問わず語り
『それ』は葉が落ちてむき出しになった枝の下で、ゆらゆらと揺れていた。
着物を纏った小さな子供が『それ』を無表情で見つめていた。色素の薄い髪。頭に巻かれた包帯で右目は覆い隠されている。
──遠くから澄んだ、落ち着いた声が響いた。
「坊──」
子供は振り向かない。鴉の鳴く声が空を割く。
「こんなところにいたのですね、探しましたよ」
現人とは思えぬ水の色を頭にいだいた男は安堵したように息を吐く。
「どうしたのです、こんなところで」
子供はゆっくりと揺れる『それ』を指差す。……鮮やかな花をあしらった浴衣を纏い、枝から縄でぶら下がった女性の亡骸。
男は慌てて子供の顔に手をかざし、自らの身体の後ろに下がらせた。
「もうこれ以上、あなたはあれを見てはいけない」
男の声は悲痛に満ちていた。
—
男は三日程から子供の祖父に招かれ、葛城の村の屋敷に滞在していた。
「……このまま申し上げても差し支えございませんか」
男──泉谷 澪は表情を変えず、祖父──草野 風生に問う。
「構いませぬ。本人のこれからの生き方にも関わることだ。……『浄眼』の完治はやはり難しいということですな」
「はい」
澪は祖父の問いに答えた。
「今見立てた状況では、お孫さんの右目は『封印』としての能力を失っているようです。傷を目立たない程度に消すことはできるでしょうが……」
「仕方ありませんな。現在『匂色』で『治癒』を会得している者はいないと聞きます」
その背中を、子供は姿勢を正しながら見ている。無表情に──まるで自分とは関係の無い話を聞いているように。
「申し訳ありませぬが、しばらくこちらへ私の滞在をお許しいただければと」
「……『泉谷』はよろしいので?」
「こちらへお伺いする前に家人にその旨は申し伝えて参りました」
視線を老人の背後に控える子供に移す。子供は視線を澪に投げ返した。巻かれていた包帯は今は外され、黒と青の瞳が長い前髪の奥から見えた。
風生が手を叩く。静かに襖が開き、廊下で和服の女性が深々と頭を下げた。
「泉谷殿が数日滞在されることとなった。客間の用意を整えるように」
やがて風生は別件がある旨を告げて部屋を去り、子供と澪が残された。
「……泉谷様」
落ち着いた声に澪は驚く。正面に座る子供から発せられたものだった。子供は軽く頭を下げ、立ち上がり下座に向かう。
「失礼いたします」
「……いえ」
澪は微笑む。子供の表情は変わらなかった。
「少々訊ねてもよろしいでしょうか」
一呼吸おいて、澪は訊ねた。
「はい。……あの」
「何でしょう」
「私は若輩ですので、その……お言葉を」
澪は目を軽く開いたが、やがてくすくすと笑った。
「私はいつも、こういう話し方なのですよ」
「左様でございますか」
十歳だと風生には聞いていた。その敬語に淀みはない。
「坊はなぜあの場所にいたのですか」
初めて子供に途惑いの表情が浮かぶ。だがやがて口元を引き締め、答えた。
「……呼ばれた、と感じました」
その答えを聞いて、澪は思案した。
匂色の術者はそれぞれ属性を持つ。それは術にも反映される。だが匂色に属さない「草野」は名字に入った「草」ではなく、「風」の属性を持つ。それはかつて「颯野」を名乗っていたからだと聞いていた。
「風」の属性は、その類まれなき「感受性」。そして緩やかな「浄化」。その力は匂色の術者を遥かに凌ぐ。その類まれなき感受性が、この子供を女性の元に呼び寄せたのだろうか。
「あの」
いいかけて、名前を聞いていなかったことに気付く。
「和秀と申します。名乗らず重ねて失礼しました」
子供──和秀は指を付き頭を下げる。
「あ……いや」
澪は途惑い──顔を上げるようにジェスチャーで示す。
「風生殿は、『浄眼』が壊れた理由を私に教えてはくれなかった」
「……ご想像の通りです」
数時間前。長い前髪を掻き上げた時に見えた傷は、予想以上の大きさだった。
「あれは視神経まで至ったはず。下手をすれば脳幹に至る恐れもあったでしょう」
「そうでしょうね」
「……何故、なのです?」
澪は静かに訊ねる。自らの手で『浄眼』を壊した理由を。
和秀はしばらく沈黙を続けていたが、やがてふっと微笑んだ。
「……大事なものを守りたかったのです」
「それは、命を賭けても構わない程のものだったのですか」
「私は、この眼を失ったことを後悔していません」
澪は自分をまっすぐ見据える子供から目をそらせずにいた。
「そもそも右目には視力がありませんでした。『浄眼』はそういうものなのです」
部屋の支度が整ったことを使用人が伝えに来た。和秀は澪に客間を案内し、その後自室に戻った。
—
夕食は客間に直接運ばれてきた。
「こちらでよろしいのですか」
食事を運んできた若い女性に、澪は訊ねる。
「はい。お館様と若様はいつもご自分の部屋で食事なさいます」
「いつも?」
「はい。お客様には申し訳ないのですが」
「急に逗留することになったのはこちらの都合でもありますからね」
「──あの」
女性は何かを言いかけ──口ごもる。
「何でしょう」
「……」
「構いませんよ。仰言なさい」
女性はその場で頭を垂れていたが、やがて意を決したように言った。
「若様の眼を、お願いします」
「それは勿論です。私はその為に来たのですから……」
「若様が失ったのは眼だけではありません。……母君と、草野の『お加護様』も一緒に」
その言葉に澪は目を見張った。女性が口を抑える。諭すように澪は優しい口調で、女性の言葉を促した。
「大丈夫です。風生殿には泉谷が治療のためにむりやり聞き出したと言えばいい」
「……はい」
声を顰めて、女性は言葉を続けた。
「とは言え、私もあまり詳しいことまで知っている訳ではありませんが……昼間にお客様が見つけた、林の中で亡くなられていた方は、お館様のお嬢様で、若様の母君です」
女性の声は、だんだん細かく震えてきている。
「お嬢様は若様をお産みになったあと心の病を宿され、若様のことを忘れてしまったと聞き及んでいます」
だから、坊はあの場所でずっとあの亡骸を見ていたのか。
「あと……お加護様については、本当に推測なのですが……」
再び女性は口ごもったが、澪の視線に促されて、言葉を続けた。
「草野の家にいるお加護様を封印していたのは、若様の浄眼でした」
「お加護様、とは?」
「童女の姿の、オニです。草野の家の祖でもあります」
—
「今日はこのくらいにしましょう」
大きな掌がゆっくり離れた。子供は静かに目を開き、身を起こす。
着物の乱れを軽く直す和秀に、澪は訊ねた。
「気分はどうですか」
「悪くありません。水に浮かんで、揺られているかのようです。……想像ですけどね」
風呂以外の水には浸かったことがないのだと、和秀は笑った。
「昨日は、使用人が失礼をしたようです」
「治療の為に無理やり聞き出させてもらいました。風生殿にはなかなか正直に教えていただけそうにはありませんでしたから」
「使用人に咎め立ては致しません。……もっとも祖父に知られた場合危ういので報告もしません」
「そのほうが良いでしょう」
澪と和秀は目を合わせ──くすくすと笑う。
「……母とは云ってもそう呼んだこともその手に抱かれたこともありませんでしたから。感慨なんてない。……そう思っていたのですが」
和秀が小さく呟く。
「私にはお加護様のほうが大事だった」
「そんなことを私に話していいのですか」
「祖父には話せません。桜──彼女を封印から解いたことを一番腹立たしく思っているのは祖父ですから」
初めて聞く名前。彼は、お加護様をそう読んでいたのだろう。
澪は包帯を巻きながら、その言葉を静かに聞く。
「桜は『このままでもいい』と言っていました。草野の家に囚われたまま朽ちるまでこの家を守ると」
「朽ちる?」
オニの寿命は長い。何百年という年齢を重ねたオニの記録も残っている。
「幾らオニと云っても封印に囚われれば生命力は削られます。ましてや桜は草野の祖です。確認したことはありませんが家系図を辿れば軽く千二百年を遡ります。少なくとも草野の家に『封印』してから、そのくらいの年月は経っているということです」
生命力が強く、寿命の長いオニとて、千二百年も力を削り続けられていれば。
「私のことを忘れた母の代わりに面倒をみてくれたのが桜でした。だからもういい、と思ったのです。桜は怒ったけれど」
「……怒りますよ。大事な子供が自分を助けるためにこんな真似をしては」
「私は、うぬぼれても良いのでしょうか」
「ええ」
包帯を巻き終わり、澪は正面に回って状態を確認する。
「私も、人のことをとやかく言えはしません。私は泉谷の主ですから──オニにこの世界を蹂躙させないために、現人鬼にならねばなりません。子にも、一族の者にも」
そういうと、澪はふわりと和秀の身体を腕の中に包み込んだ。
「……泉谷様?」
「ですが、懺悔しましょう。私は自分の子供にこうしてみたかった」
それは決して、『匂色』に連なる者には許されないことではあったけれども。
子供は涙を流さなかった。
—
──あれから早幾年。
国際空港ロビーの降客出口で、和服姿の男性が静かにベンチに腰掛けていた。
印象的な水の色の髪──泉谷 澪だ。
やがてロビーにアナウンスが流れ、彼は静かに立ち上がる。たくさんの人が流れ、その流れが途絶えた頃、最後に長身の男性が小さなリュックを背負い現れた。
淡い色素の髪と黒と青の瞳。──和秀だ。
彼はロビーにいる小柄な老人の姿に軽く目を見張ったが、すぐに表情を和ませ歩み寄った。
「……お久しぶりです」
「大きくなりましたね」
澪が目を細め、和秀の顔を見上げる。
「首が痛くなってしまいそうですよ」
「お一人でいらっしゃったのですか」
「家人には内緒で来たのです。うるさいですからね」
顔を見合わせ、二人はくすっと笑う。
「……『匂色』の要請を請けていただいて、感謝しています」
「いえ」
和秀は微笑う。
……あなたからの手紙が同封されてなければ、来ませんでしたよ。
口にはしない。けれどこれだけが、もう戻ることはないと思っていた故郷へ足を向けた理由。
「──見えないからと言って、術でウェルカムメッセージを表すのはどうかと思うのですが」
「すみません。うれしくってつい」
二人の姿は、やがて空港のロビーの雑踏の中へ消えた。