下
黒い球体が振り上げられた静音の手の中に生まれた。
腕を振り下ろせば、黒く渦を巻く球体はソーンに向かって勢いよく投げ放たれる。
けれど、ソーンは分かりやすく飛んでくるそれを事も無げに避けてしまった。
ソーンに当たることの無かった黒い球体は、その軌道を保ったまま硬いコンクリートの床へと吸い込まれていった。そうして生まれたのは、大きな穴だった。屋上に穴が開いたのなら、その穴からはビルの中が見える事だろう。しかし、静音の放った黒い渦によって生まれた穴は真っ黒にぽっかりと開いているだけで、その中には何も存在しなかった。
「あっぶないなぁ。未来の旦那様に何かあったらどうするんだよ。」
「うっさいわね。馬鹿な口を閉じないと、今度は本当に消すわよ!!」
また腕を振り上げる静音を黒耀達が止めに入る。
《静音、静音。あんまり力を使ったら…》
静音の腕にしがみ付いて止めている黒耀以外の、灯雫達の視線が空に向けられる。その目が焦りに満ちている様子に、静音から意識を逸らさないようにしながら、ソーンもその視線の先に目を向けた。
何もない雲が流れているだけの青い空が広がっていた、先程までは。
真っ白な雲だけの真夏の空から雪が降り、それが吹雪けばパニックになるのは目に見えている。静音が嬉しそうに語っていた計画を実行するには、最適な空が広がっていたのだ。
けれど、今。ソーンが目を向けた空には、ボロボロとひび割れ崩れ落ちて広がろうとしている黒い穴が空にあった。
それを見てソーンがある事が頭に浮かび上がった。
壊れ行く自分達が生まれ育った世界を脱出する時に、アウネの神が開いた道の入り口に似ている事を。
違う事があるとすれば、黒い穴の周囲に淡く輝く膜が張られていることくらいだろうか。
「…ごめん。」
黒耀の制止に静音も落ち着きを取り戻し、空を目の端で一瞥すると手を降ろした。
《いいけど。静音は大丈夫?》
「えぇ、大丈夫。何とも無いわ。」
「それで、その妄言はどういうつもりな訳?」
攻撃を繰り出すことは止めても、ソーンを睨みつけることは止めなかった。
「妄言って。俺達と奏音達で話し合ったんだよ。"静音ちゃんはムキになってるだけ。""静音ちゃんにも私達みたいに戦わなくてもいいんだって気づいて欲しい。""静音ちゃんにも幸せになって欲しい"って言うからさ。だから、俺が静音を幸せにするよって立候補したんだ。」
静音は激しい頭痛に襲われた。
馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここまでとは。そう言いそうな人間に心当たりがあった。それに思い当たったのは精霊獣達も同じだったらしく、特に陽妃が苦しそうに顔を顰めているのが静音の目に映った。
「いい考えだろ。最期の魔法少女が、一応アウネを纏める立場の一人である俺と結婚すれば、アウネの民との歩み寄りは完全なものになる。人々は安心して平和を甘受出来るんだ。理想的だろ?」
「理想的?」
ハッと静音は鼻で笑った。
「どうせ、万年お花畑な奏音の言いだしたんでしょ。でも、今や指名手配犯、悪である私を皆が受け入れるって本当に思ってるのかしら、相変わらず馬鹿な子。」
「それは、ほら。真摯に頼めば、皆許してくれるって事だよ。」
「戦いを終わらせた時みたいに?」
あの日、一瞬にして人々は意見を変えた。それは不気味な光景だった。それまで武器を手に「殺せ!」と叫んでいた姿のままで笑顔になり、共存を喜びアウネの民を受け入れていく人々の姿。
ただ一人、正気を保っていた静音は恐怖に打ち震えていた。けれど、それを共有出来る人など居なかった。仲間である魔法少女達まで笑顔で、それまで容赦無く攻撃を力を向けていた相手と握手を交わしているのだ。そして、それまで信頼し寄り添っていた精霊獣達に笑顔を向け「戦いは終わった。」「貴方達は間違ってたのよ。話し合えば理解し合える相手だったでしょ?」そう言って魔法少女である為の力の源を放り投げてしまっていた。
何故戦わなくてはいけないのか。その理由を管理者によって説明されていて、それに納得して戦っていた筈の仲間達の豹変に静音は呆然とした。
そして、皆が豹変してしまった、その原因と思われるものに目を向けた。
それは大きな画面。
そこには、握手を交わして笑顔を浮かべているアウネの代表である男と、この国の代表である男。そして、その間で二人の交わされた手に、白く傷一つない手を添えている少女、治癒の力を持つ白の魔法少女・奏音の姿が映し出されていた。
静音は精霊獣達によって場を離れていく間、その映像をずっと睨みつけていた。
「悪い方法ではないだろ?俺達が欲しかったのは平和に暮らせる場所だったし、戦いなんてしたいなんて思っても無かった。それはどちらも同じだった。戦いなんて早く終われって思ってたんだろ?だから、いいじゃないか。何はともあれ、戦いは終わって、平和な日常になったんだから、さ。」
「平和、ね。自分達の世界を壊した貴方達の平和なんて、所詮儚いものでしかないのに。」
静音から漏れでた言葉は、離れた位置に立つソーンには聞こえなかった。
「そんなおままごとに私を巻き込まないでくれない。取り込むのなら、奏音達だけで満足しておいてよ。私はアンタ達を許す気はまったく無いの。人の平々凡々とした人生計画台無しにしやがって。なおかつ、ロリコンとか変態の集団なんて関わりたくも無いのよ!」
静音が13歳の時に始まった戦いは3年に及んだ。一番年上だった黄の魔法少女・葵は17歳になっていた。年下だった緑の魔法少女・美里は14歳だった。
そして、今朝二人目が出来たとニュースになっていた奏音の上の子供は8歳だ。一応、ギリギリ許容される年齢とはいえ、静音が逃亡しながら知った時に「ロリコンめ!」と叫んだのも仕方ない事だと思う。魔力の量によっては見た目の成長が遅いというアウネの民。その代表ともある男が20代前半の姿のままの年齢でない事を知っていた。そんな男が奏音を妻にしたのは、アウネの民との融和が成されたすぐ後の事だった。
「黒の魔法少女様の為に!!」
地上から、そんな声が聞こえてきた。
それまで気にも留めていなかったが、喧騒のザワメキも微かにだが静音の耳に届いてきた。
「あぁ、そうだ。俺の部下達が下で変なのに絡まれてんだよ。」
《全身を黒で包んだ奴等が、魔道警邏隊の奴等と抗争してるよ?》
ソーンから目を放せない静音の代わりに、灯雫が地上の様子を覗き込んだ。
灯雫が見たのは、全身黒尽くめの人々が手に棒などを持って、ソーンの身に着けている白い制服を纏った集団に襲い掛かっている光景だった。その口々に、「黒の魔法少女の為に」「アウネの民を許すな」と叫んでいることは自然に寄り添っている精霊獣達にだけ伝わっている。
「俺が言うのもなんだけど、仲間はよく選んだ方がいいと思うぞ?」
苦笑を浮かべたソーンの忠告は、ただただ静音を苛立たせた。
アウネによって思考の矛先を歪められていない、あんな風に静音に味方しようという人間が残っている事に、静音は始めて気がついた。これまでは、嫌がらせを実行して、必ず駆けつけるソーン達から逃げることだけを考えていた。地上を見下ろす事など無かったのだ。
だが、静音は別に嬉しいと思うことは無い。
所詮彼等も、静音を裏切る可能性がある存在だからだ。
「知らないわよ、あんな奴等。私の仲間はちゃんと居るもの。優しくて、私の事を心配してくれて、疲れた時には布団まで運んでくれて、ご飯も作ってくれて、何より私の傍にずっと一緒に居てくれる。彼等以外なんて私には必要無いわ。」
「彼ら?」
スッ とソーンの目が細められた。
「な、何よ?」
それはすぐに笑みへと変わったが、そのソーンの笑みは今まで以上の凄みを帯びていることを感じた。静音は思わず一歩足を下がらせていた。
「ねぇ、俺っていうものがありながら他の男を傍に置いてるって、どういうことなのかな?」
「えっ?」
ソーンの顔が、静音の目の前にあった。
《静音!?》
力を殺がれている黒耀達では反応出来なかった。
それ程の早さで、多分魔術を使って移動したのだろう。ソーンは驚き体を強張らせていた静音の腰に手を回し、もう片方の手で静音の首を掴んでいた。
傍にいる黒耀達からすれば、静音を絞め殺そうとしているように見えた。精霊獣である彼等には、人の事細かな感情の動きは把握出来ないからこそ、そう思い焦ったのだ。だから、その後に行なわれたソーンの行為に呆気を取られることになった。彼等にしてみれば、その二つの行為は結びつかないものだから。
噛み付くように静音の「何を」と苦しげに開かれた唇へと重ね合わされたソーンの口。
「んん!!!」
驚いた静音が拳を握り、ありったけの力を込めてソーンの胸を何度も叩くが離れることは無かった。ソーンの体もピクリとも動かない。
ヌルッ
「んんん!!!」
信じたくない感触を感じ、静音は目を見開いた。そして、無駄だと何処かで分かってはいるが、ソーンの胸を叩く拳により一層の力を込めた。
「ん、うゅぅ…」
ガリッ
「ツゥ」
《し、静音!!》
ソーンの顔が歪み、顔が離れていった。それを見る事によって我に返ることが出来た黒耀と灯雫が静音とソーンの間に割って入る。静音の腰に添えられていた腕が離れ、董源が静音の襟を加えて後ろへと下がらせる役目を担った。
口元を押さえ俯いていたソーンが顔を上げた時には、静音の体は随分と離れた位置に遠のいていた。
なんだ残念。そう呟いたソーンの口からは赤い血が流れていた。
「酷いなぁ。」
ソーンの口から止まることなく流れる血の元となっているのは、ソーンの舌だった。
《静音、静音。大丈夫、あんなのは犬に噛まれたも同じ。今、癒してあげるから。》
口を押さえて一言も声を出さない静音を、陽妃から放たれる白い光が覆う。
《今日はもう帰ろう。帰って寝て、忘れちゃえばいい!》
舌を噛まれ、それなりの痛みに襲われている筈。それなのに笑みを浮かべたまま静音を見ているソーンへの警戒を解くことはしない。目をソーンに向けたまま、精霊獣達は静音を慰める。
その時、青く晴れ渡った空からチラチラと白いものが舞い落ちてきた。
流峰と睡蓮。
風と水の精霊獣による、真夏の吹雪の準備がようやく整い、計画が開始されたのだ。
段々と勢いを増していく雪。
風も強まっていき、その雪は横殴りに周囲の景色を遮っていった。
本当なら、その光景を小躍りで喜ぶ静音の姿があった筈だった。
だが、小さく「初めてだったのに…」と茫然自失に呟いている静音にそんな余裕は無かった。
吹雪の中、そんな小さな呟きは何故かソーンの耳に届いていた。
そして、静音の目にニタァと不気味に笑みを深めたソーンの顔がはっきりと届いた。
「そっかぁ。初めてだったんだぁ。本当に可愛いなぁ、静音は。」
「いっ、いやぁ。もう、やだ。かえる。おうちにかえるぅ!!!」
半狂乱に泣き叫ぶ静音の声が真っ白に染まった視界の中に響き渡った。
「この馬鹿!アホ!変態!犯罪者!不法滞在者ぁ!!」
うっすらと見える黒い影になっていた静音の姿が消えていく。それと同時に、静音の声も聞こえなくなっていった。
吹雪が何事も無かったかのように終わりを迎えたのは、5分程の事だった。
一つの街だけにもたらされた吹雪によって起こった被害は一つも無い。せいぜい、寒さに震えて、服がビショビショになったくらいだった。
地面に雪が積もり残ったわけでもなく、濡れた服もその後に訪れた真夏の日差しによってすぐに乾いてしまう。
人々は、ソーン達魔道警邏隊が黒の魔法少女を追い払ったおかげだと賞賛の声を上げていた。そして、それは今日のトップニュースの一つとして全国へと流されたのだった。
うっううっ
小さな、今では珍しい畳張りの所々汚れと隙間が目立つアパートの一室で、静音は布団を被って丸くなり、嗚咽を漏らしていた。
変身を解き、長い黒髪が肩までしかない茶色の髪という本来の姿へと戻った静音は、そのすぐ後から数時間布団から出てくることは無かった。
「ほら、静音。寝てしまえって。そしたら忘れるよ。明日起きたら、悪い夢を見たって事にすればいいんだ。今日のバイトは俺が変わり行っておくからさ。」
布団越しに静音の背中に手を添えて揺さぶるのは、灯雫。
真っ赤な髪が目を引く、ヤンチャそうな青年の姿になった灯雫はすでに静音が行く筈のバイトへと向かう準備を整えていた。
「そうだぞ?それとも、夕飯でも食べるか?静音の好きな肉じゃがだぞ?豚の生姜焼きもあるぞ?」
割烹着を着て昔ながらのコンロに向かっている壮年の男は流峰。食事はいつも流峰の担当の為、その手つきは慣れたものだ。
絵に描いたようなお嬢様の姿になる陽妃と、優等生な姿になる董源は静音を慰める為と近所の安いケーキを買いに行っている。
髪の長い、女性のような青年の姿をとった睡蓮は自身が操る水を使って、溜りに溜まった洗濯物を片付けている。睡蓮のおかげで、洗濯機もコインランドリーも必要無かった。
《ほら、いい加減放せって》
静音が被る布団がもぞもぞと動き、その隙間から黒い狼が這いずり出てきた。その体は何処と無くしっとりと濡れていた。
濡れているのが不快でしょうがないのか、黒耀が本物の犬のように体を振ろうとした。だが、それは近くにいた灯雫によって止められた。それは部屋が濡れるという理由だった。
少しは不快ではなくなると、黒耀もその姿を変じることにした。
黒尽くめの小学生程の少年の姿となった黒耀。
静音を覗けば、4人もの人がいるとなると部屋は狭い。ケーキを買いに行っている二人が帰ってくれば、足の踏み場も無くなってしまう。
だが、それが嫌ではないと静音は言う。人の温もりを感じられるから、それでいいと静音は精霊獣達に家に居る時は人の姿で居て欲しいと頼んでいた。
彼等こそが、静音にとって何よりも大切な存在だった。
ソーンは笑う。
都市部の高層ビルの最上階に居を構えているソーンは帰宅するやいなや、使用人達に声をかけることなく部屋に篭っていた。
そして、ある魔術を発動する。
「あぁ、良かった。光のが余計な事してたから、どうしようかと思ったけど、上手く俺の血を飲んでくれたんだな、静音。」
ソーンが発動した魔術は、目印をつけた存在の居場所を知ることが出来るもの。
ソーンが目印にしたものは、自分の血だった。
「さぁて、これで何時でも迎えに行けるようになったな。俺の子猫に手を出そうっていう身の程知らずはどうしてやろうかなぁ。」
二人がどうなるか。
幼いあまりに世界を壊す事になった、ソーン達アウネの民が頂く神も、
自らの子等に背を向けられた事で動くこともままならない状態に陥っている世界の管理者も、感知することは出来ない。
お粗末様でした。