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光の渦は、海のよう。そこに香るは、あえかな花。風が運んだ白砂が煙る。
ローズは目を覚ました。
なにか夢を見ていた気がするが、すでに記憶に靄がかかっていてまるで思いだせない。
無意識に鈍く痛む腹部を触ろうとして、動かした腕までずきん、と痛みが走った。
目をやると、少し日に焼けた肌に青痣がくっきりと浮かんでいる。
(そう――たしか、エリスとかいう軍人に捕まって……殴られた? それで意識を失って……)
「アランとジャックは!?」
ローズは掛け布を引っぺがして飛び起きた。
途端、腹の辺りが痛みに叫び声を上げる。ローズはくぐもった声を上げて悶えながらも、周囲にさっと目を走らせた。
無機質な真白の天井。清潔感のあるシーツ。ガラス張りの壁の向こうには、少々奥行きのある部屋が広がっている。ローズのいる部屋にはベッドが一台あるだけなのに対して、あちらの部屋には様々な器具類や書類文献、家具といったものが雑然と並んでいた。
(病棟にも似てるけど、どこかしら。病棟にしては、ベッドの数が少なすぎるけど)
透明なガラス板に片手をついて、ぼんやりとその場に立ち尽くしていたローズは、向こうの部屋の扉が開かれたのを認めて、ぎょっとした。
(ど、どどどどうしようっ!!)
寝た振りを決め込むか、逃げるべきかと視線を巡らせる。しかし決断する間もなく、隣の部屋に人影がするりと入り込んできた。
「……って、あれ? 殿下?」
ぽかんと口を開けたローズに気づいたのか、ブラッドが目元を和ませる。ローズ、とその唇が名を象るのが見えたが、声は聞こえない。
ブラッドの声が聞きたくて彼の方に行こうとして、ローズは室内に扉がどこにもないことに気がついた。戸惑っていると、ブラッドがなにやら向こうの機械を操作した。たちまち、こちらの室内の片隅にある白い壁だったはずの部分が音を立てて横にずれた。
開け放たれた扉の向こうに、ずっと会いたくてたまらなかった人がいた。
「私の愛しい薔薇。目が覚めたんだね」
「どうして殿下が。っていうか、ここってどこだか分かりますか?」
「うん? ここは《原石》の塔だよ。私の研究室だ」
室内に入ってきたブラッドは、ローズが慌てて礼を取ろうとしたのをとどめて、ベッドに腰かけた。ローズの手を引いて、隣に座らせる。
「《原石》の……それなら、リオっていう男の子のこと知りませんか? 十歳で、枯れ木みたいに細い身体をしてて、ちょっと生意気な子なんですけど」
そこまで言ってから、ローズは言葉につまった。
そういえば、魔術師と逃亡劇を繰り広げたお騒がせ魔女について、ブラッドがどういう見解を持っているのかが分からない。
「あ……殿下は、もうわたしの妙な噂、知っていますか?」
「とても心配したよ。あの日別れた後、赤毛の女の子が博覧会場に現れたテロリストと一緒にいたって聞いて。怖かっただろう?」
そう問われ、ローズはすぐには頷くことができなかった。
たしかにはじめのうちは、得体の知れないアランが恐ろしかった。クルレア村で見た人の領域を逸脱した魔術の行使には、今でも思い出しただけで悪寒がする。けれど、彼らと過ごした数日間を嫌悪したり、記憶から抹消したいとまでは思わない。
ローズは曖昧に笑って、別の告白をした。
「わたしは……いくつか罪を犯しました。本当なら、殿下にお会いすることなんて、許されない」
「それも、君の本意じゃなかっただろう? なに一つ、心配することはない。これからはずっと、私が君のそばにいるからね」
そう言って、ブラッドはローズの頬に触れた。
ブラッドの言葉は、なんてことのないありふれた慰めの言葉だったのだろうけれど、無条件にローズを慈しんでくれる彼の言葉は、ささくれだった心にひどく沁みた。
いつもだったらどきどきして舞い上がってしまう場面だ。なのに、ローズは罪悪感で顔を上げることすらできない。
こんな事態を引き起こしてもブラッドはやはり、ローズを信じていてくれる。
それは、奇跡みたいなことだ。
「殿下。わたしはちゃんと、……帝国臣民ですよね?」
怯えを滲ませた声に、ブラッドはくすりと笑って髪を梳いてくれる。
「なにか魔術師にでも吹き込まれたの? いけない子だね。私の言葉を疑うだなんて」
「いいえ! 疑ってなんか、いません」
慌てて言い添えたローズの胸に、自分の裡から出て言った言葉が逆流してすとん、と落ちてくる。
(そうよ。殿下の言葉だけが、わたしのすべて)
それに気づくと、この数日間胸に燻っていた矛盾だらけの熱病じみた思いが、すうと音を立てて引いていくような気がした。
呼吸が楽になる。まどろみのような心地よさに、体も心もさらわれていく。
『考えろ!』
ふと、暗闇の淵から声が閃く。
けれどもローズには、それが誰の声だったのかも思い出せない。
「そうだ。目が覚めたら、君に見せたいものがあったんだ。歩ける? 歩けなかったら抱えていくけれど」
さらっと爆弾発言を落としたブラッドに飛び上がりそうになりながら、ローズは立ち上がる。
「だ、だい、大丈夫ですっ。ほら、このとおり!」
「そう? ……残念」
おどけたブラッドは、ローズの前を歩き始める。
ローズはブラッドの背中を追いかけようとして、ふらつきそうになる。
どうやらすぐ近くには《原石》動力は作動していないようだが、《原石》の塔というだけあって、気分がすぐれない。
腹痛がするのは、エリスに殴られただけが原因ではないだろう。なんだか、空気までが澱んでいるような、そんな感覚がする。
研究室を出ると、外は金属が剥き出しになり、パイプが張り巡らされたいかにもな光景が広がっていた。
天井が低い。狭い通路をブーツが踏むたびに、金属のこすれる音がする。大蛇のように通路に張り出したパイプをうっかり踏んだりしないように、ローズは長いスカートを持ち上げながら歩かなければならなかった。
等間隔で並んだランプは瓦斯性のものだ。ローズはほっと息をつく。メティオラには様々なエネルギーが一進一退を繰り返しているが、《原石》の塔だからって、すべての動力源が《原石》だったりはしないらしい。
そもそも、《原石》とはなにを指すのか、ローズにもさっぱり分からなかった。形状的にはその名が示す通り、荒削りの貴石のような輝きを持っている。どこで採掘された鉱石なのだろうか。
しばらく進むと、吹き抜けになった広い空間に出た。円盤状に床が続いているが、その中心部はくり抜かれて、上階と下階が見渡せるようになっている。
ブラッドが中心付近にある操作盤のキーを叩くと、しばらくして軋むような音を立てて箱型の昇降機が昇ってきた。
目を丸くしたローズは、ブラッドに差し出された手を取って、蒸気昇降機に乗り込む。
凹凸のある床に敷かれた天鵞絨の絨毯が、なんだかちぐはぐだ。
昇降機が運動を始めると、ローズの身体は床に押しつけられるような妙な感覚に陥った。
「そういえば、わたし、どうして《原石》の塔なんかにいるのかしら。あのエリスとかいう軍人もいないし……」
ローズは考えていたことをうっかり口にしていたことに気づいて、口元を押さえた。
「エリスは私の側近の一人だよ」
「え……あんな変態の不良が……ですか?」
「ふふ、少々悪癖はあるが、優秀な子だよ」
そう言って微笑むブラッドに、他意はないように見えた。
貴公子を体現したようなブラッドに、あの軍人はまるでそぐわない気がしたが、案外異質なものの方が反りがあったりすることもあるのかもしれない。
(なんだ……だったら変に抵抗なんかしないで、さっさと大人しく言うことを聞いてればよかったわ)
「あ……えっと、それじゃ、リオのことも知っていますか? そもそも、どうして古王国崩壊後に魔術師が出生しているのか、殿下ならご存知なんですか?」
「なんだ、そんなこと。それなら、今から教えてあげるよ。ああ……着いたね」
ブラッドがそう言うのに合わせて、チン、と音を立てて昇降機が止まる。
右上の階数表示の矢印が、最上階である100を示している。
ローズはブラッドに手を取られ、昇降機を降りた。
水音がしている。せせらぎは涼しく、高層ということもあってか、肌寒さを感じる。室内だというのに、草や花々が生い茂り、一瞬帝都の中枢にいることを忘れさせた。
機械化されたメティオラで、空中庭園はそう珍しいものでもない。けれど、ここはただの贅沢な観葉趣味とは言いがたい厳かさが漂っていた。
どうやらこのフロア一面が庭園になっているらしく、かなり広い。
ローズが足を進めると、頭のあたりを枝葉が撫でた。
なかには、赤い薔薇の咲いた木もあった。ブラッドはそこで足を止め、その花びらを指の先でつまんだり、広げたりして弄んでいる。少し力を込めすぎたのか、花冠がぽとりと地面に落ちた。
なぜか、ローズの身体がじっとりと汗ばむ。
ふと、過去からまた正体不明のあの声が追いかけてきた気がした。
ローズは頭を振って、園内を見渡す。昇降機から離れた木々に覆われた向こうに、白い人工物を認めた。
(なに……?)
ローズは予感に導かれるように、歩を進めた。
やがて、白い人工物はローズの前でしっかりとした形を取る。
祠だ。石でできたそれは、小さく、こじんまりとしている。けれど、その祠はローズが逃避行を始めたあの日、一夜を過ごした森の奥の神殿によく似ているような気がした。
あの時、ローズは祭壇に触れて、直感的に死んでいる、と思った。だが、この祠は生きている。
なにがなんだか自分でも分からないが、この祠は――いいや、この祠に宿るなにかは生きている。
でも、そんな理解不能な感覚の領域の話なんて、ローズには関係ない。
――考えろ!
またうるさい声がする。
ローズはもうなにも考えたくないし、またぐちゃぐちゃした絡まった糸みたいな思いなんか抱えたくないのだ。
「被検体6号は、ここで生まれた」
「ひけんたいろくごう?」
「君が、リオと呼んでいる、魔術師だよ」
「りお……?」
被検体という乾いた言葉と、あの生意気でアランのことが大好きな少年の肖像がまるで重ならない。ローズは、馬鹿みたいにブラッドの言葉を繰り返した。
「ここでは、《原石》が生成されている」
「《原石》が生成?」
「《原石》は、魔術師の生命が結晶化したものだ」
思考をやめたローズの頭は、すぐにはその言葉を理解できなかった。
「素晴らしい力だよ。私はおぞましいあの母神を何度呪ったか知れないし、女王陛下がすべてのタオの民を殺戮すると仰っているのも分からないでもない。でも、神の力を手中に収めることができるんだ、ただ殺すのは、もったいないと思わないかい?」
「でん、か?」
「ああ、かわいいね、ローズ。君は愚かで、本当にかわいいよ。私のロザリア。――僕の……ユギト」
ローズは、目を見開いた。
今、ブラッドはなんと言った?
「僕が生まれたとき、すでにユギトは骸になっていた。その血を用いて造り出したタオ創始の女王アウローラも、その後ユギトの血を色濃く継いだ春を冠する王女たちも、誰ひとり――誰ひとり! 転生を繰り返してまであなたを求める僕を、受け入れてはくれなかった」
今にも泣き出しそうな顔で、ブラッドは――ブラッドの皮を被ったなにかはローズに触れる。
「でも、今度こそは――ねえ、今度こそは僕を愛してくれるでしょう? だって僕は、あなたから生まれたのだから!」
縋るように、首筋に指を這わせ、頬を寄せてくるこの男は、ブラッドなんかじゃない――エレだ。ユギトによって生み出された、再生の男神。アランが言っていた。エスターテは、ユギトへの妄執に囚われたエレの転生した姿だ、と。
「わたしは――わたしは、ユギトなんかじゃない!!」
叫び、ローズはブラッドの手を叩き落とした。
「殿下! もとの殿下に戻って!」
ローズの悲鳴が、庭園に虚しく響く。
「ひどいなあ。叩くなんて。ねえ、思い出してよ。こんな器なんかじゃなくて、僕の名を呼んで? それからたくさん愛し合おう? 今までの時をぜんぶ、埋めるくらいに」
声は甘い。気狂いの毒のような甘さだ。
ローズは踵を返した。木の根に蹴躓き、枝葉に引っ掻かれながら、昇降機を目指してひた走る。
どうにか昇降機のもとまで辿り着いたとき、ちょうどその扉が開いた。




