第0話 大自然で一人、コーヒーを飲む。
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下記注意書きに不安を覚える方は、お戻りになられる事をご提案させて頂きます。
・三人称。
・無駄な長文。
・喫煙描写。
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※見切り発車の投稿の為、修正をする事がございます。
視界を遮る森を彩る木々を抜けると、目の前に広がるのは、全体を一度に捉えられないほどの大きな湖であった。
遥か彼方の対岸には、うっすらと建物が――おそらく小規模な村のもの――が見てとれる。
それらの奥には黄色や赤に色付いた山が連なっており、人工物の姿は電線一本見当たらない。
そんな水際まで枝葉が影を落とす此岸の、十メートル四方程の陥穽を思わす空地に足を踏み入れたのは、一人の男だった。
身長はおおよそ百七十センチほどの、黒髪の男。
肉付きは薄く、身長と相まって『針金』と揶揄される様な細さ。手足が長いのもそれに拍車をかけていた。
三十代半ばと思わせる、シワの刻まれた顔立ちだけならそれなりの素材と思われた。
しかし、近年の流行を無視したような中途半端な縦幅のメガネを掛け、アゴ周りにうっすらと無精ひげを浮かせているその顔立ちは、四十を優に超えているように見受けられる。
レンズの奥の目は、しっかりと開けきっていないからかけだる気な印象で、覇気といったものを微塵も感じられなかった。
服装は簡素。
端の所々に、よれやほつれ、シワなどが入った、着古したワイシャツを着ている。同じく着古したスラックスには、緑掛かったグレーの素地に落としきれない汚れが数か所こびり付いていた。
ワイシャツは普通のモノであったが、スラックスはスーツのものでは無く、工場などの作業員が履くような、いわゆる作業着として作られた物だった。
それらと相反して、靴は新品そのものと言った真新しいトレッキングシューズ。茶色い革製で、靴底だけを専門に作っている会社の物が使用された、五桁は下らない逸品だ。
だが、腕に巻かれている黒い多機能型腕時計は非常に安っぽい。材質などを見るに、百円ショップなどで数百円の値がついている安価物と思われた。
そして、彼の背幅からはみ出して、尻までも隠すほどの大判のリュックはこれまた高級品だった。
素材はもちろん縫製もしっかりしており、容量の半分ほどしか荷物が入っていないのか、上部半分ほどが潰れて平たくなっているが、荷物の詰まった下部はしっかりと作り込まれていることを伺わせていた。
これら頑張っている部分と、だらけている部分を総合して、この黒髪の男の第一印象は「冴えないオジサン」であった。
男は、しばらく眼前に広がる光景に目を奪われていたが、やがて自分がこの場に足を踏み入れた理由を思い出した。
今日は、日頃の疲れを癒やしに、キャンプに来たのだ。
その為の靴であり、その為の荷物を詰め込んだリュックだった。
男は、スネほどの高さの古びた切り株の脇に、背負っていたリュックを下ろすと、中身を取り出していく。
黒い化学合成繊維で作られた、二リットルのペットボトルほどの長さの袋や、その二回りほどの大きさの袋。持ち上げると軽い金属音がする袋など、様々なものを取り出していく。
すべてを広げきった後に男が手に取ったのは、黒い筒状の袋だった。
長辺を走るジッパーを開いて取り出されたのは、長い金属の棒が数本と、歪な形状の布が一枚。金属棒はよく見ると一塊に繋がっていた。
棒の内部を太めのゴムが通っており、緩く掛かった張力の赴くまま組み上げると、一つの部品が完成する。
それは中央の横棒の両端を、二つの✕字の交差点に差し込んだような物だった。
両端の✕字の下端を地面に設置すると、男は同梱されていた布を手にとって正面に立った。
出来上がった部品の手前側に来ている✕字の上端は短く、奥に伸びている上端は倍以上も長い。
男は布を広げて一度はたくと、向きを確認しながら四隅の穴に金属の部品を取り付けていった。
出来上がったのは、布の四辺は張り伸ばされ、中央付近タルんだ、一見なんだか分からない何か。
しかし男はその物体を満足そうに眺めると、背中を向けて腰を下ろした。
男が組み上げた物の正体は、椅子である。
アウトドアという趣味において、様々なメーカーが商品を開発しているが、とある有名メーカーが生み出した、軽量かつ携帯性に優れた新機軸の椅子が、これだった。
椅子でありながら尻をすっぽりと包みこむゆったりさは、ハンモックに腰掛けるような柔らかさを持ち、のんびりとした時間を過ごすにはうってつけだ。
「これは……思った以上に良いなあ」
漏らすように小さく、感動の声を上げる。
背もたれにはメッシュ素材が使われ、長時間の着席時の湿りにも対応している。
地面についた足に力を入れてみると、短く揃えられた四本の足がきちんと体重を支えており、強度的にも問題はなさそうだ。
軽く前後に体を揺らしながら、男は目前に広がる景色を見やる。
先ほどと変わらない湖と空の青。遠くを彩る山々の黃や緑や赤。
変化の少ない光景は、時間という概念を置き去りにしたようで、それは男がこの場所に求めたものだった。
ふいに男が腰を据えた空地に風が吹いた。
秋が近づく今の季節は、暖かさの中に冷たさが差し込まれる。
ここまで歩いてきた男は汗をにじませおり、それが冷えたせいか体を震わせた。
温かいものが欲しくなった男は、根の張った尻を上げ、広げられた道具たちから一本のボトルを手に取った。
マラソンランナーが給水の為に使うような柔らかいボトル。飲み口と思われる部分の形状が少し特殊で、何やらボトル内に長細い部品が入っていた。
ボトルの口を回し、中の部品ごと取り出すと、男は目の前の湖の水を汲んだ。
再び部品ごと飲み口をくっつけると、再び椅子に腰を下ろす。
椅子の横にある切り株にボトルを立てたあと、男が荷物から取り出したのは、五百ミリリットルサイズのペットボトルと、何やら加工がされた、アルミ缶だった。
ペットボトルは取り立てて言うことはない。ラベルは剥がされ、透明なボトルの中には、やはり透明な液体で八割ほど満たされている。
缶の方は、元の形状そのものではなかった。
元は金の塗装と、商売にまつわる神が描かれていた三百五十ミリリットル缶は、その中ほどから横一文字に切り離され、下の缶に上の部分が押し入れられている。まるで、高さを縮める為の加工のようだった。
本来プルタブが付いているはず上蓋は全てくり抜かれ、何かの器にも見えた。しかしその側面、唇が触れるであろう直径よりもすぼまった斜めの部分には、一ミリほどの穴が等間隔で開けられていた。
男は取っ手が周囲に沿うように作られた片手鍋に、先程の湖の水を飲み口から押し出すと、今度はペットボトルの液体を缶に注いだ。
ワイシャツの胸ポケットに入っていた百円ライターの火を缶の上に近づけると、燃え広がる音とともに、缶の中身に火が灯った。
しばらく中央に開けられた口から火が燃えていたが、次第に沸騰音がし始め、今度は缶の上部と下部の隙間から、火が吹き出した。
先程の上の口から上がっていた弱々しい火とは違い、側面から吹き上がる火は、家庭のガスバーナーと遜色ない強さだ。
予め用意してあった片手鍋を缶の上口を塞ぐように置くが、火の強さは衰える事はない。
一旦鍋から目を離し、切り株の上に用意したのは、良く見るプラスチック製のコーヒードリッパーとフィルター、片手鍋と同じように持ち手が側面に沿うようになっているステンレスのマグカップ。そして既に挽かれたコーヒ豆だった。
準備を整え、後は湯が湧くのを待つだけになった男は、切り株の上に放っておいたライターを手に取った。
続いて胸ポケットからタバコの箱を取り出すと、中から一本引き抜いてそれを口に銜えた。
小さい燃焼音と共に、タバコの先端に火が灯る。
ゆっくりと、吸う力を抑えながら長く長く煙を口内に溜めていく。
ある程度口内が煙で満たされると、タバコから口を離し、深呼吸の要領で煙を肺に満たす。
今度はゆっくりと息を吐く。すると、白い煙が口から吐き出され、眼前に広がったかと思うと、周囲の空気と混ぜ合わさって掻き消えていった。
体を包み込むような椅子の座り心地と、汗をかかない程度の暖かさに混ざる冷たさ。煙が喉を通るときの鈍いしびれと、指に挟んだタバコの火口から燻る細い煙の揺らめき。
目の前の光景は、樹木の横縁に色彩様々な自然がまるで大きな絵画のようで、湖面を撫でる風が奏でるさざなみと、後ろに広がる森から時折聞こえる鳥たちの歌声が心地よい。
来て良かった。
男は心からそう思った。
タバコを数口吸っていると、鳥の囁きに混じって、沸騰し始めた音が交じる。
そろそろ沸く頃を悟った男は、手早くコーヒーを入れる準備を整える。
鍋の底から吹き上がる気泡が大きくなった頃を見計らい、お湯をドリッパーに注ぎ入れる。
最初は少し、時間を空けてから今度は徐々に湯を注ぎいれ、お湯が落ちきるのを待つ。
忘れずに火を消し止めて、ドリッパーをマグカップから外せば、鈍い銀の中に波打つ黒があった。
取っ手をつまみ、数回息を吹きかけたあと、唇をカップの縁に当てる。
男は猫舌のようで、それを何度か繰り返したあと、適温になったカップに口を添わせて傾けた。
確かな苦味と僅かな酸味が口内に広がった。
口中を満たす鈍い痺れが苦味の痺れで洗い流されるのを感じながら、次第に喉元から体の中心を通る温かさに意識を向ける。
そうして再びタバコをに火をつけた。
肺を満たす煙、口内に広がる苦味。それらを交互に味わっていると、次第に口の端が持ち上がるのを感じた。
詰まるところ、これらは自己満足に過ぎない。
けれど、満足は心を癒やす必要不可欠な物だと感じた。
やがて、コーヒーを飲み切り、タバコが根元のみとなった頃。男は体を巡る充実感が溢れんとばかりに真上を向いて、吸い込んだ息を大きく吐き出した。
すると、見上げた青空の端に、何かが写り込んだのに気がついた。
それは小さく何かの影で、高い空を飛んでいるようだ。
焦点を合わせ、近付くその影を探る男。正体に思い当たった男の目が大きく見開かれた。
「うっわあ、あれが本物のドラゴンかあっ‼」
上空にあるため全長は計り知れないが、それはまごうこと無き紛うことなき、ドラゴンの勇姿だった。
暗いが鮮やかでもある青い体色は、空の青さを凝縮したようで、腹部の白さは純粋な白では無く優しいクリーム色をしていた。
巨大な体から下方に伸びた短めの手足と、それらを纏めても比べ物にならない程の太く逞しい尻尾が、まるで空を泳ぐように優雅にくねっている。
長く伸びた首の先には頭があるのだろうが、遠すぎて良く判別できない。しかし、恐らく厳つい顔をしているのだろう。
そして何より、全長を包み隠せる程の長大な一双の翼が、ドラゴンを大空の覇者だと言うことを雄弁に語っているのだった。
男は魅入られたようにドラゴンの姿を追い続け、やがて、見えなくなった頃に大きく息を吐く。
今回は、初日から良いものが見れた。
一瞬脳裏をかすめた反動への恐怖。即ち、休み明けに待つ地獄を一旦追い払うと、男は椅子に腰を沈めるのだった。
「やばい! テント張ってない!!」
空にうっすらとオレンジが混ざり始めたのに気が付いた男は、慌てて椅子から飛び上がると、リュックの側に放り出していたテントの設営を始める。
その姿は、どこからどう見ても「冴えないオジサン」なのであった。
お読み下さり、ありがとうございました!