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EUNUCH  作者: 立春
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一人がいい。


一体、これは誰なのだろうか。

ずっと昔に、本当は死んでいたのかもしれない。そんな甘い幻想を抱くが、身体に力を入れると確かに思うままに動き、物に触れることができる。けれど確かに存在しているようにも思えず、定められた規則のもと、身体に動かされていた。

朝起きる。挨拶をする。排泄をする。顔を洗う。朝食を食べる。学校に行く。

学校には同じ年頃の子供が集められ、社会が規定する勉強を学ぶ。その全てが生きるために必要なわけではないが、社会の中で生存するためには知っておかなければならない。獣にはなれないのだから、人間として生きるならば仕方がないことなのだ。けれど、果たして本当に人間なのだろうか。人の皮を付けた、緑色の汚いアメーバではなかったか。過去を思い出そうとしても、記憶は途切れて何も見つからない。

夏が声をかけてきている。けれど、もしかしたらそれは夏の独り言に過ぎず、これは始めから存在していなかったのではないだろうか。

「久連、どうしたの?」

久連、それは家族単位の呼び名だ。家族はみな、久連である。夏は久連の誰かと勘違いをしているのかもしれない。この場に本当は、いなかったのかもしれない。

そうか、いなかったのだ。こんなにも腐臭を漂わせているのに誰も気づかないのは、本当は存在していなかったからではないか。形がそこにあるだけで、これは身体ではなく、何かの抜け殻に入り込んでいるのかもしれない。だから、誰かの代わりにしかなれないのだ。けれど、もう、誰の代わりにもなれなくなった。「お前」、「この子」、「きみ」という殻を示す言葉だけが残されただけで、とうとう消えてしまったのだ。

「久連、」

夏の声が聞こえる。けれど、これは身体じゃないから、もう声を出すことが出来ない。どれだけ名前を呼ばれたところで、もう存在していない。身体が動かない、その代りに目はぐるぐると宙を回って、そして、ふっと暗闇になった。


生きている夢を見ていた。


生きている夢を見ていて、そうして、今、夢が終わったのだ。何も聞こえない、世界は静かな真の闇に包まれて、死者に侵食し消し去ろうとする。

始めから死んでいたのだ。

死んでいたのに、そのことに気づかないように夢を見ていただけなのだ。それは、なんて幸せな現実だろうか。

「久連、」

それなのに、どうしてまだ声が聞こえるのだろう。また、夢を見ようとしているのか、それとも、この現実が夢だったのか。

「久連!!」

声が、夏の声が耳に響く。手が身体を揺すり、暗闇が白濁とした世界へ変化していった。身体が支配し、眼が、望まないのに開かれた。すると、眼の前には夏がいて、その後ろにも誰かが立ってこちらを見ている。

「あ、良かった!」

夏の声が、頭の中を突き抜けた。途端、酷い頭痛が過ぎり、酷く眉を顰め、ちかちかと光りを放つ周囲に目を向けた。クラスメイトの不思議そうな顔がこちら見ている。ここは見なれた教室で、机を後ろに下げて昼の合唱練習をしていたのだ。

一体どうしたのだろうか、夏の声はとても焦っているようで、まだ力の入らない身体を支えていた。どうやら、こちらが現実のようである。

「いきなり倒れて、それで、支えたんだけど・・・」

夏がこの状況を説明した。どうやら、気を失ったらしい。それほど大げさにならなかったのは、すぐに意識が回復したからだろう。状況が分かった今、いつまでも夏に縋りついていても意味がないので、足に力を入れて立ち上がった。身体は揺れたが、しかし、また倒れるというようなことはなさそうである。

「保健室に行った方がいいよ」

女子の声が聞こえた。もう倒れることはないと言いたかったが、喉が渇いて声が出ない。首を横に振ろうとすると、それを遮るように夏が「なら、ぼくがついて行くよ」と腕を掴んで応えてしまった。これでは行かないわけにはいかないので、右手で頭を抑え、夏に引かれながら教室を後にした。外に出ると、他のクラスの歌声も聞こえて、皆どこも必死になって練習しているのだとその時初めて知った。

「大丈夫なの?」

それはこの身体に聞いているのだろう。もう倒れはしないと夏に言おうと思ったが、喉が渇いて声が出ない。仕方なく、頷いて見せた。大丈夫だから教室に戻っても平気だという意味で頷いたのだが、夏にとっては単なる挨拶と同じだったのか、結局保健室に連れて行かれた。

ドアを開けるとすぐに、消毒液の匂いが漂ってきた。今日は女子が遊びに来ていないようで、代わりに、ベッドの一つはカーテンに囲まれており、生徒の誰かが眠っているのだろうということが分かった。

「あら、どうしました?」

「急に倒れて、どこか具合が悪いんじゃないかと思って・・・」

代わりに夏が答えた。もう平気だと言う顔を保健医に見せていたが、一応調べてみようということでイスに座らせられた。口を開けられ、眼を見られ、顔を触られていると痛みに肩をつり上げた。先生は嫌がらせでもしたいのか、痛む頭鷲掴みにし、髪をかき上げた。

「ただの立ちくらみだと思うけど、ここ、ちょっと腫れてるわ。どうしたの?」

きっと、それは兄に殴られたときの傷だ。けれど、すべては不適切な言葉の所為で、そのことを先生に伝え、もう一度苦しみたくなかった。夏に目を向け、また下に視線を落とすとぽんと彼の手が背中を叩いた。

「さっき倒れたとき、受け止め損ねたので、それで打ったのだと思いますよ」

「・・・そう。まあ、消毒をしておきましょうか」

先生はそう言って、治療道具を入れている棚に向かった。また夏に目を向けると、彼は肩を竦めて苦笑していた。ついていなくてもいいから、教室に帰ったらどうだと声を出したいが、擦れた息が漏れるだけで音にならない。

夏に言う前に、保健医が消毒液と包帯と軟膏を持ってきた。そこまで大げさにする必要はないだろうと思い首を振ったが、先生は違う意味と勘違いしたらしく、「浸みるのは我慢しなさい」と強い力で頭を抑えつけた。確かに、消毒液が頭に降りかかると身が縮まる思いがしたが、耐えられないわけではない。それよりも、先生が横にして押さえつけるように手に力を入れていることの方が気にかかった。

軟膏を塗りガーゼを傷口に抑えつけ、それが取れないように包帯で頭を巻かれた。締め付けられているような感覚に、逆に頭が揺れるような気がした。けれど、それを言ったところで変わりはないので、逃げるように先生に一礼して保健室を出た。夏もそのすぐ後に続き、廊下に出ると顔を覗き込んできた。

「ねぇ、何かあったの?」

傍に居るのは夏だけで、他には誰もいない。彼の声だけが耳に入り、頭痛が少し治まったような気がした。

「何も、ないよ」

特別なことは何も起こっていない。夏は不服そうな顔を向けてきたが、しかし、これ以上言うことが出来ない。

「具合が悪かったら、すぐに言ってね」

「・・・うん」

夏は言うが、彼に言ったところで何になるのだろう。彼に治療技術があるわけでもないし、第一、彼は友達ですらない。ただのクラスメイトなど、忘れてしまえばいいのだ。

教室に戻ると、次は移動教室だったのでほとんどの生徒の姿は無くなっていた。確か、次は音楽の授業で、昼と同じように合唱練習になることだろう。自分の机に戻り、引き出しから教科書とノートを取り出して教室を出ようとすると、夏が駆け寄ってきた。また倒れやしないかと心配なのだろうか、彼はその人の良さで今のような不都合が生じていると思った。

包帯が気にかかってしょうがなかったが、痛みはなかった。その代り、締め付けられているために、その感覚が現実のものだと伝えて、存在していることを否定することが出来なくなった。それに、夏の視線が向くので、嫌でも自分が存在していることが分かってしまう。どうして、存在しているのだろうか。この問に答えられるのは、今は死んだと言われる神様だけなのかも知れない。

その後の授業は滞りなく済み、放課後になって部活に行こうとすると、夏が近づいて来た。

「今日は帰って休んだ方がいいんじゃない?」

帰って、どうすると言うのだろう。帰りたいわけではない。夏が優しさから言っているのは分かっていたが、けれど、その言葉に反論するように首を横に振った。

「・・・平気」

絞り出すように答えて、やっと夏は離れた。実際、気分が悪いわけでもないし、痛みもほとんど感じていない。彼が心配症なだけで、自身に苦はないのだ。

「それじゃあ、あの、また明日」

「さよなら」

夏が手を振るので、同じように手を振り、教室を後にした。家庭科室に仕事がまだあるのかどうかはわからないが、そこしかもう居場所がないような、そんな気がしていた。

部屋に入り、教室の隅に追いやられた段ボールをテーブルに置き、また花を作り始めた。いったい何個作ったのかわからないが、紙はまだ量を残していた。花を作っていると、服を着せて採寸を測っていた女子が、驚いた顔でこちら見ていた。どうして驚いているのか分からずに首をかしげて見せると、「頭、どうしたの?」と耳に響く甲高い声が響いた。

大した傷ではないことを示すために、せっかく巻いてくれた先生には申し訳ないが包帯をとって頭を見せた。女子はおっかなびっくりで頭を覗き込んでいたが、それがただのコブだと気づくと呆れたように溜息を吐いた。

「しょっちゅう怪我するのね」

返答が見つからず、とりあえず適当に頷いて同意を示した。女子はコブに触れないように頭を触り、傷の具合を確認すると、教室の後ろに置いてあるマネキンのカツラをとってその茶色の髪を渡した。

「これを付けてくれる?」

否定する理由もないので、コブに当たらないように気を付けながら被った。正しい被り方など分からなかったが、顔にかからないように適当にのせた。女子の何人かが顔を見て、「これでいいんじゃない」と呟き合っていた。そして、いつもの服が手の上に置かれた。

「カツラとこの服で、ステージに出てもらってもいい?」

ファッションショーは、毎年体育館で行われていたことを思い出した。そして、今さらながらに、多くの人前に立たなければならない事実に気づき、困惑した。今さら断るわけにもいかず、しかし、顔を見られたいわけではない。

「カツラは嫌だった?」

嫌なのはカツラではなかったが、彼女らが困った顔をしているので、首を振って簡易更衣室に入った。服を脱ぎ、白い服を頭からかぶって、今度はその頭に茶色のカツラをのせた。鏡を見て、一度自分の姿を確かめていると、本当に姉と同じ顔をしているのだと言うことがわかった。そこに居るのが姉だと言われても、納得してしまうことだろう。自分が姉になったような気がし、汚い存在が描き消えると、先ほどまでステージに立つことが嫌だったのが、何でもないことのように思えた。ステージに立つのは汚いものじゃない、姉に似た存在なのだ。彼女らもこれを必要としているわけではない、代わりになる存在が必要なだけだ。

カーテンを開けて姿を見せると、女子が頭からつま先まで眺めて大丈夫そうだと言った。そして、今までずっと作っていたのだろう、薄いレースの生地が垂れ下がる花輪をカツラの上にのせ、満足そうな顔をしていた。彼女にとって、自分の作品が完成したことが自慢であり、嬉しくて堪らないことなのだとわかった。

「間にあって良かった。もう文化祭は明後日だったし」

そうであっただろうか、今がいつなのかもよく分かっていなかった。女子の一人が肩を叩いた。

「明日に全体のリハーサルがあるでしょ、家庭科部は午後からだから、お昼休みにはここに来てね」

了解したと頷き、もうこの服を着る用事はなさそうなので着替えを済ませて、女子の一人に渡し、テーブルについて花作りを再開した。何も考えずに花を作り続けていると、女子たちの笑い声が耳に届いた。どうやら他の完成した服を着て褒め合っているようである。不格好に見える女子がいたのだが、誰ひとり自分たちが似合っていないと言うものはいなかった。指摘する方が本人の為ではないかと思うが、けれど、誰も注意をしないのだから、やはりそう思うこちらがおかしいのだろう。

他人に意識を向けても意味がないので、考えることを止めた。花を綺麗に仕上げることだけを考えていれば、余計な感情は起こらない。一つ一つ花を作り上げて、ダンボールの中に放り投げた。作り続けると肩が疲れるので、ふっと気を緩めて中を覗き込むとずいぶん多くの花が出来ていた。これを何に使うのかはわからないが、これだけ作っていれば足りないことはないように思った。

崩れた花を整えて、またダンボールの中に戻していると、チャイムの鳴る音がした。顔を上げると女子たちはもう服を縫うことは止めて、自分たちの雑談に耽っていた。今日もやはり気付かれないうちにその場を通り過ぎて、家庭科室を出て行った。明日は全体リハーサルがあるということは、授業がないのだろう。教科書を持っていく必要はないので、朝学校に行く時身体が軽いので嫌な気はしない。

廊下を通り過ぎ、下駄箱で靴を履き替えていると、後ろから声が聞こえた。振り返ると、夏が小走りで近づいてくるのが見えた。何も思い浮かばず、身体を止めて彼を眺めていた。待っていることに気づいたのだろう、夏は少し足をゆるめ近づいてきた。

「ごめん、一緒に帰ろう」

咽喉は渇いていなかったが、声を出すのが億劫だったので頷くことで返した。声があろうとあるまいと、夏にはどうだって良いことだ。笑顔のまま隣に並んで、「寒いね」と小さく笑っていた。

外はすっかり冷えて、もうすぐ朝に霜が降りる時期が来る。それを夏に話せば会話は広がるかもしれないが、会話を広げることに意味があるのだろうか。それを夏が望んでいるのかもよく分からない。夏は明日の天気のことを話しているようだが、思考が纏まらず、言葉が頭に入らない。

「・・・ねぇ、久連」

夏が声をかけるので、何だろうかと首を傾げて話を待っていると、彼は苦笑し、「包帯は?」と聞いてきた。

「カツラを被る時に取ったんだ」

「カツラ?」

彼に話そうかと思ったけれど、黙っていてもあの姿なら気づかれなさそうなので、言葉を濁して誤魔化した。それにしても、今日は酷く頭が鈍く、身体が重い日であった。すぐ隣の澄んだ夏の声がようやく聞き取れるくらいで、内容がまるで頭に入らない。信号で立ち止まり、揺れる眼を制止させようと空を睨んでいた。ようやく信号が青に変わり渡ろうと思うのだが、隣の夏は色が変わったことに気づかないのか、動こうとしなかった。

「・・・夏?」

声を掛けてようやく、夏はこちら見て、それから信号をながめ、「ああ」と呟いた。同じように信号に目を移すと、もう点滅し始めており、走って渡る気にはならないので再び立ち往生しなければならなくなった。

「あのさ、」

「・・・何、」

「本当に、何でもないの?」

薄暗い景色の中、夏の眼は同じ黒の丸い眼をしていた。その眼には光が無く、しかし、瞳は逃がさないようにじっと見つめている。どうしてそんなに必死な眼をして見るのか、その理由がよくわからなかった。

「平気だ」

事実を返すと、夏は顎に手を当て、考え込んでいるようだった。再び信号が青に変わり、夏が歩きだすように一歩前に出た。夏はつられて歩いているようだったが、信号の色が変わったことに気づいているのかどうかは疑わしかった。横断歩道を渡りきり、夏と別れる坂道まで、ずっと黙って歩いていた。分かれ道に来て、夏にさようならと声をかけようと口を開いたが、その前に夏がこちら見てその澄んだ声で聞いてきた。

「一体、何を悩んでるの?」

指摘されるように、悩んでいたのだろうか。その質問が的外れだとは思わなかったが、何を悩んでいるのかが分からない。この鬱々とした気持ちを吐き出したとしても、それが人の言う悩みに当たるのだろうか。分からないことばかりで、喉が詰まった。これを答えなければ帰ることが出来ないかのように、夏は眼の前に立ち、その深い色をした瞳で見つめていた。

「これは、」

夏が先を促すように頷いた。彼よりも一歩先に出て、逆光で彼から顔が見えないように振り返った。

「これは、誰?」

彼の顔が止まった。そこに笑みはなく、開かれた眼が食い入るように見つめてきたが、きっと逆光で顔など分かりはしないだろう。いっそ、そのままで居た方が、夏は退屈しない日常に戻れただろう。

夏が手を伸ばして掴もうとした。けれど、一歩後ろに下がったので、手は宙を切って彼の膝に落とされた。

「・・・久連、」

「何でもない」

始めから存在していない。それが答えだった。それ以外に答えなんてなかった。後は誰の代わりであるか、それだけで左右されていただけだ。

「久連は、久連だよ」

そう、久連の誰かの代わりでしかない。だから夏に「そうだね」と返し、これ以上彼が遠ざからないように、近づくことがないように、「また明日」と伝えた。夏は声が出せなくなったように、口を開けたままその場から動かなかった。それを確認するように二度ほど振り返り、後は定められた日常生活の道を歩いて行った。



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