エピローグ
地平線に、残照が燃えている。
すぐ近くまで夜の影がひたりと迫り、青と黒と紫で天空を織り上げようとしていた。
ローズとアランはジャックの手配した《獅子》に跨り、海の見える丘まで休みなく駆けてきた。
海が夕日を弾いて、きらきらと反射している。その真上には、一番星が輝いていた。
港町に、人々のありふれた日々の営みの光景が広がっている。もう帰れない、ひどく平凡な在りし日の思い出が、なんだか泣きたいくらいに綺麗に思えた。
遠く向こうには、飛行艇が浮かんでいた。ローズの臍のあたりが鈍く疼く。
「各国への対応もある。テロリストの確保だけに人員を割けないらしいな」
ジャックはそう言うと、原っぱに座り込んで脚を故障した《獅子》を手際よく解体して修理を始めた。
「……」
「…………」
「あのさ、三人しかいないのにずっと黙ってられると、俺、すげえ困るんだけど」
「それを言うなら、アランに言ってよ。この人、ずっと怒ってるんだもの。こわーい」
棒読みの『こわーい』に、アランがぴくりと眉を吊り上げる。
ジャックは使えなくなった部品を指で弾いた。鉄製の小さな部品が、アランの額に命中する。
「男らしくねえな。言いたいことあるなら、ぶつかり合ってこいよ」
「ちょっと、その言い方だとわたしまで男みたいなんだけど!?」
憤慨したローズの左腕が掴まれる。顔を上げると、アランの苦々しげな瞳にかち合った。
「坊やに世話を焼かれるとはな」
「あ、てめ、また坊やっつったな!」
「お嬢さんをさらえなかったんだ。坊やで十分さ」
軽く笑って、ジャックの頭を小突くと、アランはローズの手を引いて歩き出した。
「あ、おい、ただしローズに手ぇ出したらコロス!」
追いかけてきた声に、アランは振り返らずにひらひらと手だけ振って応える。
ローズの負傷した右腕を気遣ってか、その歩調はひどくゆったりとしていた。
アランに導かれ、ローズは丘の頂上へと登る。
そこには、小さな石碑が残されていた。
「ここは、かつてマハニ教神殿があった場所だ。今はただ、亡霊を恐れてか、鎮魂の石碑だけが残っている」
石碑の上に、アランはことりとなにかを置いた。
その黄昏色の石を認めて、ローズは息を呑む。
「……リオ」
「かっぱらってきた。本当ならすべての《原石》を取り返したかったんだがな」
そう言って、アランは崩れるように石碑のそばに座り込んだ。
「俺じゃもう、お嬢さんの力を封じることはできない」
「かまわないわ」
「お嬢さんは分かっていない。その力がどれほどの脅威か――その力はやがて、お嬢さんが護りたいと思ったものすら、喰いつぶすかもしれない」
「……もしわたしの力が暴走したり、この破壊の運命が誰かを傷つけたりなにかを壊してしまうときがきたら、わたしはわたしの運命ごと自分を葬るわ」
そう言い切った途端、ローズは胸倉を掴まれ、引き寄せられた。
淡い色の瞳のなかで、炎が燃え盛る。
知らなかった。大人の男の人が怒りを露わにしたとき、これほど怖いと思うだなんて。
「俺は――あんたに、こんな運命なんか与えたくなかった……!」
十六年前、アランがどんな思いでローズを棄て、そして十六年の時を経て自らの命を擲ってまで人の枠にとどめさせようとしたのかは分からない。
けれど、掠れた声と歪められた表情が、彼の心を雄弁に語る。
「あなたのせいじゃない。ぜんぶ、わたしが招いたことよ」
「……かならず、後悔するぞ」
「しないわ」
ローズは言い切った。
今度はローズがアランの胸倉を掴み、彼の綺麗な瞳を睨み上げる。
「わたしは何度だって肯定する。アランを助けたことを、後悔なんかしない。あなたのためでも誰のためでもなく、わたしはわたしのために、こうすることを選んだの。たとえアランにだって、わたしの選択を否定させない」
言い聞かせるようにはっきりと、ローズは告げる。
アランは苦しそうに、顔を引きつらせた。
「王杖は、忠誠を誓った王に生涯を捧げる、王の杖だ。これは、その義務から逃げた、俺の咎でもある」
「わたしはアランを縛るつもりなんてない。あなたは今までのように、自由に生きていいの」
これからローズが歩む人生は、きっとアランの預言したとおりになるだろう。
エスターテ――特にエレを宿すブラッドにつけ狙われ、タオ王国の復興を願うタオ人たちには担ぎ出されることもあるかもしれない。
エルヴィラに宣言したとおり、もしもこれ以上タオ人の命が貶められることがあって、ローズにできることがあるのなら、帝国と敵対していくことになりうる。
そして、なにより、この身に巣食う破壊の衝動を持つ女神を制御していかなければならないのだ。
そんな運命に、ジャックやアランを巻き込むつもりはない。ジャックは元よりメティオラ人で、アランはローズの持つ運命を封じようとしていた。
ローズは、これまでだってほとんど一人で生きてこられた。ここのところ、少し周囲が騒がしくてやさしさに慣れてしまっただけで、また元のように周囲が静かになるだけだ。
すべてはローズが一人で抱えていくべき問題で、自分でこの道を選んだ。
たくさん遠回りをして、たくさん間違えて、たくさんの罪を背負った。
でも、アランを救えたことだけはローズの誇りだから、これだけは絶対に間違いなんかにしたくなかった。
だから、この道を一人で歩いていく覚悟はできている。
怖いけれど、不安だけれど、たまらなく寂しいけれど、今この瞬間だけは、自分を肯定してあげたいから、ローズはまっすぐに前を向いた。
アランの瞳が、泣き出しそうに歪んだ。
肩を引き寄せられ、鎖骨にアランの顔が埋まる。薄い布越しに吐息がかかり、震えがきた。
「ローズ」
くぐもった声に、ローズは目を瞠る。はじめて彼に、名を呼ばれた。
アランが顔を上げて、真正面からローズを見つめる。
「あんたをなんて呼ぶのが正しいのか、ずっと考えてきた」
「……アランはずっと、お嬢さんって呼んでくれてたわね」
アランは皮肉げに笑う。
「逃げてたんだよ。過去の記憶のロザリア殿下からも、今のローズからも。過去から逃げ出した俺は、かつての主君に向き合うこともできず、今のあんたの名を呼ぶこともできず、ただ、あんたという存在に、名を与えて形を得ることに怯えていた」
「なら……どうして今さら」
アランを見上げてそう呟くと、髪から頬にかけて、輪郭を辿るように手のひらでなぞられた。
彼の眼差しは、ひどくやさしい色をしていた。
「帝国のお嬢さんでもなく、王女殿下でもなく、今ここにいるローズに、頭を垂れたくなった」
ローズはぎゅっと手のひらを握り、頭を振った。
「――アランは、わたしを恐れていた。今だって、わたしに巣食うものを畏怖しているはず。今さらわたしに傅くなら、どうして、わたしを二度も棄てたりしたの?」
ローズはアランを引き離し、怯えたように彼の眼差しから逃れた。
「わたしに罪悪感なんて感じないで」
後退りするローズの腕を、アランはそっと掴んだ。そのやさしさが、ひどく恐ろしい。
「どうせ、またわたしを棄てるわ!」
「棄てない。今度は決して」
言って、アランはローズを見下ろす。
「ローズ。あんたの力は強大で、圧倒的で、俺の意志なんて、簡単に支配されそうになる」
「なら! なおさら一緒にいるわけには――」
「数え切れないほどの間違いを犯し、遠回りをして、十六年越しにやっと見つけた答えだ。俺が俺の意志で、俺のために選んだ。分かるな? ローズ。あんたがあんたのためにすべてを選択したように、俺もそうして選んだんだ」
ローズの唇がわななく。
「王杖として、ともに在ることを赦してほしい」
ゆるりと瞬きを一つ。緑の瞳が、宝石のような涙をぽろりと落とした。
「わたし……本気にするわよ」
「してくれなきゃ、意味がない」
「アランは嘘つきだもの」
「……なら、そうだな。王杖の契約は、仕えるべき王の臍への口づけによって履行されるんだが、再契約でもするか?」
「は!? 再ってどういうことよ! 再びって!」
「ローズが〇歳のときに済ませてるからな」
「うぎゃああああああっ、やっぱ、アランって変態だわ、変態っ!」
「それで? 我が王のお答えは?」
くすりと笑ったアランに、頤を持ち上げられた。
真摯で誠実な、迷いを振り払った瞳だった。逃げるためでも後ろを向くためでもない、ローズとともに前に進んでいくことを覚悟した目。それでいて、ローズに断られるんじゃないかと、ちょっと心配しているような、緊張が過ぎる。
信じられる。信じたいと思った。
ローズの顔が、みるみるうちにほころんでいく。
「ゆるす。ゆるすわ、アラン。そばにいて」
アランの首にかじりついて、ローズはぎゅうぎゅうと彼を抱きしめる。
少しの躊躇いのあと、アランの腕が後頭部に回され、髪をかき回された。
夏の終わり、夜の淵へと落ちゆく空の下。触れ合った場所から伝わる熱が、たまらなくいとおしい。
道しるべのようだ、とローズは思う。
きっとこの先、ローズは数えきれないくらい、おののき、憤り、嘆く道を辿るだろう。
けれど、この道しるべがあればどんなことだって乗り越えていける。還る場所はここなのだと見失わないでいられる。
痺れを切らしたジャックが呼びに来て素っ頓狂な声を上げるまでの、呆れるくらい長い間。ローズとアランはそうして二つの影を重ねて、互いの熱を確かめ合っていた。
長く未熟な物語におつきあいくださり、本当にありがとうございました。
この作品は、私の好きなものをこれでもかと詰め込んだお話です。皆さまのお口に合ったか分かりませんが、少しでも楽しんでいただけたなら、これ以上嬉しいことはありません。
よろしければ一言でも感想をいただけると励みになります。
p.s.もし機会があれば、ローズの物語の続きを書けたら良いなと思っております。
雨谷結子




