第24話
バーナルでの出来事があってから、エルゼリンデは笑顔を失ってしまっていた。
もしあの少年が、あのあと酷い仕打ちを受けていたら。それを考えると、胸がぎゅっと締め付けられるのと同時に、うしろめたさに浸されて、居ても立ってもいられなくなる。
自分のせいだ。
そう、自分があのときでしゃばっていなければ、あとで少年が余計な苦しみを味わうことはなかったのかもしれない。良かれと思ってした行為が、かえって悪い結果を生み出してしまうかもしれないこともショックだった。それに、自分のことを知っているらしい騎士のことも気にかかっていた。だが、名も知らぬ少年の行く末のほうがずっと、エルゼリンデの心に深い爪あとを残していた。
できるならば、今すぐにでもあの少年に謝りたい。だがもう一度再会できるとも限らないし、何より謝っても許されることではないだろう。結局はこうして自分の心の中だけで懺悔して、後悔するしかできないのだ。それも、エルゼリンデにとってはひどくもどかしいことだった。
昼食を兼ねた休憩中も、エルゼリンデは切り株に腰かけて一人悶々としていた。
最近は、夜もそればかり考えてしまって、なかなか寝付けなくなってしまった――それでも最終的には、いつの間にか眠っているのだけど。だけど、どうにもこうにもすっきりしない。
空は、こんなにすっきり晴れているのに。
白みがかった青い空を見上げる。この辺りは雨季と短くも厳しい暑さを過ぎれば、涼しく過ごしやすい季節になる。だからこそ、戦いには絶好の時期なのである。
そのままぼんやりと視線を上空に漂わせていると。
「ミルファーク」
鋭さを孕んだ声が、静かに耳を突き刺した。びっくりして首を動かすと、正面に厳しい表情をしたエレンカーク隊長の姿。
「……あ、す、すみません! 何か御用でしょうか?」
エルゼリンデは飛び上がらんばかりの勢いで立ち上がり、姿勢を正す。エレンカークは厳しい顔つきのまま舌打ちした。
「何があったか訊きたいのはこっちだ」
「……は?」
予想していなかった言葉に、思わず首を傾げて訊き返す。
「は、じゃねえよ。……ったく、お前の様子がバーナルを通過してからおかしいことぐらい、見てりゃ分かるんだよ」
エルゼリンデは藍色の双眸を見開いた。
「言っとくが、気づいてんのは俺だけじゃないぞ。ザイオンも不良騎士どもも、ヴェーバーや周りの連中だってそうだし、気も遣ってんだよ」
「……」
「やっぱり気づいてなかったな、その顔は」
いまだ目を瞠る彼女を、エレンカークが苦々しげに見据える。そのとおりだったので、エルゼリンデはぎこちなく肯いた。「もっと周りを見ろ」と続けられると、返す言葉もない。
「で、何があってそんな落ち込んでるんだ、お前は」
強面の隊長の鋭い眼差しに串刺しにされてしまっては、もはや黙っていることもはぐらかすことも不可能である。エルゼリンデはちょっと俯きがちに、ぽつぽつと先日の出来事を話し始めた。
「そうか」
腕組みしながら頼りない部下の話を聞き終わると、エレンカークは淡々と呟き、それからどこか呆れたような目を向けてくる。
「はっきり言うけどな、それはただの考えすぎだ」
エレンカークは断言したが、そもそもこの隊長がはっきり言わなかったことなんてあっただろうか。エルゼリンデはついそんなことを考えてしまった。
「お前が止めても止めなくても、また何かあったらその従者は鞭打たれるんだ。だったらお前があれこれ悩んだってどうしようもねえだろ。むしろ無駄なことだ」
手厳しい言葉に、エルゼリンデは少しばかり憮然とした。確かにそうなのかもしれないが、そこまで割り切れるほど彼女は大人ではない。
「お前が納得しようがしまいが、んなことは関係ねえ。もしそんな仕打ちを止めさせてえんなら、騎士のほうを改心させるか、従者を解放してやるかしかねえだろ。お前一人にそんなことができるわけねえし、そもそも単なる通りすがりのお前が、どうしてそこまでする必要がある?」
どうして? それを問われて、答えられないことを自覚する。エレンカークも彼女の答えを求めていないことは明らかだ。隊長は表情を和らげて俯いたままのエルゼリンデを見下ろし、軽く嘆息を漏らした。
「お前はあのとき、あの場でそれ以上従者が鞭打たれることを止めたんだ。だったらそれでいいじゃねえか」
「……そう、でしょうか……?」
エルゼリンデはのろのろと顔を上げた。
「その行動が正しいか間違ってるか、それを判断するのは常に他人なんだよ。だからお前が気にしたって仕方ねえ。今回はたまたま、お前の従騎士が間違ってると断じたわけであって、たとえばその場にいたのがイーヴォだったら、きっと称賛しただろうさ」
一言一言、諭すようにエレンカーク隊長は告げる。若いわりに分別のある隊長の言葉は、実のところエルゼリンデには良く理解できなかったのだが、とにかく「気にするな」と励ましてくれているのだろう。そう解釈することにした。
ようやく表情に生気が戻ってきたエルゼリンデを一瞥して、エレンカークはおもむろに褐色の髪をかき回した。
「にしても、お前を見てて苛々するもう一つの原因はこれか」
低い呟きは、彼女の耳にもしっかりと届いていた。どういうことなのか、エルゼリンデがおずおずと訊ねると、エレンカークはまた厳しい顔になった。
「これからお前も戦いを経験するわけだが」
戦い。にわかにその単語を出されると、自ずと粛然としてしまう。まだ少し先だということもあってか、うっかり忘れてしまいそうになるのだが、自分たちはこれから戦いに向かうのだ。
「もし、戦場で味方がお前の目の前で流れ矢に当たって死んだ場合、平気でいられる自信はあるか?」
「……」
エルゼリンデはその場面を想像して、顔面を蒼白にした。死体を見ること自体は珍しくもなんともない。自宅の近所でだって、凍死した浮浪者や強盗や刃傷沙汰で殺された人間の死体をよく目にしていたことだし。しかし、隊長に言われたような状況に置かれて平静でいられる自信はなかった。
「……あ、ありません……」
力なく首を振る。エレンカークはやっぱりな、と頷いた。
「お前のことだから、どうせ助けられなかっただの、また自分を責めるんだろうな」
そうかもしれないので、反論のしようもない。エレンカークは呆れた口調で続けた。
「ミルファークのような奴は、戦争には向かねえんだがな……だが後方に回すっつっても、どうもうちの団はそうはいかねえみてえだし」
どういうことだろう。エルゼリンデは不思議そうな表情を隠さなかったが、エレンカークは「とにかく」と強引に話題を戻した。
「お前は他人のことをあれこれ心配する前に、自分のことをもっとよく考えろってことだ」
「自分のことを……ですか?」
「そうだ」
いったい自分のことをどのように考えたらよいのか、エルゼリンデにはいまいちぴんとこなかったが、きっと問いかけたらさらに呆れられてしまうだろう。そう思うと、それ以上何も訊けなかった。
「は、はい」
とりあえず素直に肯いておいたが、
「……ま、分かっちゃいねえようだがな」
エレンカーク隊長にはお見通しだったようである。けれども咎めることはせず、それどころか微笑を覗かせたので、エルゼリンデは藍色の目を円くした。いつもの片頬だけの皮肉っぽい笑顔とも違う、柔らかい笑顔を見るのはこれで二度目だ。
「そろそろ出発の時間だな――ほら、行くぞ」
すぐにいつもの鋭い顔に戻ってしまった隊長に促され歩き出したものの、エルゼリンデはまたもや鼓動が速くなっていくのを感じた。それとともに今までの悩みが吹き飛んでしまうほど嬉しくなって、自分の心境の変化に、エルゼリンデ自身も変だなと首を傾げる。きっと、この場にアルツール・ヴァン・カルステンスがいれば、「やっぱり頭に風穴が開いている」と苦笑したに違いなかった。
エルゼリンデの所属する隊がフロヴィンシア城に到着したのは、それから半月後の夕刻のこと。
市門をくぐって、城下町の規模の大きさにエルゼリンデは目を輝かせた。以前カルステンスが教えてくれたとおり、王都ユーズに次ぐ都市なだけある。
「これが戦い前の最後の羽伸ばしになるから、しっかり楽しんどけよ」
エルゼリンデにもっともらしく諭してみせたのは、「未来の師匠」となる予定らしいシュトフである。エルゼリンデはその言葉を胸に、騎士に宛がわれた宿舎へと赴いた。宿舎は城塞の敷地内にあって、レークト城よりは部屋も広いらしい。まず馬を預けて、それから番号札を受け取る。この札に記された番号が、騎士たちがこれから15日間過ごす部屋となるのだ。
残念ながら、ザイオンやシュトフ、カルステンスらとは宿舎の建物からして別だった。エルゼリンデが向かったのは一番東側にある石造りの建物である。
「2階の右側、一番奥の部屋か」
今度は誰と同室なんだろう。どきどきしながら扉を開けると、二人部屋らしいその室内にはまだ誰も来ていないようだった。
エルゼリンデは若干拍子抜けしつつも、甲冑やらの荷物を樽の中に押し込める。
変な人じゃないといいなあ。夕食まで時間があるので寝台に腰かけて同室の騎士を待つことしばし。
扉の開く音とともに、すぐさまそちらに視線を注いで――驚愕と衝撃に、エルゼリンデは目と口をいっぱいに開いたまま、固まってしまった。
「――やあ、ミルファーク。久しぶりだね」
にっこりと花開くような笑顔を見せる、自分とあまり体格の変わらない騎士。それはセルリアン・ヴァン・イーゼリング少年であった。