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しとしとと、雨が降り出している。
《原石》の塔を抜け出したローズとジャックは、曇り空に紛れて帝都の郊外へと着地した。
明日は、万国博覧会が開会される。
観光客で溢れ返ったガルディオンでは、珍しい《大鷲》に騎乗し続けるより、堅実に徒歩に切り替えた方が安全だった。
追っ手の姿はまだない。
ジャックが持っていた新しいドレスに着替え、ボンネットで髪を覆い隠したローズは、ショーウィンドウに映った虚ろな少女の顔を認めた。周囲を、少女に同調するかのように《蜂》が項垂れた様子で飛んでいる。
少しして、がくがくと震えるその少女が自分だと気づいた。
「このまま、どこかで《馬》を借りて、リュンドに向かおう」
一つの傘におさまって、身を寄せ合っているはずのジャックの声が遠い。
「……身体、冷えてる。氷みたいだ」
ジャックはそう言って、ローズに巻きつけてあったショールをもう一度巻きなおした。
ちょうど、旅客輸送用自動走行車が通りかかる。それを捕まえ、後部座席に乗り込んだ。
「近くの機械屋まで、頼む」
運転手は自動機械人形だった。旅客輸送用自動走行車は、完全に自動機械化されたものと生身の人間が運転を務めるものと二種類がある。
ジャックはローズの頭を引き寄せ、腿を枕代わりに貸してくれる。
「たぶん、溢れそうになった力を無理やり封じなおした反動だから、そのうち治るわ」
ローズはそう言って、紫色に変色した唇を噛みしめる。
「……ぜんぶ、わたしが招いた。リオが死んだのも、アランがあそこに残ることになったのも、ぜんぶ――」
ローズがもっとリオやアランやジャックの言葉を聞いていれば、あんな惨い事態は避けられた。馬鹿みたいにブラッドや帝国を妄信して、自らに巣食う怪物から目を逸らさずに向き合っていれば、きっとなにかが変わっていた。
どうしてリオが存在したのか、《原石》への過度な拒絶反応はなんなのか、王太子がただの孤児なんかにかまうのはおかしくないのか、ちゃんと考えなかったのは、すべて自分の心を守るためだった。
魔女じゃない。わたしは魔女じゃない。そのことばかりに固執して、本当のことから逃げ続けた。
愚かなローズのために、リオは死んだ。その命を燃やして、綺麗なだけの石ころに変わった。
「リオ……」
ゆるして。
ううん、赦さなくていいから、一生恨んでローズを馬鹿だと、どうしようもない王女だと罵っていいから、なんだっていいから、ただ、ただ生きてここにいてほしかった。
あんな、ローズの罪ごと取り去るみたいな、夕焼けみたいな笑みを残して消えてしまったなんて、そんな現実――どうやって飲み下せばいい?
「ローズ、いいから――今は、考えないでいい。今だけ、俺が預かるから、だから、」
ジャックはローズが宙へ向かって伸ばした手を掴んで、胸に押し当てる。
「……ローズ、聞いて。俺が、おまえに惚れたわけ」
そう言って、ジャックは語り始める。
それは昔々、まだローズとジャックが幼く、世界のことなんてなにも知らずに日々を送っていたころの、やさしい記憶。戦後、親友だったティナが、タオの王族は赤毛と緑の瞳をしているのだと知って――ティナの両親は、彼女の目の前でタオ人に殺されたのだ――ローズと絶交をした、あの日の苦い思い出。あの衝撃的な日を、ジャックは傍らで目撃していたらしかった。
やがてローズもジャックも一歳年上のティナも公立学校に入学する。赤毛で緑の瞳のローズへの嫌がらせは、ティナを筆頭にして日に日に激しいものになっていった。
一方で、孤児の身でありながら名門王立学院の中等部に入学が決まったジャックも、その頃妬み嫉みを一身に受けて、嫌がらせに耐えていたらしい。今の人気者ぶりからは想像もつかないことだ。
ジャックはなまじ顔が良く、王立学院所属の女子生徒からもかわいがられており、また王立学院高等部に所属していたブラッドとも顔見知りだったため、同級生の男子から裏口入学だのなんだのと難癖をつけられたらしい。しかも、その難癖をつけた男子生徒グループのリーダー格が密かに狙っていた女子生徒がジャックを庇ったりしたものだから、その日の放課後、体育館裏に呼び出されて集団リンチにあったのだという。
ぼろぼろになって孤児院に帰ったその日、学校だけじゃなくて孤児院でもいじめに遭うローズを見かけた。ローズはその日も、泣き出しそうな顔をしながら、歯を食いしばってティナを睨み返していたという。
その、緑の瞳に恋をした。
ジャックはそう語った。
「でも――結局わたしが否定し続けてきたことは本当のことで、わたしが早くそれを認めていたら、リオもアランももしかしたら――」
「だけど、おまえのそんな、負けん気の強さが俺には救いだった。たしかに、……救いだった」
そう繰り返すジャックの瞳の強さに気圧される。
「だから、ぜんぶ、否定すんな」
ふっと、空っぽの心に水を注がれたような、満たされた感覚につつまれる。
やわらかくて、やさしい。
自分のしてきたことを思えば、そんな風に甘やかされているだけでいいはずがない。だけど、今ここにつなぎとめてくれようとするジャックの心を、受け入れようと思った。
やがて、車は機械屋の前で停止する。
運賃を払ったジャックが、ローズの手を取って地面に降り立つ。
車両が曲がり角を曲がって見えなくなる。ローズはそっと、ジャックの手を離した。
「ローズ?」
「ごめんね、ジャック。……わたし、一緒には行けない」
ジャックが目を見開く。
「でんか……ブラッドは、万博のセレモニーで、《原石》が必要だって言っていたわ。アランをリオの代替にしたいとも。だから、アランの命が奪われるとしたら、たぶん明日。わたしには、アランを助けるだけの力がきっとある」
「……その力を解放したら、いくらアランでももう元の徒人には戻せない。あいつはそう言っていた」
「うん。なんとなくね、わたしも分かるの。これを解いたら、わたしはもう、今までのわたしのままじゃ、いられないって」
「なら!」
声を荒げ、ジャックがローズの肩を掴む。ジャックの手に自分の手を重ねて、ローズは言いつのった。
「今、ここでアランの命まで見棄てたら、わたしはもう、わたしとして生きられないよ」
ローズがローズとして生きられない。それは、死ぬことと同じだ。
人間のまま死ぬか、怪物となって生きるかなら、ローズは怪物になることを選びたい。
それがたとえ、世界中のすべてから間違いだと謗られる選択なんだとしても。ローズにとってはそれが、たった一つ、たった一つ信じられる答えだった。
「あいつの望みが、おまえが平凡に人として暮らすことだとしてもか」
「うん」
肩を掴む手の力が強まる。痛いくらいのその力を、ローズはされるがままにして受け止めた。
「あんなに、魔女なんかじゃないって言ってたじゃんか」
「……そうね」
「なあ――帝国が全部が全部、悪いって思わないでくれ。俺がローズにした仕打ちは許されることじゃない。一生かけて、償うよ。これまでローズを散々傷つけておいて、虫のいい話だと思う。だけど、あれで帝国のぜんぶを、否定しないで」
ジャックの指が、ローズの肩を滑り、膝から崩れ落ちる。
水溜まりのなかに叩きつけられた臙脂色の制服が、水分を吸ってぐんぐんと濃い色に染まっていく。
「否定しないわ。そりゃあ、この間までちょっとは――ううん、かなりジャックのことは嫌いだったけど」
そう言って、ローズはくすりと笑う。
「だけど、あんたのことも、院長先生や……結局仲たがいしたままになっちゃったティナや他の皆のことも、嫌いなだけになれるはずがないわ。ちゃんと、ずっとずっと、ここにしまっておく。しまっておかせてほしい。わたしがここで過ごした日々を」
ローズは左胸をおさえて言いきると、座り込んだままのジャックに手を差し伸べた。
「ありがとう。前を向けたのは、ジャックのおかげよ」
ジャックは泥水につかった手で、自らの髪を乱暴にぐしゃりとかき撫でた。それから、一瞬俯く。
「有無を言わせず、さらっちまえばよかったのかな」
ぽつりと落ちた言葉は、かき消えそうなほど掠れている。
けれどもそれは、たしかにローズの鼓膜を揺さぶった。
「ジャック……」
ジャックはローズの手を取らずに、立ち上がる。
「けど、しょうがねえな。そういう顔をしているおまえの方が、ずっとらしいよ」
ジャックは、雨に打たれながらも歯を見せて笑った。
「なあ、ローズ。顔上げて、ちゃんと前向けよ。そしたらきっと、誰もがみんな、おまえの瞳に恋をする」
ローズは二度、三度と瞬きをした。
「……あんたって、時々とっても詩人だわ」
「う、うるせえよ。情緒のねえやつだな」
ローズとジャックは顔を見合わせて笑った。
雲間から、やわい光が射し込んでいる。やがて帝都に垂れ込めていた雨雲が晴れ、東の空に淡く細い虹が架かった。




