱を硬く握り締めた手が痺れ、口の中が乾いていく。呼吸も鼓動も不規則に乱れているし、きっと顔も蒼白になっているに違いない。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 現実から隔絶されてしまったかのごとく、凍りつく。

 全身が心臓になってしまったかのように、どくどくと皮膚が脈打つ。

 呼吸まで止まりかけた瞬間、

「……剣を抜いてください」

 無感動な声が、彼女の中の停滞を打ち砕いた。すぐ後方を走るナスカの声だ。

 思わず肩越しに振り返ると、浅黒い肌の青年がこちらをひたと見据えている。寡黙な従騎士は、いつになく語気を強めた。

「剣を抜いてください。何のためにここへ来たんですか!」

 ぴくりと肩が震える。音が、空気が戻ってくる。

「何のため……」

 決まっている。戦うためだ。エルゼリンデは片手から力を抜いた。騎士として、家のために戦わなくてはならないのだ。

 ようやく生気の甦った頼りない新米騎士の様子を見たナスカが、珍しく安堵の色を滲ませたため息を漏らす。

「くれぐれも、私の仕事を増やさないでください」

 ぼそりと呟き、前進を促す。

 エルゼリンデは生唾を飲み込んでから、まだ震える右手を剣の柄にかけた。


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