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男装騎譚  作者: ヤナギ
第1幕 遠征編
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第5話

 夕刻。覚束ない足取りで兵舎へ戻ってきたエルゼリンデは、どうにかこうにか甲冑を取っ払うと、着の身着のまま寝台に突っ伏した。

「ううう……」

 噛み締めた唇の隙間から、呻き声が漏れる。

 疲れた、とにかく疲れた。

 全身が鉛になってしまったかのように、重い。体力にはそれなりに自信があったのだが、それも木っ端微塵に粉砕されてしまった。

 甲冑を着て、武器や荷物を背負ったまま行軍することが、こんなに辛いなんて思わなかった。

 今日の訓練は、王宮にほど近い森林の中を数十里歩き回っただけ。それでも全身が悲鳴をあげている。

 それにそれに。エルゼリンデはぐったりしたまま眉根を寄せた。

 ――騎士ってもっと、紳士的かと思ってたのに。

 ところが、実際は。



 それは行軍訓練の途中のこと。暑さと疲労で目が眩みかけ、よろめいてしまったエルゼリンデの耳に、両脇を固めた先輩騎士たちの声が飛び込んできた。

「おい、どうした坊ちゃん。もうへばったのか?」

「情けねえなあ。この程度でおネンネか」

「ま、お前さんみたいな小奇麗なお坊ちゃんは、男にケツ掘られてるほうがお似合いなんじゃねえの?」

「ははっ、そいつぁ違いねえ」

「おい、今度俺もお相手してくれよ」

 下卑た笑い声が起こる。

 エルゼリンデは男たちの言葉のほとんどを理解していなかった。だが、声の調子と下品な表情で、侮辱されていることは充分過ぎるほど伝わってきた。

 途端に、腹の底からふつふつと怒りがこみ上げてくる。

 馬鹿にして!

 エルゼリンデは先輩騎士たちを睨みつけると、足に力を込めて速度を上げる。

 そしてそのまま、怒りに任せて残りの行軍を乗り切ったのだった。



 思い出したらまた腹が立ってきたのか、眉間の皺がさらに深くなる。

 エルゼリンデの華奢な体に渦巻いているのは、疲労だけではない。騎士という職業に対する失望も、そこには含まれている。

 ――あの騎士様が特別だっただけで、あんな感じが当たり前なのかなあ。

瞼の裏に思い描かれるのは、幼き日の情景。

 あの時出会った騎士は、とても堂々としていて、優しく紳士的で格好良かった。思い出で多少は美化されているにしても。

 あの騎士は今、どうしているんだろう。エルゼリンデは思いを馳せる。父よりもずっと年上だったから、生きていれば現在はかなりの老齢だろう。もう騎士団を引退しているのかもしれない。

 寝台に寝転んだまま幼少時代の思い出に浸り、うとうとしていると。

 部屋の扉が勢いをたてて開いた。

「うわっ!? ……おい、ミルファーク、お前なあ」

 訓練から帰ってきたらしいザイオンが、呆れ声を同僚にぶつけてくる。

「鎧、脱ぎっぱなしにしておかないで、ちゃんと片付けろよ」

「うー?」

 エルゼリンデはごろんと寝返りをうって、扉の前に仁王立ちになっている少年を一瞥する。

 ザイオンの顔にも疲労の色は濃いが、少なくともエルゼリンデよりは元気そうだ。

「……ザイオン、元気だねえ」

「元気だねえ、じゃねえって」

 ザイオンは肩をすくめて、隣の寝台にどかっと腰を下ろした。

「お前がへばり過ぎなだけだよ。死人みたいに青白い顔してさ」

 甲冑の紐を手際よく解きながら、悪態をついてくる。そしてまたたく間に甲冑を片付けてしまったので、エルゼリンデものそのそと起き上がり、床に散らばった自分の甲冑を拾い上げた。

「お前、メシ食う元気あんの?」

 彼女を手伝いながら、ザイオンが訊ねてくる。

「メシ?」

 エルゼリンデは藍色の目を瞬かせて、ようやく夕食の時刻だということに思い至った。そうすると、たちまちお腹が空腹を訴えかける。

「そういえば、お腹すいた……」

 呟くと、ザイオンがたちまち噴出した。

「ま、メシ食う元気があるなら心配いらないな」

 なぜ笑われたのか分からず、憮然とするエルゼリンデの細い肩を叩いて、ザイオンは彼女を食堂に促した。





 おや?

 食堂に入るなり、エルゼリンデは首を傾げた。食事の時間だというのに、朝に比べて人が少ない。

 その疑問を、食事を受け取りつつザイオンに告げると。

「みんなへばってんじゃねえのか? お前みたいにさ」

「でもさ、怒られるんじゃないの?」

 朝食時の光景を脳裏に甦らせ、懸念に白い顔をちょっと歪める。

「別に夕食は強制じゃないって、さっき言われただろ」

「そうだっけ?」

 目を丸くすると、「話くらい聞いてろよな」とまた呆れられてしまった。

「疲れすぎてると食欲なくなるし、それにあとは寝るだけだから、食わなくても平気だろ。明日の朝しっかり食えばいいだけなんだからさ」

 なるほど。もっともな理屈に肯きつつ、受け取った食事の盆をしげしげと見下ろす。夕食は、根菜類のたっぷり入った麦粥と白身魚とキノコの蒸し焼き、それに白パンと水。朝食や昼食に比べ、淡白だし量も少なめだ。

「でさ」

 ちょっと物足りないかも、と考えたところでザイオンの声がかかる。

「今日の訓練、そっちはどうだったんだ?」

 エルゼリンデは不愉快な出来事を思い出し、つい食事の手を止めた。それをザイオンに打ち明けると、彼はやっぱりな、としたり顔で頷いた。

「お前、その顔だもんな。社交界では得かもしれないけど、軍隊では大損だよな……まあ、また何かあったら言えよ。っつっても愚痴聞くぐらいしかできそうにないけどさ」

「うん、ありがとう」

 ザイオンの好意に、エルゼリンデは何だかくすぐったい気分になった。それを振り払うように、今度はこちらから問いかける。

「ザイオンはどうだった? 怖そうな隊長のところだったけど」

「怖そうって、お前さあ、せめて厳しそうって言えよ。確かにエレンカーク隊長は、ものすっごく厳しいけどな。さっそく何人か潰されてたしさ」

 潰される? それは踏みつけられたりして、ぺしゃんこにされてしまったということなのだろうか。

 レオホルト隊長の分隊で良かったかも。エルゼリンデは妙な誤解したまま微かに身震いしつつ、麦粥を啜る。

「だけど、強くて公正だし、いい指揮官だと思う」

「そりゃどうも」

 にわかに降ってきた声に、エルゼリンデは椅子から飛び上がりかけ、白パンをかじっていたザイオンは噎せ返った。

「エ、エ、エレンカーク隊長!?」

 すぐ後ろに立っていたのは、褐色の髪と目を持つ痩身の男だった。ザイオンは噎せながらも立ち上がり、礼をとる。ぽかんと見上げていたエルゼリンデも立ち上がって同じ動作をした。

「そう畏まらねえで、座れよ」

 エレンカークはくだけた口調で、ザイオンの隣に腰を下ろす。

「た、隊長、なぜここに?」

 ザイオンがそう訊ねたのも当然だった。将軍、副将軍などの上級指揮官はもとより、隊長格でもいい部屋を宛がわれるし、食堂も食事内容も別のはずだ。

「堅苦しいのは性に合わねえんだよ。あと、食事もな」

 エレンカークは片頬に皮肉げな笑みを刻んで、自分の麦粥をぐるぐるとかき回す。

「俺は貴族じゃなくて、武人だ」

 落とすような呟きに含まれているのは、紛れもない騎士の矜持。ザイオンが短期間で彼に高い評価を下したのも分かる気がする。隊長の鋭気漲る横顔を見ながら、エルゼリンデも納得していた。

「――ところで」

 エレンカークの褐色の双眸がザイオンに向けられる。

「ザイオン、剣は誰に習った?」

「自分の祖父です」

「そうか。だったら祖父さんに感謝するんだな。なかなか筋がいい。鍛えようによっちゃあ、先頭に置いてやってもいい」

先頭に置く。それは戦いの際、斬り込み役として先陣を切ることを意味する。そのぶん命の危険も大きくなるが、やはり騎士たる者、先頭を任されることは大変な栄誉とされる。

「あ、ありがとうございます!」

 ザイオンは顔を軽く上気させ、エレンカークに頭を下げた。よほど嬉しかったのだろう、その黄土色の双眸がいつにもまして輝いている。

「で、そっちのこまいの」

 エレンカークの鋭い眼光が、今度は横でぼさっと傍観していたエルゼリンデの顔に置かれる。

「は、はひっ?」

 鷹のような目とは、まさに彼の目を言い表す例えだ。うっかりまともに視線を合わせてしまったエルゼリンデは、返事をする声を裏返らせた。

 も、もしかしたら自分もぺしゃんこに潰されてしまうんじゃ……

 危機感たっぷりに、しかし一度合わせてしまった視線をこちらから逸らすこともできず、青い顔のまま次の発言を待っていると。

「ミルファークと言ったか。今日の行軍訓練では、そんな体で先頭に食らいついてたって話じゃねえか。なかなか根性があると、イーヴォも一目置いていたぞ」

 予想もしなかった褒め言葉に、エルゼリンデは藍色の瞳を瞠った。ちなみにイーヴォとは、確かレオホルト隊長の名だったはず。

「へえ、お前、やるじゃん」

 ザイオンも感嘆の声をあげる。

「あ、ど、どうもありがとうございます……」

 あの時は下品な先輩騎士たちに対する怒りから、あそこまでむきになってしまっただけなのだが、褒められて悪い気はしない。エルゼリンデは頬を緩めて頭を下げた。

 すっかり気を良くした彼女の頭からは、今日起こった不愉快な出来事は消えつつあった。


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