第12話
翌日。朝の訓練に、ガージャールら三人の姿はなかった。
同僚の騎士たちの口に上った噂では、深夜に兵営からの脱走を試みるもあえなく発見、捕らえられ営倉送りになったとのこと。
おそらく、事件の背景にはエルゼリンデが関係している。第三騎士団内、特に同じ分隊の者は例外なくそう確信しているのだろう。おかげで練習試合でも騎馬での模擬戦でも、皆の態度は一様によそよそしく、冷淡だった。
彼らの読みは、確かに正しい。でももともとは向こうから仕掛けてきたのだ。それなのにどうしてこんな仕打ちを受けなければならないんだろう。釈然としないエルゼリンデの脳裏に、いつかのセルリアンの言葉がよぎった。
――逆恨みされて余計に嫌がらせが酷くなる。
これが、そういうことなんだろうか。エルゼリンデの胸中に、うそ寒い風が吹きぬけていく。
だが。
気にしちゃ駄目だ! エルゼリンデはふるふると亜麻色の頭を振って、嫌な気分を追い払った。
気にしない、気にしない、堂々としてなきゃ。
呪文のように唱えながら、深く息を吐き出して動揺を鎮める。
強くなれ。
昨夜、厳しくも温かい隊長が諭してくれた言葉が、強い眼差しが甦る。そうすると、自然と背筋が伸びて、気持ちがしゃっきりしてくる。
その日の訓練中、エルゼリンデは一度たりとも俯かなかった。
騎馬での訓練を終え、各自の馬を厩へと戻す。エルゼリンデも自分の馬を小屋へ入れるが、なかなか厩にすら近寄れず、終わった頃にはすっかり誰もいなくなってしまっていた。
作業を終え、兵舎に戻ろうと踵を返しかけたところで、
「ねえ、ミルファーク」
声変わりもしていないような高い声が届いた。振り返らずとも声の主は分かっている。セルリアンだ。
「何?」
エルゼリンデは若干の警戒を込め、セルリアンを顧みる。少年は柔らかに微笑んだ。
「ガージャールたちがいなくなってよかったね」
「…………」
笑顔とは裏腹に、口調には小さな棘が含まれていることに気がつく。
「……それが、何か?」
うん、よかった――などと軽々しく言えたものではない。彼らの身から出た錆とはいえ、後味の悪さは彼女の中にも残っている。
「べっつにー。ただ、今日は何だか落ち着いてるからさ」
セルリアンは、狼狽の片鱗も見せないエルゼリンデに少々鼻白んだ様子だ。
「だからてっきり、あいつらがいなくなって清々してるのかと思って」
彼の言い草にムカッとするも、言い返すのはぐっとこらえる。すると、大して背丈の違わない少年は、エルゼリンデを覗き込むように上目遣いをした。
「もしかして、とうとう告げ口したの?」
無遠慮かつ嫌味ったらしい口調でセルリアンが囁く。エルゼリンデは数秒前の努力も空しく、「違うってば」と声を高くしてしまった。
「へえ、そうなんだ」
ようやく望んだ通りの反応が返ってきたのが嬉しかったらしく、セルリアンの顔に華やかな笑顔が咲く。
「ならいいんだけど、でも周りはみんな君がレオホルト隊長に告げ口したって思ってるから。用心するに越したことはないよ」
「そんなことぐらい、言われなくても分かってるから」
エルゼリンデは少年の忠告に憮然とする。しかしセルリアンは気を悪くするどころか、くすくすと笑い声を立て始めた。
「あはは。やっぱりミルファークは面白いなあ」
面白い? エルゼリンデは理解できずに眉根を寄せる。
「そうやって戸惑ったり慌てたり、怒ったりしたところもいいけど」
いつの間にかセルリアンの笑顔が目と鼻の先まで迫っている。エルゼリンデはただただ呆気に取られてその可憐な顔を見返すだけ。
「何より、怯えて弱気になってるところが、一番可愛いかな。もう、食べちゃいたいくらいにね」
「かっ……!?」
か、可愛いって? 食べちゃいたいって!?
エルゼリンデは突然の爆弾発言に、文字通り目を回してしまった。可愛いと食べたくなるってどういうこと? 美味しそう、なら分かるのに。そ、そういえばこれと似たようなことをこの前誰かに言われたような。いやでもそんな、と、共食い!? 共食いってこと?
微妙に的を外したことで混乱するエルゼリンデの頬が、するりと何かに撫でられる。
「ふわぅっ!?」
驚愕のあまり奇声を発し、その場を飛び退く。セルリアンの白い指が、彼女の頬を撫でたのだ。
「あー、可愛いなあ」
その狼狽っぷりを見て、セルリアンはいっそう笑みを深くする。と、今度はすっと両手を伸ばし、エルゼリンデの頬を挟んだ。エルゼリンデは混乱の真っ只中に放り込まれ、その手を振り払うこともできないほど固まってしまっていた。
セルリアンが妖艶に微笑む。
「この先辛いことがあったら、いつでも僕のところへおいで。たっぷりと慰めて、可愛がってあげるから」
少年の蠱惑的な声に、ぞわっと鳥肌が立つ。
「今まではされる側のほうが好きだったけど、君を見てるとさあ、何かこう、虐めたくなるんだよね。だから君とだったら、する側も悪くないかも」
セルリアンは自国の言語を話しているはずなのに、エルゼリンデの耳にはもはや異国語にしか聞こえない。ほとんど思考を停止させた彼女に、少年はもう一度妖しい微笑を送り、手を離した。
「そろそろ戻らなきゃ。じゃあまたね、可愛いミルファーク」
そう告げると、エルゼリンデの頬に口づけ、軽やかに身を翻す。
エルゼリンデはキスされたことにも反応できず、ひたすら茫然とその後ろ姿を見送る。彼女の中で、セルリアンはもはや得体の知れない人物となっていた。
ああ、びっくりした。
部屋に戻ってからも動悸は治まらなかった。いったいセルリアンは何を考えているんだろう。可愛いとか食べちゃいたいとか、おまけに頬にキスまで!
もしかして、女だって気づかれてる……とか?
エルゼリンデの胸中に一抹の不安が掠める。しかしすぐにかぶりを振った。もしも仮に察しているならば、必ず何かしらの動きがあるはずだ。明文化されていないとはいえ、女が剣を取ってはならないことは、この国では暗黙の了解である。だからこそエルゼリンデは疑われずに入団できた、という一面も否定できないが。
それにセルリアンは、彼女が男であることを前提にしているかのような話しぶりをしていたし。でも、だとすると。
……頬にとはいえ、男が男にキスするもんなの?
レオホルト隊長のことといい、さっぱり理解不能だ。
男の人って、よく分からない。エルゼリンデは夕食時も気をそぞろに、そんなことを考えていた。
はっと、我に返ったのは夕食を終えてひとり部屋に戻る途中でだった。
――もしやる気があるんなら、明日の夕食後、またここへ来い。
エレンカーク隊長の言葉を思い返す。訓練が終わるまではしっかり覚えていたのに、セルリアンの変な行動のせいで今の今まで吹き飛んでしまっていたのだ。
エルゼリンデはすぐさま回れ右をして、兵舎裏へと駆け出した。
もうとっくに、決心はついている。今更引きかえすわけにもいかないし、父や兄にも会わせる顔がなくなってしまう。
月明かりを受けて物置小屋の姿がぼんやりと大きくなっていき、宵闇に目を凝らす。と、隣の建物の壁に寄りかかっている人影が見えた。
「来たか」
その声に打たれ、エルゼリンデの体に緊張が走る。エレンカークは壁から背中を離すと、彼女の前へ立ちはだかる。
「ここへ来たってことは、覚悟はできたか」
エルゼリンデは顔を強ばらせたまま、無言で肯く。それを見届けてから、エレンカークは手にしていたものを彼女の足元に放った。
「取れ」
言われるままに屈みこむ。それは練習用の木剣と盾だった。半ば反射的にそれらを手にして、エレンカークのほうを不思議そうな面持ちで見やる。彼は壁に寄せてあったランプに火を点したところだった。
「ま、この程度の明かりでもあるだけマシだろ。最初のうちはな」
そう呟きつつ、自らも木剣を取り上げる。
練習用の木剣と盾、そして今の台詞。それから類推されることは、つまり。
「も、もしかして……稽古をつけてくれるんですか?」
「お前、今頃気がついたのか?」
半信半疑に訊ねると、エレンカークは呆れ顔でそれを首肯する。エルゼリンデは飛び上がらんばかりに仰天した。
「ええっ!? で、でででもそんな、いいんですか?」
隊長が、一介の新兵に個人的かつ直々に稽古をつけるなんてことをしても差し障りないんだろうか。そもそもどうしてここまでしてくれるんだろう。
エルゼリンデの表情から言葉の裏に隠された疑問を読み取ったのか、エレンカークは呆れ顔を崩さぬままにため息をついた。
「あのな、昨夜も言ったとおり、俺はお前を見てると苛々すんだよ」
ううっ。エレンカークのきつい発言に怯んでしまう。淡々とした口調とはいえ、面と向かって言われると胸にズキっとくるものだ。
そんな彼女に構わず、エレンカークはさらに続ける。
「昨日の一件からするに芯があるのは分かったが、世間知らずで危なっかしいうえ、棒っきれみてえにひょろくて吹けば倒れそうだしな。そんなんじゃ、いくら精神面で強くなったとしてもこっちの気が安まらねえ。ならいっそのこと物理面でも鍛えりゃ、少しはマシになると思ってな」
要は、俺が苛々しねえために稽古をつけてやるってことだ。隊長の言葉に、エルゼリンデは唖然とし、次いでがっくりした。見どころがあるとか、将来性があるとかそういう理由ならともかく、よもや隊長の精神的な平穏のためとは。なんだか情けなくなってくる。
思わずエルゼリンデが肩を落としていると、エレンカークの情け容赦ない声が飛んだ。
「それに、体の小せえ奴はそれ相応の戦い方があるんだ。でけえ奴と同じことをしても無駄なんだよ。そういうわけで、さっさと始めるぞ」
その眼差しは、鋭さを増している。そういえば、いつだったかザイオンも、エレンカーク隊長は物凄く厳しいって言ってたっけ。潰されたとかなんとか。
「は、はい!」
ザイオンとの会話を思い返しながら、返事をして木剣を構える。
そして、エルゼリンデはその厳しさを身をもって体験することになる。