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ぼんやりとした虚ろな意識のなかで、顔を上げる。
「――お嬢さん、自分を手放すな」
鮮烈な冬の息吹のように、声が押し寄せる。
幾億光年を越えて再会しても、きっとこの声を聞けばローズはこの声を恐ろしいと思い、それ以上に胸をかき乱されるような奇妙な心地になるだろう。
ああ、この声だ。ローズが欲しかったのは、この声だ。
霞んだ視界の向こうに、詠唱を始めたアランの姿を捕らえた。
「〈其は 冬の女王 無慈悲な夜の支配者 空駆け月穿ち 真夏の夢に終焉を与えよ〉」
途端、季節外れの猛吹雪が荒れ狂う。ブラッドが掲げた《原石》が押し負け、ぱりんと音を立てて割れる。
ふと、こめかみに湿った感触が押しあてられる。耳に、心地よい低音が落ちてくる。
「王杖は、仕えるべき王の力を時に増幅させ、時に抑制する。ゆえに、王の杖と呼ばれる。なにも心配するな。俺が、お嬢さんを徒人のままでいさせてやるから」
次の瞬間、ローズはたくましい腕の中に閉じ込められていた。彼のすぐそばには、メイベルもいる。
「〈冬の名において春に乞う その肉体を門とし 我が名と血を鍵とし 再び平らかな午睡に導かれん 閉じよ〉」
アランは手に持っていたナイフで躊躇いなく自らの腕をかき切り、その血液をローズの身体に垂らした。瞬間、解放されかかっていた爆発的な力が収束していくのを感じた。
封紋が、再び練り上げられる。膨大な春と、ローズの意志がせめぎ合う。勝ったのは、ローズだった。
「遅くなった。すまん」
そう言って、ブラッドを睨み据えるアランに、ローズは力なく首を振る。何度も、何度も首を振った。
「――わたしが、わたしがわたしがわたしがぜんぶ、わるいの。ぜんぶ、わたし、ぜんぶ、」
アランは、ブラッドのすぐ横の装置に取り残された黄昏色の《原石》を見つめた。それだけで、アランはすべてを察したようだった。
「気をしっかり持て。後悔も贖罪も、お嬢さん自身が死んじまったら意味がない。いいな? 生きろ。今はただ、それだけでいい。今度こそ、必ず守るから」
アランはローズをぎゅっと抱きしめて、決壊しそうな思いもぜんぶ受け止めて、冷え切った身体に熱を与えてくれる。その腕が、たまらなくいとおしいと思った。
「王杖。まったく、舐めた真似をしてくれるものだ。神がそれほど恐ろしいか? その力を従え、千年の呪いを断ち切ろうとする私の意志など、貴様に分かろうはずもない」
「千年経ってもママのお乳が忘れられないマザコン野郎の言葉なんぞ、分かりたくもないな?」
途端、ブラッドの頬に朱が走る。
「私をあのクソ神と一緒にするな。――虫唾が走る」
言い捨て、ブラッドは懐から銃を取り出した。
ただの銃ではない。光線銃だ。中心に嵌めこまれた空色の貴石は、《原石》だろう。
どれほど多くの魔術師の命が、奪われたのだろう。こんな、くだらない呪いのために。
「ちょうどいい。貴様は6号の代わりにセレモニーの燃料にしてやろう」
アランはすぐさま吹雪を防護壁に転じさせた。
「お嬢さん、よく聞け」
耳元に、辺りをはばかる囁きが落ちる。
気づけば、軍服の男たちや機械獣が大勢このフロアにつめかけていた。
「60階に、非常用脱出のための《大鷲》がいる。ジャックがそれに細工して、待っている」
「――え?」
「俺が、活路を開く。お嬢さんは、そこまで走れ。ジャックがちょっとばかりメイベルを強化したらしい。敵が来ても、なんとかそれで持ちこたえろ」
「アランは?」
「なに、すぐに追いつくさ」
「嘘よ! アランの嘘つき。一緒に行くわ」
「俺が嘘をついたことなんて、なかっただろう? あんまり駄々をこねるもんじゃない」
アランはくしゃりとローズのぼさぼさの髪を救いようがないくらいぼさぼさにすると、ひどくおかしそうに笑った。
「いいな。いい子だから、たまには俺の言うことを聞いてくれ」
聞き分けのない子どもに懇願するだめな親みたいな口調で、アランは繰り返す。
アランは王杖などという物凄い力を持った魔術師だ。ローズがそばにいては、むしろ足手纏いなのかもしれない。
「ほんとうのほんとうね?」
「本当の、本当だ」
その揺るぎない冬色の瞳に根負けしてとうとう小さく頷くと、アランはローズを抱き上げた。
「〈応えよ 我が血と地の盟約 汝 気高き我が母 凍てつく大地に降臨せし 叛逆の咎この血を贄とし 今ここに現出せよ 火竜!〉」
吹雪の防護壁が破れた瞬間、ローズの目と鼻の先に炎でできた幻影が現れる。この間見たものより、はっきりとした竜の形をしている。
火竜は、雄々しく哮ると、その牙を剥き業火を吐き出した。たちまち、炎が踊り、人の肉が焼ける嫌な臭いがした。でも、もうそれから目を逸らさない。ローズが身の裡に飼っているのは、アランと同じ――あるいはそれ以上に恐ろしい、破壊の神だ。
アランは火竜を盾に、ローズを昇降機に押し込めた。操作盤をいじると、ローズに背を向ける。
「……お嬢さん。あんたの行く末が、平凡で幸いであることを、ただ願う」
ローズの時が止まった。
(そんなの、まるで――)
最期の言葉みたいだ。
アランは振り返らない。中の操作盤に駆け寄ると、キーの部分が破壊されていて内部からの制御は不能になっていた。ごとりと音を立てて、昇降機が動き始める。
「アラン! どうして、なんで――!」
ローズの呼び声にも知らぬふりをして、アランは詠唱を再開した。彼は依然として、ローズに背を向けたまま、昇降機に敵を近づかせない。
迎え撃つ敵は、帝国。彼はたった一人、いにしえの魔を操り、立ち向かう。
もしも運命の歯車がほんの少しでも歪みを起こしていたなら、ローズとアランはタオ王国の王女とその王杖だったという。
王杖がどんな存在なのかなんて知らないけれど、それはきっと、こんな一方的に守ってもらうような関係なんかじゃないはずだ。
リオでもアランでもなく、ローズこそが一番恐ろしい怪物で、なのに彼らに何度もひどい言葉を投げつけた。そんなローズをリオは王女と呼び、アランは身を呈してまでその体も心も守った。
(わたしには、そんな資格なんて、なにひとつ――)
膝から崩れ落ち、ローズはその場に蹲る。
天鵞絨の滑らかな肌触りに、怖気がたった。ここが針のむしろだったなら、きっとローズはもう少しまともでいられた。
誰かに、罵られ断罪されたかった。
やがて、昇降機は60階で停止する。人気はない。
降りてすぐ、外にある操作盤に向かってアランのもとへ引き返そうとしたローズの腕を、誰かが掴んだ。
「ぐずぐずしている暇なんてねえぞ」
ジャックだ。
「でも、アランが! アランが一人で」
「なんのためにあいつが一人で残ったと思ってんだ? ローズ、あいつの思いを踏み躙るのは、いくらおまえでも、俺は赦せねえよ」
言って、ジャックはローズに手を差し伸べる。その手を視線で上へと辿ると、赤黒い血が付着した包帯が巻かれていた。
「どうして、ジャックまで」
「ごちゃごちゃうるせえな! そんな場合じゃねえんだよ! 理由なんて、腐るほどある」
「ないよ……わたしを助ける理由なんて、どこにも、誰にも――!」
「特別に、一個だけ、教えてやる」
そう言って、ジャックはローズの手を強引に握った。そのままジャックの胸に引き込まれて額をぶつける。背中に回された腕は、思っていたよりずっと力強い。
「好きだ。好きなんだよ。だから、失いたくない。これ以上、明快な答えがあるかよ?」
ローズは、硬直した。生まれてこの方、そんな言葉、一度だって言われたことがない。
「頼むよ。ここに残るだなんて、言うな。言うなよ、……ローズ」
擦りきれそうな呼び声だった。
哀願にも似たその声に、ローズはこわごわ頷く。
「……いわない、言わないわ」
ジャックの手を強く握り返して、ローズは噛みしめるようにそう答えを返した。
昇降機がどこか遠い階で稼働し始めた音を捕らえて、ローズはジャックと顔を見合わせる。
ジャックに手を引かれ、ドレスを翻してローズは走った。小汚い研究室に飛び込んで、そこに待機していた《大鷲》に飛び乗る。
開け放たれた窓から、《大鷲》が曇天の空へと飛び立った。




