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男装騎譚  作者: ヤナギ
第1幕 遠征編
18/97

第18話

 突如目の前に現れた雲上人であるはずの存在を、エルゼリンデは絶句したまま見つめることしかできなかった。

 ひと月前はともかく、今は「偉い人」だとしっかり認識している。だから本来ならば騎士の礼どころか、最敬礼をしなければならないところだ。だが、エルゼリンデは立ち尽くしたままだった。気持ちの整理どころか混乱から立ち直ってもいないうちに、新たな火種を放り込まれたような心境なのだ。礼を失していると自覚する余裕すら、彼女には与えられていない。

 そのことを理解しているのか、それとも単に寛容なだけか、現国王の弟は咎めるそぶりも見せず、悠々とエルゼリンデの前へやって来た。

「少しは逞しくなったかと思えば、あまり前と変わらないな」

 良いのか悪いのか、と頭のてっぺんから爪先まで視線でひと撫でして呟く。

 そこでエルゼリンデはようやく驚愕の嵐の中から半分だけ抜け出した。

「どど、どうして、こっここここに王弟殿下が!?」

 素直な心情が、不躾なまでにそのまんま口をついて出てくる。

 態度と同様、礼をわきまえない口の利き方になってしまったが、アスタールは気に障ったふうでもなく、淡々と答えた。

「ここは城内だし、何よりこうして遠征の途についているわけだから、どこにいたっておかしくあるまい」

 言われてみれば確かにその通りだ。エルゼリンデは頷きかけて――はっとした。

「……って、おおおおおおおおうっ、おお王弟殿下!? れれ、礼もとらずに申し訳ありません!」

 混乱に目を回しながら、顔を蒼ざめさせ、あたふたと膝を折る。新米のにわか騎士とはいえ、主君たる王家の人間に礼節を失するなど、この場で斬刑に付されても文句を言えない。

 ああ、今度こそ、腰の剣でばっさりとやられるかもしれない。

 後悔半分、覚悟半分で両目を固くつむったエルゼリンデの頭上に降ってきたのは、しかし複雑そうな声音と嘆息だった。

「……別に今更、お前の態度を咎めても仕方ないだろう。そうならば既にひと月前にやっているはずだ」

 とにかく立て、と促されてエルゼリンデはどうにかこうにか立ち上がった。緊張と混乱で、何だか頭が痛くなってきた。

「それにしても、懸念が現実になるとはな」

 アスタールがしみじみと述懐する。その言葉を耳に入れて、エルゼリンデは王弟殿下が自分のことを覚えているのだと悟った。そうすると、たちまち気まずさがこみ上げてくる。ひと月前も、ちょっと、いやかなりどきりとしたことを言われたし。

 アスタール殿下は、あのときと変わらぬ湖面のような蒼い双眸でエルゼリンデをじっと見ている。

「まあ、今のレオホルト男爵の場合は、それに当てはまってはいないのだろうが」

 苦笑混じりに放たれた一言に、エルゼリンデは身を竦めた。忘れていた、いや、意図的に追い出していた先ほどの出来事が甦ってきて、恥ずかしいような申し訳ないような気持ちが背中を駆け上がってくる。

 顔を困惑に染めた彼女を見下ろして、アスタールはまったく別のことを口にした。

「ところで、昼食はもう終えたのか?」

「え?」

 唐突に生活感のある台詞を言われて、藍色の目をぱちくりさせる。

 昼食。それを聞くとたちまちにお腹が空腹を訴えかけてくるものだから、自分の精神は結構図太いのかもしれない。

「ま、まだ、ですけど……?」

 なぜそんな質問をされるのか分からなかったが、とりあえず正直に答えてみる。するとアスタールは肯き、

「分かった。しばらくここで待っていろ」

 そう言い放つと、おもむろに城内のほうへ歩き去ってしまった。

「……え? ええっと……」

 訳もわからず、エルゼリンデは首を傾げた。どうしたものか。眉を顰めたが、待っていろとの命令を受けたからにはこの場に留まらなくてはならない。本当は独りになりたかったのだが、王弟の命だ、逆らったらどうなるか……考えるだに恐ろしい。

 エルゼリンデは手近な樹木の幹に背を預け、ずるずるとへたり込んだ。

 頭の中で、レオホルト隊長の、切羽詰った顔が再生される。

 ――好きだって、何で自分を?

 それが第一にして最大の疑問だった。自分は男だってことになってるし、それに、知り合ってまだひと月であるうえ、言葉を交わす回数だって決して多くはなかった。それなのにどうしてだろう。

 好き、ということ自体は知っている。エルゼリンデだって父や死んだ母、兄、友人のコージマやイングリットたちのことは大好きだ。でも、そういう家族や友人に懐く「好き」と、レオホルトに言われた「好き」とが違うことくらい、自分にも分かる。

 ふと、セルリアンのことを思い返した。彼にも可愛いとか何とか、若干似たことを言われた。しかし両者が決定的に違うのは、エルゼリンデに対する態度だ。セルリアンが人を食ったというか、揶揄半分であったのに比べると、レオホルト隊長のそれは、どこまでも真面目で深刻だった。

 そう、真剣だったからこそ、余計に自分の中でどう処理をしたらいいのか分からない。

 ――もしかして、傷つけた…のかも。

 脳裏に「何も言わないでくれ」と痛ましい表情で告げた、隊長の顔が浮かぶ。あのとき自分は動揺しすぎて、どんな顔をしていたのかもさっぱり把握できてなかったのだ。

「うーん……」

 眉間の皺を深くして、膝を抱える。



「何を変な顔して唸ってるんだ?」

「ふわうぇっ!?」

 突如頭上に落とされた低い声に、エルゼリンデは驚いて身じろぎし、勢い余って後頭部を木の幹に打ちつけてしまった。

「何をやってるんだか」

 頭を押さえて俯く彼女を、アスタールは呆れた眼差しで見下ろす。慌てて立ち上がろうとするエルゼリンデを目で制して、彼も隣に腰を下ろした。そして、片手に抱えていた籠と瓶を彼女の前に置く。中身は白パンと、骨つきの羊肉と玉葱の香草焼きの入った器、そして白い布にくるまれた小さな包み。

 エルゼリンデはそれらを確認すると、藍色の目を瞠ったまま横の王弟を見上げた。

「……これは?」

「見て分からないか、飯だ」

 さらに目を見開く。昼食がまだ、ということで王弟自ら持ってきてくれたのだろうか。

 思いがけない僥倖? に戸惑っていると、

「食わないのか? 早くしないと冷めるぞ」

 アスタールが訝しげに訊ねてくる。エルゼリンデは慌ててかぶりを振った。

「あ、ありがとうございます。ええと…いただきます」

 ぺこりとひとつ頭を下げてから、遠慮がちに羊肉に手を伸ばす。胡椒と赤ワインで味が調えられているため、羊肉独特の臭みはかなり抑えられている。

「美味しいですね、これ」

 つい感嘆の声を零してしまう。それは良かったとアスタールは微笑し、自分も玉葱を摘んで口に放り込む。

「で、どうするんだ?」

「はい?」

あまりにさりげなく、脈絡のないことを訊かれ、エルゼリンデは羊肉を食べる手を止めて首を傾げた。

「さっきのレオホルト男爵の」

「あっ」

 アスタールが言い終わる前に、問われた内容を把握して、エルゼリンデは思わず声を上げていた。そうしてから、物憂げに肩を落として――

「……そういえば、殿下はずっと、その……聞いていらしたんですか?」

 少しばかり言いにくそうに、降って湧いた疑問を口に上らせる。アスタールはやや憮然とした面持ちで答えた。

「言っておくが、先にこの場にいたのは俺のほうだぞ。人目のない場所で昼寝をしていたところにお前たちがやってきてあんな会話を始めるものだからな。おかげで動くに動けず、やむなくそのまま一部始終を聞く羽目になったというわけだ」

 そ、そうだったのか。何とはなしにエルゼリンデは恥じ入ってしまった。アスタールは蒼い目を動かしてエルゼリンデをちらりと見やる。

「聞いた限りではレオホルト男爵は本気のようだ。彼は何も言わなくていい、と言っていたから、そのまま放っておくなり断るなりはお前の自由だがな」

 話を振ってきたにもかかわらずまるっきり他人事の口調だったが、この王弟殿下にとっては他人事にほかならないのだ。

 一方、当事者になってしまったエルゼリンデは気の重さを隠そうともせず、ため息を漏らした。

「放っておくのも、だからと言ってお断りするのも……わ、悪いというか申し訳ないというか……」

 また、傷つけてしまったらどうしよう。その思いから呟く声も歯切れが悪くなる。

「お前は馬鹿だな」

 しかしアスタールは容赦なかった。

 王弟殿下から馬鹿呼ばわりされ、エルゼリンデはむっとする以前に唖然としてしまった。アスタールはなおも無慈悲に言い放った。

「馬鹿で、おまけにガキだ」

 ……何も馬鹿って二回も繰り返さなくても。王弟殿下は存外、口が悪いらしい。エルゼリンデは傷つけばいいのか驚けばいいのか、感情の置きどころに迷った。

「誰しも、傷つかず、傷つけられずに生きていくことなど不可能だ。時には傷つけるのを覚悟で、それでも自分の意思を貫かなくてはならない場面も出てくるだろう。それが分からないうちは、いつまでも子供のままだ」

 アスタールは冷静な口調でエルゼリンデに語りかける。

「それに、他人がどういったことに傷つくかなど分かりはしないものだ。お前だって、今回のことばかりじゃなく、今までも自覚なしに誰かを傷つけているだろうからな」

 指摘されて、エルゼリンデは長くない半生を思い返してみた。他人には優しくあれという父の教えもあってか、そんなに酷いことをしてきたつもりはない――はずなのだが。

「……覚えがないという顔だな」

 アスタールが鋭い眼差しで彼女の胸の裡を言い当てる。エルゼリンデはぎくりとしてしまった。

「そ、そういうわけじゃないですけど……」

「そうだろうな。絶対にあるはずだ」

「……?」

 やたらと力強く断言され、エルゼリンデは僅かな違和感を覚えて首を傾げた。

 アスタールは何事もなかったかのように話を続ける。

「だいたい、傷つけ、傷つけられる――その覚悟なしに戦場で生き抜くことができると思うか?」

 痛い部分を、言葉の刃で思い切り突かれ、エルゼリンデは声を失くした。

 王弟殿下の言う通り、戦場では「傷つく」という、その種類も程度も遥かに異なるのだ。こんなことでウジウジ悩んでいるようでは、この先に待ち受ける戦いには到底参加できないし、できたとしてもうろたえる、立ち尽くす以外の未来が思い浮かばない。

 食べかけの白パンを手に絶句したままでいるエルゼリンデを、アスタールは横目で一瞥した。

「まあ、こればかりは当人同士の問題だからな。お前が自力で何とかするしかない」

 突き放した口調ながら、まったく非の打ちどころのない正論だった。


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