下
「おかしいね。待ってるって言ってたのに。」
静音は首を傾げた。
待っているから、と今、静音が立っている場所で手を振って別れた家族の姿が、周囲をどれだけ見回しても何処にも無い。夜間のビル清掃のバイトが入っている時には送り迎えを絶対に欠かしたことが無く、今日だって人型を取った精霊獣の誰かの姿がバイト先を出た静音の前に出てくる筈だった。だというのに、今日ビルから出てきた静音を迎えたのは、丸く立ち並ぶビルの隙間から覗く、夜に慣れた目には眩しく感じる程輝く月だけだった。
周囲にそびえ建っているビルに光は灯っていない。
夜遅くのビル街に人影は一つも無い。
だが、静音はその光景に怖いという感覚を覚えることは無かった。
「まぁ、いいや。」
待っているといった睡蓮と流峰の姿が無いことを疑問に思いはしたが、静音は暢気に一人で帰ればいいやと足を進め始めた。
暗闇は静音にとって怖いものではない。むしろ、心地が良く、力が湧いてくるのだ。
何故なら、静音は『黒の魔法少女』。闇の精霊獣によって選ばれた、闇を操る魔法少女なのだから。
そびえるビルの影などによって遮られた月明かりは薄暗く、しっかりと見ていないと足下も覚束なくなる程だ。でも、静音にとっては、まるで昼間の散歩のようにはっきりと、足下も、進行方向の先まで見渡すことが出来ていた。
暗闇は、静音の味方。
静音の全てが解放され、溶け込んでいくような感覚さえも覚えるようになったのは、黒耀が現れ、静音を魔法少女にした時からだった。
フン フフン
鼻歌さえも漏らして歩く静音。
人の子一人の気配さえ感じない真夜中ということもあって、静音は普段途切れさせたことのない警戒を、すっかりと忘れてしまっていた。
「静音ちゃん、今晩は。」
「ひぃやぁあ!!!!」
すっかりと油断していた静音。
背後からにじり寄っていた、大大大ッ大嫌いな存在の気配に気づくことが出来なかった。
静音よりの言い訳になるが、それが力を使っていたせいでもあった。そうでなければ闇の中で、静音がどれだけ油断していようが、静音から隠れきることが出来る存在など、この世界にはいない。何故なら、静音はこの世界の闇の体現者なのだから。
それは、この世界のものではない場所で生まれた闇の力を使い、此処で使う意味があるのかと言いたくもなる緻密な術を重ねに重ねて、潜んでいた。
そして、無防備に背中を見せる静音へと近づき、その腰に、その胸元に両腕を回し、締め付けるように抱きしめたのだった。
フゥ
背後から、静音にわざと痛みを覚えさせようと思っているとしか思えない力で抱きしめ、静音の耳に息を吹き込む。
ビルとビルの合間に、静音があげた大きく言葉にもなっていない悲鳴が、何度も何度も響き渡ることになった。
「な、なん、なんで!」
痛い!
戸惑いの声と、痛みを訴える声。静音が発した二つの声は完全に無視された。
「ねぇ、静音ちゃぁん?」
ねっとりとした、何時も以上に気味の悪さえも感じさせる声に、静音はヒィッと息を呑んだ。
「浮気はいけない事だよねぇえ?」
同意しか許さない。
間延びさせた声がそう言っていた。
だが、どうしてそんな事を言いだすのか。静音には分からなかった。まず、背後にいるそれと静音は、そもそもそんな事を言い合うような関係ではないのだから。
「なのに、どうしてなのかなぁ?あれは、だぁれ?どうして、俺以外を気安く傍に置いちゃってるのかなぁ?」
「あ!アンタには関係ないでしょ!!!?」
「関係ない?」
ガリッ
「ッ!!」
静音の耳が、息を吹きかけていたソーンによって齧られた。
その音を、痛みとして感じるよりも先に感じた静音は、一瞬何をされたのかも分からず、ただ頭の中が真っ白になってしまった。
「関係ない?そんな酷い事を言うなんて…。」
最近かまってあげれなかったから?
そんな風に囁くソーンの声に、正気に戻った静音が体を激しく動かして抵抗した。
でも、がっちりと締め付けられた体は、どれだけ動かしてもビクともしないソーンの腕の中から抜けることは出来なかった。
「『闇よ』!」
それならば、と静音は声に力を込める。
今は夜。
昔のように本気で、静音が持っている力を全て使うなんて事は出来ない。それでも、闇に包まれた今の状況でなら、ほんの少しの力で多くの闇を操ることは出来る。
「おっと。」
静音の、願いを込めた思惑は当たった。
小柄な女の力ではビクともしなかった体も、破壊の力を含む闇をぶつけられたとあっては、動かざるをえなかった。
「なんなのよ!」
ソーンによって齧られた耳を押さえ、プルプルと怯えを隠そうとしない静音は涙を浮かべた目で睨みを利かせている。
「…ねぇ、静音ちゃん?ニコルを消したのは、静音ちゃん達って本当?」
それは、それまでとは全然違う声。
それを口にするソーンの目は、真っ直ぐに静音へ向かっていた。
闇の化身である静音でさえも恐怖を覚える、深く、ドロドロとした闇が、その目の中にあった。
「…誰よ、そんな馬鹿みたいな話をしたのは?」
そう馬鹿みたいな話だ。
ニコルは生きているのだから。
ソーンだって、テレビの会見では表向きとはいえ病気療養中だと言っていた。
だというのに、どうして静音が消した事になっているというのか。
「馬鹿みたい、か…。神様がね、言うんだよ。」
ただ真っ直ぐに。
ソーンの光の無い目が、真っ直ぐに静音を見つめている。
"この世界を管理している姉神様は僕達を受け入れ、力を弱らせた僕の変わりに道を閉めてくれた。なのに、姉神様の意思に逆らって、精霊達とあの闇の娘が愚かな抵抗を続けてる。きっと、ニコルが消えてしまったのも…。どうして、こんな事になったんだろう。僕は、壊れてしまった世界から、僕の子供達を助けただけなのに。"
幼さを残した少年の姿を模している、ソーン達の神、アウネ。
生まれた時からアウネに仕えている神官ニコルが突然、何の手掛かりも残さずに消えてしまったと判明した時、アウネ神はそう言って嘆き悲しんだ。
神の言葉に嘘は無い。
"世界が終わる"という言葉も、"一部の者は助かる。逃げ延びれる世界がある。"という言葉も、嘘は無かった。敵として、逃げてきたアウネの民を排除しようとした魔法少女達も、アウネ神の言葉の通り、今では何よりも愛おしい味方になってくれている。
だから、今回も皆、アウネ神の言葉を信じた。
ソーンだけは、頭の端で何故なのか分からない違和感に苛まれながら。
「静音さん。」
ソーンによる、まるでソーン自身に言い聞かせているような話を聞きながら、静音は呆然としていた。
世界の管理者がアウネの民を受け入れた?
アウネ神の為に扉を閉ざした?
私達がしていることが、神の意思に反する愚かな抵抗?
ふざかるな!!
そんな叫びを上げそうになる程の怒りを感じ、それさえも突き抜けて静音を襲ったのは空虚な思い。
もう、全てを壊してしまおうか。
穴を塞ぐ為に提供されている静音の力。
それを奪い戻し、破壊を司る闇の力を持って、静音自身の身の安全なども一切考えない魔法を使ってしまおう。そんな思いにジワジワと蝕まれていくのが心地いい、なんて笑顔を浮かべたもう一人の、仲間を失ったばかりの頃の自分が唆してきた。
あの時のように、『高月町』を壊滅させた時のように、ただ力の本流に身を任せて…。
そんな思いに身を任せようとしていた静音の前に、最近見慣れた背中が現れた。
冗談のように押し付けた、馬の被り物で律儀にも頭を覆い尽くして、同居人のニコルがソーンから静音を護るようにして降り立った。
「すみません。彼の部下の方々に足止めをされてしまって…。」
背中を向けたままでも、ニコルが申し訳無さそうにしているのが、見て取れた。
「…皆は…貴方も怪我は無い?」
「えっ、えぇ。でも、多分…引っ越さなければならないと思います。」
「そう。」
自分に心配する言葉がかけられるとは思っても見なかった。そんな顔をしてニコルが振り返り、そして慌ててソーンへと顔を戻した。
その後でまた、申し訳無さそうな声で、足止めによって借りていたアパートには居られないという、悲しい事実を告げてくる。
人の放つ温度が恋しくて堪らなくなっていた静音が気に入って借りた、安くて狭い、何処か温かみがあるアパート。
あの部屋にもう帰れないことを静音は悲しく思った。
それでも、精霊獣やまだ一応ではあるがニコルといった家族が居れば、何処でもいい。
そんな思いで、部屋に対する懐古の念も霧散させた。
「あと、ちょっとすみません。」
「えっ?」
ニコルが謝罪の言葉を口にしながら、突然その腕の中に抱き寄せられていた。静音が何事と驚いている中で、静音の体はすっぽりとニコルの腕の中に入っていた。
「何!?」
何が起こったのか。静音が理解する為に頭を働かせている間に、静音の体の中で何かが弾ける音がした。
「ねぇ、君は何者?せっかく仕掛けた術を壊さないでよ。」
「…何か、されてたの…私?」
ニコルの腕の中でソーンの姿は見えない。でも、静音のよく知る状態に戻っているように思える声で放たれた言葉によって、静音は自分に何か術が掛けられていたという可能性に気づいた。さっき聞こえた音は、ニコルがその術を壊したという音なのか。
「場所を探知する術、のようなものですね。すみません、もっと早くに気づいていたら…。」
「いいの。うん。家は新しく探せばいいし。流石に手狭だったから丁度いいわ。それよりも、ありがとう。」
「俺の前で、俺の静音といちゃつかないでくれる?離れろよ。」
「誰がアンタの、よ!…帰るわ。もうアンタには絶対に近づかない。接近禁止。近づいたら殺す!」
帰る!
静音の手が、馬面となっているニコルの腕をしっかりと握りしめる。
そして、二人を闇が包み始めた。
先ほど高ぶらせた力が、いつもより楽に闇を操らせる。
「またね、静音ちゃん。次は、ゆっくり二人っきりで話をしようね。」
そうなってしまえば、邪魔することは難しい。
それが分かっているからこそ、ソーンはニコヤカに手を振って見送る。けれど、その目は鋭い剣呑なものを秘めていた。
「ヒッ」
「だ、大丈夫。ちゃんと護ります。」
闇の中から聞こえるそんな声が、ますますソーンの目を細めさせ不穏そのものの表情を作らせたのだが、それは静音とニコルの全身が闇に包まれた後のこと。静音が、そんなソーンの顔を見ることは幸いなことに無かった。