第49話
「盗賊の襲撃に遭ったんだって?」
顔を見るなり、アルフレッドはそう言った。
幸いにも、次の日には遠征軍の一団に合流できた。当然もとの第三騎士団の列からは遅れてしまったのだが、なぜかアルフレッドの姿があって、エルゼリンデはびっくりしてしまった。
「無事でよかったな。見るかぎりは、だけど」
「あ、ありがとうございます」
エルゼリンデは恐縮気味に頭を下げる。まだ言葉を交わして間もないし、自分の家と比べるまでもなくとんでもない大貴族だし、いまいち接し方に要領を得ていないのだ。
「本当は」
アルフレッドがにわかに眉を顰めた。
「僕も行きたかったんだけど」
どこへ? と一瞬首をひねってしまったが、話の流れからして援軍のことだと察する。アルフレッドもレオホルト隊に所属しているのだから。
ローデン伯のご子息はたいそう不満げに吐き捨てた。
「彼らに止められたんだ。危ないって」
「彼ら?」
エルゼリンデはアルフレッドの視線を辿ると。少し距離を置いて、5人の身なりの良い騎士が探るような眼差しを彼女に注いでいる。
「護衛だよ」
面白くもないという態でアルフレッドが告げる。5人の護衛付きとは、さすがは大貴族だなあ。エルゼリンデは素直に感心したのだが、当の本人は真逆の考えを持っていた。
「護衛は要らないって言ってあったのに、余計なことをしてくれて……僕だって自分の面倒くらい自分で見れる」
アルフレッドの緑眼に、怒りともとれる光がきらめく。
「だからこの戦いでは、絶対に功績を上げてやるんだ。ローデン家の次期当主ならば、当然の義務だからさ」
口調は強かったが、表情には微量の苦みも見え隠れしているように、エルゼリンデには感じられた。次いで、いつかの王弟殿下の渋面を思い浮かべる。雲の上の人々には、下々の人間には到底忖度しかねる苦労や重圧があるのだろう。
「……あいつも、結構大変なんだな」
話を終え、馬をレオホルト隊長へと向けるアルフレッドの背中に向けて、今の今まで耳を澄ませて聞いてたらしいザイオンが呟く。エルゼリンデも「そうだね」と肯き、小さくなる背中をしばらく凝視していた。
「それはそうと、お前は大丈夫なのかよ」
「え?」
急に話を振られたエルゼリンデが藍色の目を軽く瞠る。ザイオンはちょっと言い淀んだ。
「あー、ほら、やっぱその……疲れてんじゃねえのかなっと思ってさ。あんなことがあったばかりだし」
前夜の襲撃事件のことを言い指しているのだと、すぐに分かった。同時に、気を使ってくれていることも。
「大丈夫、って言いたいところだけど」
ため息まじりに返す。空元気を装ったところで見抜かれてしまうのは明白だった。エルゼリンデはまだ昨夜の衝撃から立ち直るどころか、あれこれと考え込んで気持ちを塞いでいた。
「まあ、そうだよなあ。誰だってビビるよなあ。オレだっていきなり襲いかかられたら怯んじまって斬れないかもしれないし」
「……ザイオンは」
エルゼリンデが躊躇いがちに口を開く。
「人を斬ったことってある?」
この質問にはザイオンも驚いたようで、何度も目を瞬かせた。
「さすがにそりゃあねえな。すぐに機会はありそうだけど」
お前はあんのか? と聞き返され、エルゼリンデは勢いよくかぶりを振る。
「ザイオンはさ、ちゃんと戦えると思う?」
重ねて問いかけるエルゼリンデに、ザイオンは日焼けした頬を掻きながら答える。
「そりゃ、敵を手にかけられるって意味か? だとしたら、そうだな。確かにいい気分じゃねえよな。でも自分のとこの同胞ならともかく、相手は敵国だし、異教徒だし」
「……」
赤茶色の髪の少年は、ちゃんと割り切れていた。彼に比べて、自分のなんと不甲斐ないことか。
戦争には向いていない。
確かにそうだ。王弟殿下の言うことは正しい。けれども自分はその正論を意地と身勝手さで撥ね退けてしまったのだ。
どうしたらいいんだろう。これから、どうすればいいんだろう。自分の進む道は真っ黒い影に埋め尽くされている。
休憩時間中も、エルゼリンデはぼんやり地平線を眺めていた。
不安になった時、一番に思い浮かぶ顔がエレンカーク隊長だった。厳しいけど優しい隊長ならば、この不安に応えてくれるに違いない。
彼女の期待はすぐに叶えられた。半ば予想していた通り、エレンカーク隊長はエルゼリンデの様子を見に来てくれたからだ。気にかけてくれていることに一握りの嬉しさを覚えつつも、もしかして甘えてしまっているんじゃないかな、との思いもよぎる。
「どうした、随分と浮かねえ顔しやがって。とうとう怖気ついたか?」
故意に茶化すような言い方を、エレンカークはした。エルゼリンデは横に座った隊長に安堵感を懐きつつ、ぽつりと零した。
「……分からないんです」
昨日は剣も取れなかった自分が、本当にちゃんと戦えるのか。ナスカのように、敵に刃を向けることができるのか。
何より――「死」という恐怖に圧し潰されてしまいやしないか。
エルゼリンデの吐露を、隊長は黙って聞いていた。
「もしかして、私のせいで死んでしまう人が出てしまうかもしれない」
昨日のあの騎士のように、自分の心の弱さからくる死の恐怖ゆえに誰かを傷つけたり、ましてや死に至らしめたりしてしまったら。それが一番怖かった。自分が死んでしまうことも、もちろん怖い。だけど自分一人で済まされない事態になってしまうほうがもっと怖いし、嫌だ。
話しているうちに深い穴に落ちていきそうになる感覚が襲う。そんな彼女を引き戻したのは、エレンカークの静かな声だった。
「ミルファーク」
兄の名を呼ばれ、エルゼリンデが顔を上げる。
「お前は、何のために戦うつもりなんだ?」
いつかも聞いた台詞を、改めて隊長は放った。
何のために。考えて、思い浮かんだのは父と兄のことだった。エルゼリンデが性別を偽って、禁じられてる剣まで取ってこの遠征に参加したのは、もう家族を失いたくなかったからだ。
「ちゃんと目的は思い出したか?」
生気を取り戻し始めたエルゼリンデを一瞥し、エレンカークが片頬だけで笑う。
「守りてえもんがあるかぎり、人はそう簡単に脆くなったりしねえよ。だがその半面、そうやって支えがないとあっけなく折れちまう奴もいる」
独白めいているとエルゼリンデは思った。
「だから戦うんだろうな」
「だから……?」
いまいち前後のつながりを理解できていないエルゼリンデが少しかすれた声を上げる。
「守りてえもんを自分の腕に抱え込んでおくためにだ。誰も傷つけることなく自分の大事なもんを持ち続けるなんてことは、なかなか出来るもんじゃねえ。時に奪おうとする奴が現れたら、相手を傷つけても守り抜かなきゃならねえだろ」
もしそれが出来ない、したくねえってのならてめえの世界も何もかも捨てて修道院にでも入るしかねえな。エレンカーク隊長が断言する。
「てめえはどうなんだ? 修道院に入るのか?」
いつになく厳格な口調で訊かれ、エルゼリンデは唇を軽く噛んだ。修道院に入るということは、俗世を捨てること――家族も友人も、それまでの人とのつながりも全て捨てるというに等しい。
それはできそうになかった。大切なものも手放したくない。
無言で首を振る。
「だろうな」
エレンカークはすでに彼女の答えが分かっていたようで、肩を竦めただけだった。
「……私は、我儘なんでしょうか」
失いたくない。けれど、傷つけたくもない。その二つの思いを懐いているのは、中途半端で、我儘なのだろうか。
「皆そういうもんだ。お前一人に限った話じゃねえよ」
隊長は苦笑を閃かせたが、それも一瞬のことで、すぐに厳めしい顔つきに戻る。
「ただな、戦場じゃ勝手が違うことも頭に入れておけよ。どんなに大義名分を振りかざそうが御託をあれこれ並べようが、結局殺すか殺されるかしかねえんだ。守るために相手を殺す。それは敵も味方も同じだ。だからこそ、しっかり抱えるもんは抱えとかねえとあっという間に奪い取られちまう。わずかでも迷いが生じたら後がねえと思え」
覚悟を持て、強くなれ。エレンカーク隊長はそう言っているのだ。ずっと前、まだ王都にいた時にも投げかけられた言葉。あの時、自分は覚悟はできてると思っていた。それがどんなに甘く、絵空事の世界だったか。今のエルゼリンデには分かってしまっていた。
「……自信は、ありません」
エルゼリンデは正直に答えた。
「でも、家族のために頑張らなきゃいけないし、死にたくないです」
死んでしまったら、抱えているものも無くなってしまう。そうなったら意味がないのだ。彼女はそう結論づけた。
「それでいいんだよ」
エレンカークはあっさりと肯き、音もなく立ち上がる。そしてエルゼリンデに視線を落とし、笑った。
「安心しろ、死なせやしねえよ。お前がそう思ってる限りはな。だからお前は自分が生き残ることだけ考えてろ」
藍色の目を見開いて、隊長の顔を見上げる。なぜだか泣きそうになってしまい、エルゼリンデは慌てて目元に力を込めた。
「はい……頑張ります」
気力を総動員して、ようやくその一言を絞り出す。胸が締め付けられるように苦しい。でも、苦しいのに嫌な気分ではないのだ。
いったいどうしてしまったんだろう。戸惑う彼女の耳に入ってきたのは、エレンカークの呟きだった。
「守りてえから、戦う……か。誰でもそうだ。俺も、そうなのかもな」
強靭で厳格な口調が常の隊長らしくない、ひどく繊細な声音は、エルゼリンデの耳にいつまでも残った。