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翌朝、リオの体調は芳しくはないようだったが、アランは早々に出立を決めた。リオを軽々と抱え上げ荷物をまとめると、ローズの方を振り返る余裕まで見せてくる。
一方のローズはというと、昨晩は寒さから何度も夜中に目が覚めてしまって、ろくに身体を休められた気がしない。しかしここで後れを取れば、旅慣れたアランに置いて行かれてローズは死ぬまでこの樹海を彷徨うことになる。
(なにがなんでも、この魔術師をお縄にしなきゃ。もう、博覧会の開幕セレモニーまで間もない。殿下の邪魔はさせないわ)
凶悪犯とリオの接点はいまだ分からない。いくらでも下世話な想像は働いたが、どれもこれもしっくりとローズに馴染むことはなかった。
地図とコンパスを手にしたアランに従って一時間ほど歩くと、間もなく隘路を抜けた。目を凝らせば、人里らしきものが遠くに見える。
今朝はあいにくの空模様で、煙るような雨がドレスを重たくしている。足を踏み出すたび、ブーツの靴底から泥水が押しだされ、足裏をふやけさせた。
雨音に混じり、時折リオが激しく咳き込む音が妙に耳に障る。
「どこかで、雨をしのぐべきだわ。屋根のある家と、栄養のある食事と、あたたかいベッドが必要よ」
「この国のどこに、魔術師を手厚くもてなす家がある?」
アランはローズの提案を鼻で笑った。
「わたしが髪をひっつめて隠して、あんたが髭でも剃ってそれなりに紳士らしくしたら、それほどおかしくないもの。カナハトンの田舎の村なら、せいぜい機械蟲経由でざっくりとした報せが届いているくらいでしょ」
「俺は帝国の人間を信用していない。悪いがお嬢さん、あんたも例外じゃない」
底の知れない闇を孕んだ目に、ローズはたまらず息を呑んだ。
たたみかけるように、リオが赤い顔を上げて掠れ声を上げる。
「なにが目的?」
「目的って……あのね、これでもわたしはあんたのことを――」
「恩でも売りつけておきたいわけ? おあいにくさま! 女王の犬の世話になるだなんて、……虫唾が走る。それとも、そのお頭の出来で、僕たちを罠にでも嵌めているつもり?」
リオはローズの言葉を遮って、好き勝手な言葉を並べ立てる。ローズは腸が煮えくりかえる思いだったが、ぐっと押し黙った。
リオを案じていたのは本当とはいえ、それに乗じて上手く行けばアランを捕まえられるかも、というやましい魂胆を抱えていたのも事実だった。
(メイベルが居れば……。連絡手段がないのが痛いわね)
「お嬢さん、もうこの辺りでお別れだ。あの村を目指して、街道沿いに降りていけばカナハトンの駅に着く。帝都に行って、きちんと精密検査を受ければ、あんたが魔女じゃないことは証明される」
さすがに昨日の、魔女に対する奇妙な恐ろしい熱狂も、降りそそぐ雨に冷やされ醒めただろう。
きっと、赤毛を隠し通して帝都をくぐり抜け研究所にでも泣きつけば、ブラッドがローズの出自を証明してくれる。
もちろん、ローズにはいくらか罪状があるが、魔女のレッテルに比べれば些細なものだ。魔術師に脅されたとでも証言すれば、罰も軽減されるかもしれない。
この飄々とした危険極まりない魔術師を捕まえるより、はるかに現実的だ。いや、それ以前に。
「……あんたにとっては、わたしを殺すのが一番都合が良いはずよ」
「若い娘が、そんな恐ろしいことを口にするもんじゃない」
「はぐらかさないで」
「言ったろう。俺にとって、赤毛緑目の女は特別だ」
たしかに昨晩、彼はそんなことを口走ったが、赤毛緑目の“女”とまでは言っていなかった気がする。
ユギトへの信仰心だろうか。あるいは、処刑された王族への懐古かもしれない。
「わたしをあんたたちの慕うなにかと同一視するのは、やめてちょうだい」
震える唇が発するのは、紛れもない怒りだ。この局面でアランを挑発するようなことを言うのは自殺行為だと認識はしていたが、黙ってなんかいられなかった。
アランは苦笑した。たしかにな、と嘯いて、ローズに背を向ける。
「あんたはどうするの。ようやく、古王国から解き放たれた帝国が待ち望んだ国家事業を、台無しにするわけ?」
「どうかな」
冷えた声音に、怖気づいた己を自覚して、ローズは眦を決した。
「そんな卑劣なことばかりしているから、迫害されるんじゃないの。もっと他に、やり方もあるはずだわ。エスターテ王家の古王国嫌いは有名だけど、今の王太子殿下はお優しい。話し合えば――」
そこまで言った時だった。
アランの脇からこちらに顔を覗かせていたリオの表情が、これ以上ないほど明確な恐怖に歪んだ。ひっと、悲鳴を噛み殺した顔には、痛々しいくらいの悲痛さが滲んでいる。
アランが緩慢な動作で振り向いてリオの頭を引き寄せると、ローズに奇妙にやわらかな笑みを向けてくる。
「憎むべきタオの民の行く末を案じてくれるだなんて、情け深い」
決してタオの民を憐れんで言った言葉じゃない。そう反駁しようとした唇が、アランの表情を認めて固まった。
彼の表情は今までで一番友好的なものに見えるのに、どうしてか金縛りにあったかのように身体が動かない。
対峙するローズとアランの間で、ひと際大きくリオが噎せた。アランの腕の中でもがくと、彼の制止も振り切って地面に足を下ろしてそばの茂みまで駆けていく。呻き声とともに背中が震え、リオは雑草を握りしめて嘔吐した。
目を見開いたアランより早く、ローズはリオに駆け寄り、その背をさする。鞄の中からハンカチを取り出すと、発作のおさまったリオの口元を拭ってやった。
「この子まで巻き込むのはやめたら? せめてリオだけでもどこかに保護してもらえば――」
そう提案しかけたローズの手首を、火照ったがりがりの指が掴んだ。もうほとんど体力は尽きているだろうと思ったのに、思いのほか、力がある。
「無理だよ」
そう言い切ったリオは、凄絶な笑みを浮かべる。
「知ってるだろ。僕は、存在しないはずの人間なんだ」
ローズは顔を歪めた。
『……仮に、あなたが真実を述べているのだとして、生まれるはずのない命だわ』
昨夜、ローズ自身もリオを称してそう言い切った。
しかし、虫の良い話だが、リオが――まだたった十の少年が自らをそんな風に切り捨てるのは、なにかが間違っている気がしてならない。胸に異物がつまったような、嫌な感じがした。
唇を噛みしめて視線を落とす。異変が訪れたのは、そのときだった。
全身が凍りつき、心臓が握りつぶされるような衝撃が走る。ガチガチと歯が鳴り、肌が粟立つ。まるで、気温が二十度くらい一気に下がったみたいだ。
対照的に、臓腑が燃えるように熱を発し始めた。ローズは全身を強くかき抱いて、分厚く垂れ込めた雲を見上げる。
「お嬢さん?」
いくらか強く腕を引かれ、ローズは引きつれそうになる声を無理やり押し出した。
「かく、れて。《原石》動力だわ。……なにかは、分からない、けど、近づいて……きてる。これ、ものすごい、エネルギー、よ」
「は? なにも、見えないよ?」
胸を苦しそうに押さえながら、リオが不審げに空を仰ぐ。
臍の辺りが、尋常じゃないくらいに痛み出した。身体が熱いのだか、冷たいのだかさえ判断がつかない。
目の前のアランの顔が、ぐにゃぐにゃと揺れている。
「早く! その子、連れてって! 死ぬわよ!?」
理性ではなく本能が吠える声の意味は、当のローズにさえ分からない。
だが、絶え間のない雨を両断するように響いたその声は、たしかにアランを動かした。
アランは目を丸くしているリオを抱えると、すぐさま森のなかに取って返した。おそらくこれほど鬱蒼と茂っている森であれば、そう簡単には見つからないはずだ。
ローズは、自分もアランたちに続こうと立ち上がりかけた。しかし、平衡感覚すら失ったらしく、足は縺れて無様なダンスを披露している。
音を拾う機能が薄弱になった聴覚が、プロペラ音を捕らえる。
(――飛行艇、だわ)
飛行艇ならば、乗員はメティオラ人で、いくらローズの容姿が魔女を彷彿とさせようが、正真正銘犯罪に加担した事実があろうが、いきなり攻撃してきたりはしないはずだ。帝国法では罪人の刑罰は弁護人を伴った裁判によって規定される。恐れる必要はない。むしろ、魔術師一味と疑われているこの身にとって、救世主ともなりうる存在だ。
なのに、ローズの震えは一向に収まる気配がない。
もはや身体の感覚は麻痺して、体内で絶叫をする声が荒れ狂っているほかには、なにひとつ感じられるものはなかった。
(いや)
ローズは、泥に爪を立てて、這って地面を進んだ。目から生理的な涙が溢れる。
(あれは、嫌)
意識が途切れそうになって、ローズは唇を噛み切った。思い出したように痛覚が跳ね起きる。
痛みで少し、意識が冴えた。麻痺が解けた代わりに、全身の激痛がぶり返す。
「なん、なのよ!!」
やり場のない怒りだけを支えに、匍匐前進する。跳ねた泥が、頬を弾く。
腹部の熱が、限界に達した。今にも、内臓も皮膚も溶けて中身が飛び出すんじゃないかだなんて凄惨な想像が頭を過ぎる。
飛行艇がすぐ近くまで来ているのだ。
怖くて、恐ろしくて、身体がままならない。
《原石》動力が怖い以上に、そんな普通の人とは違う反応をしてしまう、自分が怖い。得体が知れなくて、まるで魔女だと罵られている時みたいな気分になる。
無理やり抽出した怒りも、もはや上書きされて意味がなかった。
もうダメ、と観念したとき、身体が宙に浮き上がった。泥まみれの頬が、なにか温かなものに触れる。
見ると、アランがローズを抱き上げていた。
「――な!」
「静かに。気づかれる」
そう言って、アランはローズの体重をまるで感じていないみたいな足取りで、森まで引き返していく。
上空の気配を探るが、どうやらローズたちに気づいた様子はないようだ。
いくらか奥まった茂みのなかで、リオが心配そうに顔を突き出している。ローズとアランを認めると、ほっとした様子で木の幹に背を預けた。
「《原石》動力に、なにか因縁でもあったりするのかな?」
ローズはぐったりとアランに身を預けるだけで、彼の質問の意味も理解できない。
「……ともかく、助かったよ、お嬢さん」
そう言って、アランはローズの顔についた泥を手で払った。まるで花弁に触れるようなやさしい手つきが、ぼやけた意識の中で妙にはっきりと胸に刻まれる。
真上を《原石》利用の空の魚が、雨の波をかきわけて、優雅に泳いでいく。
《原石》動力とローズの距離は一番縮まったはずなのに、何故か先ほどより腹部の痛みと熱がやわらいでいた。