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なかから、エリスが出てきて場違いな笑みを浮かべる。
「あれぇ? ローズちゃん、どうしたの? そんな血相変えて」
「殿下が! 殿下がなんか豹変しちゃったの! あなた殿下の側近なんでしょう? どうにかできないの!?」
エリスに良い思い出なんてあるはずもなかったが、この際頼れそうなものならなんでもいい。
「あーやっぱ、そっかあ。このところローズちゃん欠乏症で、殿下ってばめちゃめちゃ不安定だったから」
言って、エリスは茂みから出てきたブラッドに《原石》を発動させた。
ブラッドが呻いて、縞瑪瑙の瞳に宿っていた奇妙な熱が引いていく。
「――エリス、か。手間を掛けたな。なにか異常でも?」
その聞き慣れたブラッドの硬質な声に、ローズは安堵する。
良かった。いつものブラッドだ。
「ちょーっと、鼠が入り込んじゃったみたいなんですよねっ。ま、どうにか駆逐するつもりですけど、もし失敗したらごめんなさいっつーことで!」
「ぐだぐだ抜かしていないで、仕事をしろ」
「やっぱ俺、殿下のそーゆー鋭利で怜悧で優雅な感じ、たまんないっっ」
ブラッドはうるさそうに手を振って、エリスを追い払う。
ブラッドは、まだ呆然としているローズの手を引いて、エリスとともに昇降機に乗り込んだ。昇降機は90階でローズとブラッドを下ろし、エリスを乗せて下へ下へと降りていく。
「ローズ、すまなかったね。私は、身の裡に厄介な化け物を飼っている。……君と同じだ」
ローズの顔が引きつった。
「わたしは――ちが……でん、か、言ったじゃないですか! わたしは、ちゃんと帝国臣民だって! タオ人なんかじゃないって!!」
「安心していい。君が何者であろうと、私のそばにいる限り、君は帝国臣民だ」
「なに、それ……」
噛みしめた唇がぷつりと破れ、血が滴る。
ブラッドの瞳に、昏い熱が閃いた。瞼をおさえ、ブラッドはくすくすと笑う。
「あんまり刺激しないでくれるかな。まったく、難儀な身体だよ。どんなに抑えつけたところで、君をひとたび視界に入れれば、裡から欲望に浸蝕される。どれだけ――この身体が――君が、厭わしかったか」
ローズは言葉を失った。
「でんかは――わたしのことが嫌いでしたか?」
「嫌いだよ、……大嫌いだ」
そう言って、ブラッドはローズの腕に手を伸ばした。青痣のできた腕が、冷たい壁に押しつけられる。背中を打って、ローズは数度咳き込んだ。
ブラッドの瞳に、熱はない。ただ、凍える眼差しが、ローズを見下ろしている。
これがブラッドの本心だと、悟らざるをえなかった。
ローズの視界がぼやける。泣いているのだ、と気づいたのはブラッドが頬を濡らす雫を拭ったときだった。
「でも、君とはいい運命共同体になれると思っているんだ。君だって、わけの分からないものに、すべてを支配されたくはないだろう? たしか、機械博士になるのが君の夢だったかな? それもぜんぶ、私が叶えてあげられる」
熱い吐息が、耳朶にかかる。髪を梳く手はやさしく、このまま目を閉じたままでいれば、なにも考えずにいれば、きっとローズはもとのままでいられる。そう、思った。
「ねえ、ローズ。いにしえの神の力を従えるんだ。いつまでも人は、神の玩具なんかでいる必要はない。私はこの身に巣食う異形を制御し、異形の産み落とした化け物どもを、帝国の燃料として活用する。素晴らしいと思わないかい?」
「…………」
「すべて上手くいったら――そうだな、私の愛人にでもなる? ねえ、ローズ。君が少しだけ頑張ってくれたら、私も君を愛せるかもしれない」
笑う声は甘い。エレのような、どろりと濁った甘さではない。ひどく淡泊で、温度のない、空虚な笑い声だった。
この血を巡る激情も、蠢く得体の知れない力も、ブラッドとともに在れば恐るるに足りないのだろうか。やさしい日々が続いて、彼の庇護下に入ったローズは、いずれ魔女だと罵られることもなくなるかもしれない。
だって、ブラッドだけがローズを認めて、嘘でも偽りでも愛そうとしてくれる。ブラッドを失ったら、ローズは本当に独りぼっちになってしまう。
そんなのは、耐えられない。
「ローズ!!」
泡沫の人魚の夢を破ったのは、矢のような声だった。
「……リ、オ?」
軍服の男の腕を抜け出して、リオはこちらに走ってくる。
「ローズを離せ! 外道!」
リオは果敢にブラッドに吠える。ブラッドが振り返ると、リオはぎくりと身を竦ませた。
「良かった。無事だったのね……!」
言って、ローズはブラッドを押し退け、リオに駆け寄り膝をついてその華奢な身体を抱きしめた。
「ちょ、ちょっとやめてよ。僕をぬいぐるみかなにかと勘違いしてない? て、ていうか暑苦しいっ」
赤面したリオは仰け反って、ローズの肩を押しまくる。ふと、ローズとリオの頭上に影が落ちた。
「ああ、ちょうどいい」
ブラッドはそう言って、リオの手首を掴んだ。リオの顔が引きつる。
「ローズ、逃げて。ここにいちゃ、ダメだ」
ブラッドのことをなぜか怖がっている様子なのに、リオは抵抗もせず彼の身体にかじりついて、そう諭した。
「リオ、なにを――」
「私の薔薇、行こうか。君は早くその力を解放して――御するための知恵を得るべきだ」
ブラッドはそう言って、ローズの手を取る。狭い通路を抜け、半ばたたらを踏むようにして連れてこられた先には、見たこともない装置が鎮座していた。
大人一人丸々入れそうな大きさの円柱状のガラス瓶だ。上部から管が伸び、それより少々小さな似たような外観の装置につながっている。
「6号は万博でのセレモニーに使う燃料として、最も有効だったが――まあいい」
ブラッドはそう言って、リオを乱暴に円柱状の装置に押し込めた。リオが強化ガラスに頭を強くぶつける。すぐに、装置の扉が閉められた。
「リオ!」
ローズはリオに駆け寄ったが、先ほど容易に開閉していた扉はびくともしない。
ローズは、怯えを込めた瞳でブラッドを振り返った。
「殿下、これはなんなんですか? 開けてください。リオ、おでこを切ったみたいで……」
「大丈夫だよ、ローズ。被検体は、かすり傷くらいで機能不全になったりしない」
被検体。機能不全。どれもこれも、リオについて述べたものとは思えず、おかしくてちぐはぐでわけが分からない。言葉が通じていないような、奇妙な不安が募る。
「君はどうやら、ユギトの怒りのエネルギーが増幅する際に封紋が揺らぐようだ。今から6号を用いて、《原石》を生成する」
(ろくごう、ろくごうはリオ。リオで《原石》をつくる?)
ようやく、今までのブラッドの言葉が、線となってローズのなかでつながった。
「《原石》動力は……魔術師の命からつくられる――最上階のマハニ教神殿は、魔術師を生み出すための装置? 帝国がすべてのマハニ教神殿を破壊しておきながら――魔術師を道具として弄ぶためだけに、帝都の中枢に神殿を残していたっていうの?」
「さっきから、そう言っていただろう?」
そう言って微笑むブラッドの声は、いつものように甘い。
なにもかも考えることをやめていたせいでかろうじて焦点を結んでいたブラッドの虚像が、砕け散る。
「ローズ? なにを憤っているんだい。君だって、タオの民を嫌っていただろう? 魔女なんかじゃないと、証明したいんじゃなかったのかな?」
「――リオを、解放してください」
「それはできない。君には、封紋を断ち切ってもらわなきゃならないからね。だから言ったんだよ。私以外に情を傾けてはならないと」
強張ったローズの顔を、とっくりと眺めてブラッドが囁く。
毒が全身を行きわたる。エレを相手にしたときよりもずっと、身体がままならず震える。
「少し君をタオ人嫌いに育てすぎたかな。もう少し簡単に封紋を除去できるかと思ったんだけど、あまりにユギトへの拒否反応が大きすぎて、封紋が緩まらないみたいだね」
「黙って!!!! リオ、リオ、早く魔術を使って、こんなガラスぶち破って! 逃げるのよ!」
両の拳をガラスに叩きつけて、ローズは怒鳴る。あまりに強く叩きすぎたせいで、血が滲み、爪が割れる。
それでも、ガラス瓶に小さな罅一つ入ることはない。
「無理だよ、ローズ。このなかじゃ、魔術はぜんぶ吸い取られる。それに、あいつはエレの化身だ。僕なんかの魔術じゃ、太刀打ちできない」
そう言って、リオはガラス越しにローズの手に触れて、いたわしげにその手を撫でた。
「ローズ、僕はもともと死ぬ運命だった。だから、僕のために傷つかないで。お願いだよ、あいつなんかに良いようにされないで。ローズは、馬鹿みたいに笑っているのが、一番似合う」
「そんな運命、捻じ曲げればいい!!」
ローズは叫び、ブラッドを振り返った。
「あの扉を開けて! じゃないと、舌を噛んで死ぬわ! あんたはわたしの力が必要なんでしょう!?」
そう叫んだ途端、ブラッドはまるで動じることなく、手に持っていた青色の《原石》を発動させた。
死んだ命が燃え、ローズの身体をふらつかせる。ローズは床に崩れ落ち、のたうち回った。
「君が早く、私と同じところまで墜ちてくれば、6号はあと一日だけ生き永らえたんだけどね?」
言って、ブラッドは操作盤のキーを押した。
途端、リオの閉じこめられた装置が光を発する。
「いや――いやだいやだいやだいやだ!!」
感情の爆発とともに、腹部の封紋が燃え上がる。
叫び声に共鳴するかのように、ユギトの慟哭が内奥からローズを貫く。
「ロー……ズ、来て」
苦しげな声に導かれるように、ローズはリオのもとに縋りついた。
「こうして、燃料になるためだけに産みだされた命だったけど――でも、ローズとアランに出逢って、僕はこの世界に生まれてきてよかったって、そう思えたんだ」
「リオ、やだ、やだやだやだやだ」
「間抜けで、愚かで、だけど誰より愛情深い、僕のたった一人の王女さま。目の前にいる者がなんであれ、目を背けない強くてやさしいその心根を、僕はこの世界で一番美しいと思う」
微笑んだリオの顔が、透きとおる。
(――神さま)
そんなものがいるのかなんて知らないけれど、だけど、この身体に巣食っているというなら、どうかお願い、リオを助けて。なんだっていい。誰でもいい。たすけて、たすけて。こんな現実、認められない。認められるはずがない。
「わたしにできることがあるなら、なんだってする。なんだってするから。だから、やめて、やめて、こんなの――」
「もう遅い」
非情な宣告とともに、リオの身体がかき消える。
管の向こうの装置に、リオと見た夕焼けによく似た、黄昏色の《原石》が美しい光彩を放っていた。
ローズの身体から、だらりと力が抜ける。
目の前に広がる光景が、とても現実とは思えなかった。
「あ……あああァあ。いや、イヤァァアアアアア!!!!」
ローズの裡から、膨大な神気が迸る。
知っている。ローズは、この力を知っている。
夢で見た光景が、鮮やかに蘇った。
光と花の香と白砂の映像。それは、美しい風景を映しとったものなんかじゃなかった。
光は人間の肌を焼く、裁きの炎。甘くくゆるのは、時をも強引に押し進めて屍を爛れさせる、腐肉のにおい。惨劇の後には、さらさらと灰が風に流れる。そうして命は、土に還る。跡形もなく、その存在の痕跡すら残さず、消え去る。
あれは、十六年前の、ローズ自身の記憶。
その名を、春。破壊の衝動を持つ、怪物の名だ。
「わたしが憎いのなら! わたしを殺せば良い!! どうして、なんで、なんでリオを殺したの!!!!」
腹部の封紋が、一つまた一つと吹き飛んでいく。ついにはすべてが消失するかに見えた、そのとき、再び臓腑に鋭い痛みが走った。




