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一人残されたローズは、おっかなびっくり喧騒の激しくなったトリムンド大通りへと足を踏み出した。
ガルディオンの郊外に位置するトリムンド街は、普段は閑静な高級住宅地の様相を呈している。しかし今、その仮面ははぎとられ、道行く人々は恐怖や怒りをあらわにしていた。
「野蛮な魔術師どもめ。帝国の技術の結晶に牙を剥くとは」
「口にするのもおぞましいあの種族は、即刻、処刑すべきですわ」
「カラドパークを襲った奴らは、ちゃんと捕まったんでしょうか。おちおち外出もしていられませんね」
護衛機能を搭載した自動機械人形や機械獣をそばに貼りつかせて、人々はカラドパークのある北西の方角にちらちらと目をやっている。
ローズは、赤毛を隠すボンネットが万が一転がり落ちたりしないように、ぎゅっと両手で押さえつけてトリムンド駅へと引き返す道を急いだ。
駅構内は、このトリムンド界隈から一刻も早く逃げ出そうとする人々で溢れ返っていた。
時刻表を見ると、一時間は待たなければモルクフォード行きの列車は出ないようだ。
ローズは嘆息して、冷たい壁に凭れる。
硝子でできた天井越しに薄青の空を巨大な魚が泳いでいる。トリムンドの異変を察した偵察飛行艇がやって来たようだ。もしかすると、交通機関封鎖もありうる。
ローズは魔女ではないことが証明されているが、取り調べに遭うようなことがあれば、またこの赤毛と緑の瞳がちょっとした騒動を起こすことは間違いないだろう。
足元に目を落とすと、今朝のタブロイド紙が転がっていた。ローズは屈んでそれを拾うと、足跡のついた紙面を手で軽く払って広げた。
『魔術師組織、万国博覧会襲撃を計画か』
『大規模テロ。国家転覆を狙う』
衝撃的な見出しが踊る大衆紙デイリー・インパクトは、大して信用のないゴシップ紙の位置づけにあったが、どうやら今日の日のカラドパーク襲撃を言い当ててしまったようだった。これは明日、デイリー・インパクトが飛ぶように売れるだろう。
紙面の左下の方には、なにやら凶悪そうな顔つきの髭面の男の絵姿が掲載されていた。
ここのところ帝都を騒がせている魔術師で、ガルディオン市警察が総出で追っている人物だ。
「こんな不潔そうな男とは絶対にお近づきになりたくないものね、メイベル」
周囲をくるくる飛んでいたメイベルを引き寄せ、ローズは毒づく。
「もしかして、さっきの爆発はこの男の犯行かしら? もしそうだったら、許せないわ」
目前に迫った万国博覧会の開催を危うくしたあげく、せっかくのブラッドとの貴重な時間を台無しにした。
むっとして、ローズは新聞を握りしめる。それからさざ波立つ心を鎮めるように新聞を引き下ろして、眉をしかめた。
なんだか、構内が騒がしい。
「鉄道警察の取り調べでも始まったのかしら。それにしては、ちょっと妙な雰囲気ね」
ふと駅の入り口に目を移すと、物凄い勢いで人垣が割れた。そこここから、甲高い悲鳴が上がる。
背中を壁から離して背伸びをすると、人垣の向こうに何やら背の高い人物が駆け込んでくるところだった。小脇に痩せ細った十歳かそこらの少年を抱え、周囲を威嚇している。
「なに?」
鞄を抱えなおしたローズは目を凝らして、なんだか見覚えのある顔に小首を傾げる。
黒に近いブラウンの髪は少し癖があり、ゆるりと柔らかく輪郭を縁どっている。
高い鼻筋の先の眉は凛々しく、鋭く辺りを睨み回す瞳は荒れ狂う海の灰色だ。唇は薄く笑みを刷くように吊り上がり、揺るぎない自信が覗いている。
短く無精ひげが伸びていたが、甘い顔貌のせいで、それすら彼に魅力を与える材料にすぎない。
野性的な、自由が服を着て歩いているような男だ。
「あ……」
ローズは新聞を取り落とした。
足先で、凶悪顔の魔術師がこちらを睨んでいる。新聞の絵姿は少し悪人面っぽい脚色が過ぎていたが、間違いない。
連日のテロ行為で被疑者の一人として挙げられている魔術師その人だ。
「だめよ! 子どもを――子どもを人質にしているわ!」
そばに居た貴婦人が、今にも卒倒しそうな顔で金切り声を上げる。
見ると、すぐに男を魔術師だと認識したらしい勇敢な紳士が、機械獣の《獅子》をけしかけようとしているところだった。
魔術師の腕に捕らわれた少年は、恐怖のためか泣いているように見える。もし《獅子》が上手く魔術師を捕らえたとしても、少年も巻き添えを食ってしまうだろう。
(そんなのは、駄目!)
「メイベル!」
ローズは相棒を呼ぶなり、走り出した。
持ち前の俊敏さを活かして群衆を割り、息せき切って《獅子》の背に飛びつく。
だが、《獅子》に触れた瞬間、芯から凍るような嫌な感覚に全身を支配された。
呼吸が荒く細くなり、臓腑の奥底から叫びめいたなにかが迸る。
予想していなかったが、身に覚えのある感覚に、眩暈を覚えた。
ローズは思いきり目を瞑って、暴走しかけたなにかを必死で抑えつける。
「なんだ!?」
《獅子》の持ち主の紳士が、驚愕の声を上げる。
驚くのも無理はない。
前足を振り上げ、今にも魔術師に踊りかかろうとしていた《獅子》が、まるで事切れたかのように動作を停止してしまったのだから。
「この仔、《原石》動力を利用した機械獣だったのね」
ローズは舌打ちしたい気持ちで、動力から根こそぎ破壊された《獅子》の頭を撫ぜた。
紳士に謝りたいところだが、今はそんな場合ではない。
「ちょっとそこの、凶悪犯罪者!」
ローズは噛みつくように魔術師を指差した。
魔術師は、瞬く間にこの場の主役を掻っ攫ったローズに不審げな眼差しを向けている。
「その子を放しなさい! 人質が欲しいなら、わたしが代わりに務めるわ」
言って、ローズは魔術師を刺激しないよう慎重に一歩踏み出した。
憐れな少年は、両手で顔を覆って隙間からこちらをうかがい見ている。華奢な肩は小刻みに震え、今にも声を上げて泣き出してしまいそうだ。
「なるほど、勇敢なお嬢さん。いいだろう、こちらへ」
凄みのある、低い声。なのに、ひどく耳に馴染む。
上背があるだけでなく体格も立派で、無駄のない身体つきは野生の肉食動物を思わせた。おそらく、腕に捕らわれでもしたら逃げ出せない。
ローズは生唾を飲み込んで、先ほどの《原石》に触れた後遺症でよろめく身体に鞭を打って歩を進める。
魔術師は、余裕さえ感じさせる微笑を浮かべて首を傾げていた。
「……その子を放すのが先よ」
どうにか、声が震えてしまわずに済んだ。
魔術師は、ローズの要求どおり、少年を床に下ろす。しかしまだ用心深く少年の腰を抱いていた。
痺れを切らしたように、ローズはもう一歩だけ魔術師に近づく。ひと息で、魔術師に捕まえられてしまう距離だ。
ローズは短く息を吸って、魔術師を真っ向から睨みつけた。
「さあ、その子を解放して」
ようやく、魔術師の手が少年を前へと押し出す。少年がたたらを踏んだ、その瞬間、
「メイベル!!!!」
ローズは鋭く《蜂》の名を呼んだ。
メイベルは《蜂》の機械蟲にふさわしく、伝言手段以外の機能を持っている。腹部の末端にある針に、麻酔薬が仕込まれているのだ。
ローズは、魔術師の首筋をメイベルの針が貫くのを見た――そのはずだった。
「小細工はなしだ、お嬢さん」
息がかかるほど近くで、男の声が響く。
ローズは肌を粟立たせ、自らの状況を正しく認識した。
――魔術師の頑強な腕に閉じ込められている。
視線を落とすと、翅を落とされたメイベルが無残な姿で床に転がっていた。
「メイベル! ――このくそ野郎ッ! よくもメイベルを!」
逆上したローズは、レディとして言ってはならない罵り言葉を吐き捨てた。
「約束を破ったのは、どっちかな。まあ、それを言うなら俺も同罪だが」
くすりと笑って、魔術師は少年に視線を戻した。
先ほどまで震えるほど怯えていたはずの少年はなぜか、魔術師に向かって微笑み返している。
わけが分からない。
少年はローズを見上げると、これ以上ないくらい人を小馬鹿にした嘲笑を浮かべた。
「馬鹿な女! 僕とこの人はグルだよ。そこの《獅子》使いはどうやら、女王の忠実な犬みたいで僕の正体を知っていたから、かわいそうな僕に騙されてくれる人質志願者を探してたのさ」
「はあ!?」
ローズは素っ頓狂な声を上げた。
ということは、ローズは正真正銘人質になってしまうばかりか、少年を助けるという当初の目的からして履き違えていたらしい。
ローズがしたのは、この魔術師一味に与するような、あってはならない行為だった。
(そんなの、認められるはずないでしょ!)
ローズはなりふりかまわず、男の腕の中で暴れ出す。髪を振り乱すような勢いで頭を振ったせいか、勢いづいてボンネットが転がり落ちた。
あっと声を上げ、ローズは反射的にボンネットに手を伸ばそうとする。しかし、もうすべてはあとの祭りだった。
咲き初めの薔薇のような、ゆるくウェーブを描いた深紅の髪がこぼれ落ちる。
それはまるで、むずがっていた蕾が花開くような、鮮やかな一瞬だった。
「あんた……」
ひどく困惑したような魔術師の声が、耳朶をなぞる。
呆然としたのは、ローズだけではなかったらしい。
引き寄せられるように魔術師を見上げると、光の加減でその色を変える不思議な灰色の瞳が、寂しげな空の色をたたえてローズを見つめていた。
「魔女だ!」
はじめにそう声を上げたのは、果たして《獅子》使いの紳士だった。
「あの魔女は、不可思議な術を使って、私の《獅子》を破壊した! あの子どももグルだ! 早く帝国に仇なす魔術師一味をひっ捕らえろ!!」
その声が皮きりになったのか、唖然としていた群衆が、自らの機械獣に攻撃命令を出したり、懐から拳銃を取り出したりし始める。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょおおおおおっと待ってってば!! わたしはれっきとした帝国臣民で、おぞましい魔力なんてこれっぽっちも持っていないんだから!!!!」
声の限りに叫ぶローズの声も、群衆の激昂した声という声にかき消される。
ローズの必死の訴えも抵抗も虚しいばかりだ。魔術師は、ローズを抱えたまま駆け出した。
「なんなんだよ! なんて使えない人質が飛び込んできちゃったんだよ!!」
隣では、天使の皮を被った小悪魔が自分勝手な悪態を吐いて並走している。
「計算が狂ったが、ずらかるぞ、リオ」
「その役立たずの女、捨てていこうよ。赤毛で緑の目してるけど、魔力が感じられない。ゴルドンの王女さまなんかじゃないだろ。馬鹿丸出しの顔してるし」
「そうもいかない。このままじゃ、奴らになぶり殺しもありうる」
魔術師が平然と言ってのけた言葉の残虐さに、ローズはぞっとする。
「どうする? お嬢さん。あんたを解放したい気持ちは山々だが、このまま見殺しにするのも寝覚めが悪い」
涼しい顔をして笑う魔術師を、ローズは睨み上げる。
「ぜんぶ、ぜんぶ、ぜーーーーーんぶ、あんたのせいよ! とりあえず安全なところまで連れていきなさい! 話はそれからだわ!」
やけくそのようにローズは叫んで、性悪の極悪人どもを殴りつけたい衝動を必死でこらえる。
こうして、ローズのまったく本意ではない、憎むべき魔術師との逃避行が幕を開けた。