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機械帝国の魔女  作者: 雨谷結子
第2章 まどろみと鳴動
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 破れ、赤黒く染められた外套を引きずって、少年は見知らぬ土地を走っていた。

 少年の腕の中ではまだ生まれて二カ月と経っていない嬰児(みどりご)が、すやすやと寝息を立てている。

 三人で始めた逃走劇ももう役者は一人どこかで行方も知れぬ身となって、今は二人旅だった。行くあてもない渇いた心がささくれ立つような道程は、まだ齢を十も数えていない少年を疲弊させ、生気を奪い尽くした。

 ひどい空腹感と喉の渇きがまとわりついている。胃液を吐き続けた口内は苦く、まともに睡眠を取っていないせいか意識は朦朧としていた。

 銃弾を受けた左脚は、母の施した手当でなんとかまだ使いものになっているが、それもいつまで保つか分からない。

 鋼鉄の都市の外縁に、打ち捨てられたようにして佇んでいる工場跡。もはや廃棄物の掃き溜めと化したその場所で、少年は朽ち果てるように膝を屈した。

 油と汚水が混じり合ったような、澱んだ水面に浸かる。ひどい臭気が立ち込め、なんだか涙まで込み上げてくる。そんな劣悪な――祖国を滅ぼした敵国の縁辺に身を沈めてなお、火照った身体はひやりとした感覚に馬鹿正直に歓びの声を上げた。

 本能の赴くままに、少年は瞼を下ろす。

 途端、どす黒い憎悪が臓腑の底から噴出した。

 眼裏に浮かぶのは、血染めの玉座と、先端に貴石を嵌めこまれた折れた杖。

 それは、少年と同じ冬の名と秋の名を持つ家々が守るべき、天上の証だった。


***


 薄雲を透かして、やわい月明かりが滲んでいる。

 絡みつくような下生えや梢に足を取られながら深い森を抜けると、そこには朽ち果てた建物の残骸がひっそりと佇んでいた。

 もう屋根も残っていない、だだっ広い石の古跡だ。罅割れた石床には苔が繁茂し、ところどころ雑草が顔を覗かせている。

 かつてはきっと、権威を誇示した文明の象徴であったはずの巨大建造物は今や、人知れず緑の胎内へと取り込まれつつあった。

 夜気をまとった風がドレスの隙間から入り込み、ローズは小さく身震いをする。秋を迎えるにはまだ早いといえど、季節はもう晩夏。さすがに宵の風は身体に滲みる。

 トリムンド駅からここカナハトンまで逃れてきた顛末を思うと、図太さが売りのローズもさすがに辟易とした。

 まず駅に隣接する交通専門機械屋に押し入り、《豹》を強奪した。それからメティオラ鉄道の支線を乗り継ぎ、この機械科学技術の恩恵からこぼれ落ちた未開拓地まで、どうにか追っ手を振り切ってやってきたのだ。

(いくつの罪に問われるのかしら……孤児院にまで厄介ごとが持ち込まれてないといいけれど)

 そんなことが頭の片隅を過ぎったが、真にローズを悩ませるのは今現在自分が置かれた状況だ。

(魔術師――古王国タオの生き証人。帝国との戦いの歴史は深く、そのおぞましい魔術により、多くの臣民が虐殺された。その性質は野蛮。古王国の解体後も、帝国への叛逆行為を繰り返し、今は亡きいにしえの王国を再び打ち建てんとしている)

 ベレスフォード女学院で習った知識を諳んじ、ローズは重たげな荷物を下ろした魔術師を一瞥した。

 わずかな月と星の輝きに照らされた彫りの深い顔立ちには、疲労の色が濃い。

 その隣、どうも魔術師に懐いているらしい少年――リオは、ばったりと地面に倒れ込んだ。

「ああああああ、もうお腹空いちゃったよ。寒いし、余計なお荷物は付いてくるし」

「あら、その余計な荷物を引き入れるきっかけをつくったのは、どこのどいつだったかしら。おほほほほ!」

 嫌味と皮肉の応酬も、半日の間に板についてきた。

 とはいえ、いまだ魔術師とこの少年の関係性や彼らの正体はまるで分からない。カナハトンに来るまでは身を隠すことに精一杯で、個人の事情に首を突っ込む余裕などまるでなかった。

 ローズはリオをじろじろと眺めまわす。

 枯れ枝のような貧弱な身体つきをしているが、年の頃はおそらく十にいくかいかないか。栗色の髪は肩につくほどの長さまであり、つぶらな瞳は濃褐色で忙しなくくりくりと動いている。第一印象だけなら、愛らしいと言ってしまいたくなる容貌だが、取りたてて変わったところがあるわけでもない。

 極端に身体が痩せ細っている以外は、なんの変哲もない、普通の少年に見えた。

「あんた、どうしてこの凶悪犯なんかに懐いているのよ?」

 性格の悪さはひとまず脇に置いてリオのことを考えてみると、ますますこの少年が国家転覆を狙っている――と思われる――極悪人とつるんでいる理由が分からない。

「は? そんなの、僕が魔術師だからに決まってるだろ」

「――は?」

 ローズが、ぽかんと口を開けて間抜け面をさらしたのも無理はない。

 なにせ、古王国解体後、魔術師は出生できなくなったはずだった。古王国の解体は十六年前。リオは、多く見積もっても十歳くらいにしか見えない。

「あんた、実はそんな貧相な身体つきで十六歳とか?」

「いちいち失礼な女だな。僕は十歳。ていうか、貧相な身体なのはお互いさまだろ」

 ささやかすぎる胸のふくらみあたりに不躾な視線を感じて、ローズは顔の筋肉が強張るのを感じた。見る見るうちに頬に血が上り、耳まで真っ赤になった顔でキッとリオを睨みつける。

(待って、ローズ・イーストン。こんなクソガキ相手に大人げないわ。今、問題にすべきはそこではないでしょ?)

 荒れ狂う海のような心をなだめ、ローズはリオの言葉の真意に考えを巡らす。

「さてはあんた、この魔術師の弟子とか? 帝国臣民でありながら、宿敵に寝返るだなんて、とんだ不届き者ね」

 そう決めつけたローズに、リオは深い溜め息を吐いて魔術師にすり寄る。

「アラン、もうやだ、この女。馬鹿だし、うるさいし、僕の繊細な神経がもたないよ」

「花盛りの娘を捕まえて、そんなことを言うもんじゃない。ほら、これでも食べていろ」

 そう言って、魔術師――おそらくアランという名前――は、干し肉を取り出すとリオに与えた。

 その一連の動作を見ていたローズは、腹の虫が盛大に鳴り響く音を聞いた。

 リオのものでも、アランのものでもない。花盛りのローズのものだ。

 そういえば、今日は朝から紅茶以外なにも口にしていない。

「お嬢さんも、いかがかな」

 爆笑するリオの方を極力見ないようにしながら、ローズはつんと顔を背ける。

「タオ人のほどこしは受けないわ」

「ちょっとした異文化交流だ。野垂れ死ぬよりは、いくらかいい」

 野垂れ死ぬの一言に、ローズは恐る恐るアランの方ににじり寄った。

 そうだ。ローズは帝国臣民として、この凶悪犯をお縄にするという崇高な使命がある。

 というか、それくらいの活躍でもしない限り、魔術師の逃亡幇助と強盗と無賃乗車を働いたローズは帝国――そして敬愛するブラッドに顔向けできない。

 そのためには、力を蓄える必要があった。

「アラン! 女王の犬なんかに貴重な食料を分けてなんかやるなよ」

「またどこかから、かっぱらってくるさ。それに、この森は食料が豊富そうだ」

 苦虫を噛み潰したような顔をしたリオが、敵意もあらわにローズを睨みつける。

 しかし、ローズも負けじとその顔を睨み返した。

「それよりリオ、少し顔が赤いぞ」

 アランはどこか気遣わしげにそう言って、リオの額に手を触れた。見る見るうちに、アランの顔が曇る。

「熱があるな。それを喰ったら水を飲んで、さっさと寝ろ」

「これが風邪ってやつかあ……どうりで、なんか身体がふにゃふにゃすると思ったよ」

 リオの言い草ではまるで、これまで風邪をひいたことがないみたいだ。

 まあ、なんとかは風邪をひかないという奴だろう。しかしこれほど貧弱な身体で、よく今まで風邪もひかずに生きてこられたものだ。

 アランは羽織っていた外套を脱いで、リオの肩に掛けた。それから、干し肉を咀嚼し終えたリオの背を支えて、水筒から水を飲ませる。仕上げとばかりに荷物の中から粗末な布を引っ張り出すと、敷布代わりに床に広げた。

 リオはよろよろとそこに横たわって丸くなると、すぐにこてんと寝こけた。その息づかいは少し苦しげだ。

 アランはその小さな身体にそっと外套を掛けて、絡まった髪を梳いてやる。

「……少し、無理をさせすぎたか」

 誰に聞かせるともなく、小さな囁きが落ちる。

 まるで幼気な少年を心の底から案じているような言葉に、ローズは落ち着かない居心地の悪さのようなものを感じた。

「すぐに戻る。じっとしていろ」

 アランはローズにそう言って深い森のなかに分け入ると、五分もしないうちに戻ってきた。その手には、枯れ枝や落ち葉が抱えられている。火打石を使っていとも簡単に火を熾すと、枯れ枝がじわじわと火の粉をまとっていく。はじめは頼りなかったその小さな火種も、すぐに安定して盛んに燃え始めた。

「待たせて悪かった」

 そう言って、アランはローズから人一人分距離を取ったところに腰を下ろした。それから彼は干し肉を半分に千切ると、片方をローズに差し出した。

 ローズは躊躇いつつも、「どうも」とぶっきらぼうな声音で言い捨てると、両手でそれを受け取った。また少し逡巡したのち、覚悟を決めたようにえいやと口に放り込む。

 舌触りは悪く、これまでの孤児院生活の質素な食事と比べても、とてもじゃないが上等な食事とは言えない。なのに、どうしてか舌がとろけ、歓喜にも似た満足感が腹を満たす。

「おいしい……」

 なんでそれだけのことに、こんなに泣きたくなるのだろう。仇敵と肩を並べて、平平凡凡と食事だなんて、ありふれた日常じみた行為に耽っているからだろうか。それとも家が恋しくなったのか。

 ブラッドや孤児院の仲間はどうしているだろう。ブラッドはともかく、孤児院で一緒に暮らす大半が、ローズが魔女だという根も葉もない噂を信じるかもしれない。せっかくなんの気まぐれかジャックが歩み寄りを見せてきたりしていたところだったのに、また振り出しに戻ってしまった。

 不意に、横からたまらず噴き出したみたいな笑い声が聞こえて、ローズは眉をひそめた。

「素直なお嬢さんだな。俺は大規模テロを画策している凶悪犯なんだろう? 毒が入っているとか、思わないのか?」

 ローズの顔から血の気が失せ、面白いように一気に青ざめた。先ほど飲み込んだ欠片を吐き出そうとして、横から制止の声が響く。

「たとえ話だ。そもそも、この状況で食べ物を粗末にするようなことはしないさ。そこらの木にお嬢さんを括りつけでもしたら、三日後には勝手に死んでくれるんだからな」

 凶悪犯にふさわしい言い草に、身の毛がよだった。

「あんたこそ、このまま逃げ続けられると思うの? きっともう、ガルディオン市警察だけじゃない。ガルディオン警視庁(メティオラ・ヤード)を挙げて、捜索の手が伸びているわ」

「さてね。俺たちに安息の地はない。逃げ続けるか、反旗を翻すか、はたまた籠の鳥になるか」

 アランは胡坐をかいた腿に頬杖をついて、ローズに流し目をくれている。

 デイリー・インパクトの姿絵や、野暮ったい髭面のせいで勘違いしていたが、どうもこの男、思ったほど年を食っていない。二十代後半――否、二十代半ばだろうか。

「お嬢さん、名前は?」

 ……魔術師に名乗る名はないわ。そう口にしようと思っていたが、空腹に食べ物を恵まれた恩義は感じてしまっていて、どうにも具合が悪い。

「……ローズよ」

「――ローズ、ね。なるほど。たしかに深紅の薔薇を思わせる容貌をしている」

「ちょっと、名前で呼ぶことを許したつもりはないわよ!」

「お互い名で呼び合えば、おあいこだ。俺の名前は覚えてくれたかな」

「だからわたしは、魔術師と馴れ合うつもりはさらさらないの!」

 ローズは声を荒げてしまったことに気づいて、慌てて口元を両手で押さえる。

 わずかな距離を隔てたところに、熱を出したリオが眠っている。あの少年のことは気に喰わないが、さすがに体調の悪いときにまで嫌がらせをするほど、ローズの性根は腐ってはいない。

 幸いリオは、静かな寝息を立てているままだった。ほっと息を吐いて、ローズは立ち上がる。手には、焚火の火を移らせた枝を持った。

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