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「ええ、ええ、辺境の街バルムエンドから、カナハトンに向かう街道沿いを《馬》に騎乗して旅していたときのことですわ。どうにか日没前にここクルレアの村に辿り着こうと急いでいた矢先、その賊たちは現れたのです! おかげで旅の足の機械獣は奪われ、金目の物もほとんどが奪われました。昨晩は街道で夜を明かしたのですが、なにぶんわたしの弟は身体が弱くて……これほど衰弱してしまいましたの。どうか、どうか、一部屋お貸し願えないでしょうか? わずかばかりですが、謝礼はお支払いいたしますわ」
良家の子女風の少女は、スカーフを目深に被った顔を上げると、その緑の瞳に溜めていた宝石のような涙で頬をしとどに濡らした。ひどく憐れっぽい仕草で、薄汚れた布を胸の前でかき合わせる。わずかに覗いたシュミーズが憐憫を誘った。
隣に居るこの三兄弟の長男だという男は、賊に襲われ高熱に苦しむ弟を抱えているせいか表情こそ硬かったが、その長身といい男らしくも甘い魅力的な顔立ちといい、見目麗しく、濡れた髪をかき上げる仕草はひどく艶めいていた。
玄関で応対していた、村の外れ近くにある民家の娘は、ぼうっと長男に見惚れて母親の手を引いた。父親こそ、不審そうな顔をしていたが、少女が娘とそう対して変わらない年ごろであると見て取って、母親と娘の訴えかけるような視線にしぶしぶ頷く。
通された部屋は、想像していたものよりずっと上等なものだった。ベッドは二つしかなかったが、カナハトン地方の民芸品であるカラジャ織の見事な青と黄の敷物が敷かれている。
温かい飲み物と着替えを持ってくると言い残して娘が部屋を出て足音が遠のくと、少女は鬱陶しそうにスカーフを脱ぎ去り、ほつれた髪を横に払った。
「うっふふふふふふふふっ。やったわ、ちょろいわね!」
先ほどまでひどく儚げな令嬢を演じていた少女――ローズは、高笑いをするとふんぞり返った。
かたわらでは、ふらふらと床に座り込みながら、リオがじっとりとした瞳でローズを仰いでいる。
「僕は、おまえの残念すぎる芝居がかった演技に騙された馬鹿がいることが信じられない。さすが女王の犬。考える頭もないんだな」
「あら、帝国臣民を馬鹿にするのは許さないわ。しかも、わたしたちはあのご一家の厄介になるんだから、ちょっとは殊勝な態度を見せなさい」
「……さっき高笑いしてたのは、どこのどいつだよ」
ひと息吐けたからか、リオに憎まれ口が戻ってきた。
「……お嬢さん、恥じらいがないのか。それよりもし、若い男が出てきたらどうするつもりだったんだ。助けた恩に、迫られたかもしれない」
膝をついて手早くリオの服を脱がせながら、アランがため息をつく。
「そのときはそのときよ。そうしたらシスコンのお兄様が助けてくださるでしょ?」
ローズはにやっと笑って、アランを見下ろした。
認めるのは癪だが、髭を剃っていくらか髪を整えさっぱりしたこの男は、思わず二度見してしまうような華がある。
今朝、ローズたちが言い争いをした森から肉眼で見えた、ここクルレア村で身体を休めることに決めたのは必然だった。リオは最後まで首を縦に振らなかったが、最終的にはアランが頑なな少年を説得することになった。
廊下から少し急いた足音が聞こえて、控えめなノックの音が響きわたる。
ローズは慌ててスカーフを被りなおした。
「はい、どうぞ」
「失礼いたします」
そう言って部屋に入ってきた娘は、樫のテーブルにティーカップとグラスとたっぷりと水の入ったやかんを置いた。後から入ってきた母親は、着替えをアランに手渡してくれる。
「高貴な方には不相応な品でしょうが……私はアナ・ハンソン、この子は娘のチェルシーと申します。なにかお困りの際はお申しつけくださいね」
「世話になる。私はアルバート。これは妹のローラだ。あっちはリック。これは心ばかりだが、謝礼だ」
そう言って、アルバート――もといアランは、涼しい顔で布巾に包まれた銀貨を渡した。言葉遣いや所作が洗練されていて、いかにも辺境伯といった風情を醸し出している。
(実は育ちの良いお坊ちゃんとか? まさか。たぶん、こういう嘘八百を並べ立てるのに慣れてるのね)
「お、お、落ち着いたら、また、しょ、食事と薬を持ってきますね」
チェルシーは、ちらちらとアルバート辺境伯に視線をやりながらそう言うと、真っ赤な顔を隠すように背を向けた。ぱたぱたという二つ分の足音が遠のいていく。
三者三様の、ため息が漏れた。
「わたしたちが凶悪犯一味だとは、疑っていないみたいね」
「それよりあの、女王の犬の色目をどうにかしてよ。アランは、あんな下賤の女にちょっかいを出されて良い人じゃないんだ」
「……油断するなよ。罠の可能性だってある。この村に滞在中は、気を抜くな」
リオの身体を拭き終わったアランは、洗いざらしの服を広げて、彼に着せてやる。
ローズも、クローゼットの影に隠れて濡れた衣類を脱ぎ捨て始める。
下穿きが肌に貼りついていて、気持ちが悪い。シュミーズを捲り上げたところで視界が眩み、ぐらりと身体が傾いだ。
床に打ちつけられる衝撃を覚悟したのに、いつまで経っても痛みがやって来ない。それどころか、剥き出しの肩と腰に触れている、温度のあるかさついた感触は――。
「リオの風邪をもらったか?」
掠れた声が、吐息の熱を孕んで耳朶に触れる。甘やかな響きに、冷え切っていたはずのローズの身体は汗ばんだ。
「も、だい、大丈夫だから……はなれて」
そう言った自分の声が、自分のものではないみたいにか細く震えていて、ローズは瞠目する。
ドロワーズとシュミーズこそまだ身につけていたものの、同性以外にはさらしたことのない姿だ。
しかも、シュミーズは捲れ上がっていて、素肌にアランの手のひらが触れている。
ローズのかわいそうなほどのうろたえっぷりを見てとって、アランはくすりと微笑う。
「さっきまでの威勢はどこに行った?」
「うる、うるさい! この、性悪凶悪色魔!!」
髪よりなお赤い顔を上げて、ローズは吠える。
余裕たっぷりのその微笑を見ていられず、ローズはすぐに俯く。
アランは、タオ人だ。異性だなんて、意識する対象ではない。
だが、そんな理性がいさめる声など、触れられた場所から伝わる熱が、狂ったようにうるさく鳴る心臓が、容易にかき消してしまう。
「とにかく、離れて!」
年の離れた少女の痴態を憐れに思ったのか、アランはローズの腰から手を引き抜こうとして――目を瞠った。
逆にローズを壁に押しつけ、胸の下ぎりぎりまでシュミーズをたくし上げる。
「な――!」
思わずアランの頬を張り手して応戦するが、彼は大した抵抗もせずにローズの臍の辺りを凝視している。
そこでローズは、自分の臍まわりに奇妙な黒い痣があることを思い出した。
「なに……ただの痣よ。物心ついた頃にはあったわ。もう、良いでしょ?」
「――ああ、……悪かった」
呆けたようにアランはそう呟くと、ローズの髪に指を絡めて、しかしすぐに離れていく。息をつめてこちらの様子を窺っていたリオの頭をぽん、と叩いて水を飲ませると、何ごともなかったかのように平然と寝かしつけ始めた。
(なんなのよ!)
ローズは癇癪を起こしかけたが、木綿のドレスを身にまとうと、ふて寝するようにリオが横になっていない方のベッドにもぐりこんだ。
いまだ余韻を引きずった心臓は馬鹿みたいに跳ねている。掛け布を被って百面相をしているうちに、抗いきれない睡魔が襲ってきて、ローズはあえなく意識を手放した。
***
少年が生まれ育まれた王都は、焦土と化した。大神殿の象徴たる二体の石像は倒れ、侵略者どもの罵声と怨嗟に飲まれ踏みつぶされた。
神の恵みと呪いによって産声を上げた王国が断末魔を轟かせたあのとき、少年は王の間に居た。
おぞましい鉄の塊の咆哮に屍は積み重なり、叫びと呪いと祈りが縦糸と横糸を織り合わせた先にあったのは、まぎれもない終焉だった。
祖国の血はきっと、例外なくすべて狩り尽くされると少年ですら確信した。
しかし、その血の通わない無慈悲な鉄の塊にもまして仇敵を殺戮し、民族の血を繋げた者がいた。
少年は、込み上げる吐き気と怖気を振り払うように薄く瞼を押し開く。
「でんか」
冬の空の瞳が、おくるみに包まれた嬰児を映す。
おくるみからはみ出た生えそろっていない髪の色は、露に濡れた咲き初めの薔薇のように赤い。
「王女殿下」
王国は死んだ。
だが、その青き血は、まだ絶たれてはいない。
春を迎えて間もない、嵐の日。ひどく荒れた空模様を物ともせずに、一人の娘が生まれた。少年が生涯を懸けて守るさだめとされた、今は亡き王国の第五王女である。
父に、母に、朋友に、国王陛下に、どうかこの命を繋げと託された、まだ言葉もまともに喋れないお姫様。それでいて、その内包する力の質量は、おそらく当代の王国のすべての民を凌ぐ。
この子を守るため、それだけのためにこの数日間を生きのびた。憎しみや絶望に自分を手放さずに済んだ。
それはたぶん、愛情でもなければ、忠誠心でもない。
冬の名を冠して生まれ、王族を守れと刷り込まれてきた少年にとって、彼女を守ることは反射みたいなものだ。
少年は、王国から逃れてはじめて、自分の欲求を認めた。
嬰児の薄汚れたやわらかな頬に指で触れて、そっと罅割れた唇を開く。
「もう、逃げるのをやめても――あなたとともにある宿命を棄てても、いいですか?」
その呼びかけに呼応するように、芽吹きの緑を閉じこめた宝石のような瞳が現れる。
潤んで涙の溜まった瞳はしかし、弾劾するように強く少年を見つめていた。
少年は、否応なしにその場に跪いて頭を垂れたくなる衝動を無理やり抑え込んだ。
頬に触れた指が、嬰児の右手で力いっぱい掴まれる。少年が人指し指を動かせば一瞬でほどけてしまいそうな、ごくささやかなあるかなしかの力だった。
だというのに、心臓が軋み、全身が強張る。
呼吸が乱れて、抗いようもなく泣き出しそうになる。
彼女は、少年の運命であり、神であり、世界であり、命であり、春であった。
その春に、たぶんきっと焦がれていた。怯え、手を握り返すことを躊躇いながら、誰よりその鮮烈な色を愛し、その到来を待ち望んでいた。
けれど、少年はその本能に背を向けた。
それが、冬の名を持つ少年が、春をその身の内に宿した第五王女について持っている三つの記憶のうちの、一つ。
それから季節が幾度となく巡っても一向に消えることのない、強烈な春の残滓だった。