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翌日、学校に来ると夏がいつものように傍に来て、「おはよう」と声を掛けた。教室で細菌をばら撒いてもいいのか迷っていたが、口を片手で塞ぎ、「おはよう」と声を出した。
見ると、夏は苦笑していた。そして、ポケットからハンカチを取り出し渡した。
「これ、ありがとう」
綺麗に洗濯されたハンカチは、持ちのものの中で一番綺麗で上等なものに思えた。ずっと触れていると、せっかく綺麗なハンカチがダメになるような気がして、受け取るとすぐにカバンの奥にしまった。
夏の顔を見ると、昨日のように暗い影は消えていた。そのことに安心し、口を塞ぐのも忘れて声を出していた。
「元気そうだね」
「・・・うん、大丈夫」
「それは、良かった」
いつものように穏やかに笑う彼を見ていると、昨日泣いていたことが嘘のようだった。もしかしたら、時折彼に感じる影は、あんな風に姿を現しているのだろうか。けれど、彼の友だちじゃないから、そこまで踏み込むことは出来ない。
「放課後に部活に行ってるみたいだけど、きみ何かやるの?」
まさかモデルをやらされるとは言えない。服を着ること自体に好悪はないが、なぜか、夏に言えそうも無かった。
「女子の手伝いをしているだけだよ」
「そうなんだ」
「夏は、何を歌うの?」
話をそらそうと彼を見ると、その後ろに正義が立っているのが見え、そのことを伝えようとしたが、先ほどまで出ていた声が急に出なくなった。けれど、言わなくても夏には様子が伝わったようで、振り向いて近づいてくる正義に笑いかけた。
「おはよう」
「おっす。何を話してたんだ、」正義がこちらを見て、ニヤリと笑った。「お前が笑ってんの初めて見たんだが」
笑っていたのだろうか、顔についてまるで意識をしていなかったので、自分が笑っていたかどうか確認はできない。夏がこちらに眼を向けながら、正義に「文化祭の話をしていただけだよ」と柔らかい声で応えた。
「ふーん」
不思議そうに正義が見てくるが、自分でも本当に笑っていたのかわからない。彼の眼から逃れようと視線をそらすと、すぐ後ろから別の男子が彼の頭を叩き走って逃げて行った。正義は笑った顔のまま相手を殴り返そうと、こちらの興味をすぐに無くし走って姿を消した。それに安堵し夏に視線を向けると、彼は窓の外を見ていた。窓の外を見ていたので、夏からまた視線をそらした。
夏のことがよく分からない。彼はここに居るようで、いつも人と違うところに居るような錯覚を与える。だからこそ、自分の汚さを忘れて、彼が遠くにいるものと思い、傍にいることが平気なのだろう。
その日、休憩時間になると夏は側に来た。そして、会話の中で、何が好きで何が嫌いかをよく聞くのだが、それをうまく伝えることが出来なかった。はたして、本当にそれが好きだったのか、それのどこが嫌いなのか、すべてが曖昧で答えにならない。
同じように夏にも聞くべきなのだと思うが、時折声が詰まってしまい、応えることもままならなかった。けれど、夏は本当に言葉が必要としていないのか、何も言わずに小さな声を聞いていた。自分も夏の声を聞いていたので、同じことだったのだろうか。
放課後になると、昨日行かなかった謝罪のために家庭科室に入った。最初、音も無く入ったので、女子は誰も気づかなかったが、椅子に腰かけた所でコトリと一つ音が鳴り、一人の女子が気づいた。
「久連!」
酷く怒られるのだと思い、肩を縮ませた。けれど、一向に怒号も暴力も飛んでは来ず、不思議に思ったが先に謝罪をしていた方が良いと思い、「ごめんなさい」と小さく呟いた。すると、黙っていた女子が傍に来て一つ肩をポンと叩いた。
「よかった、てっきりもうモデルやるの、嫌になったのかと思った」
驚いたのはこちらの方だった。無断に休んだのはこちらの咎であるのに、どうして糾弾しないのだろうか。女子の考えがわからず、首を横に振ってもう一度小さく「ごめんなさい」と謝罪した。
「まあ、何か予定があったんでしょ。そんなに気にしないでよ、普段は週に3回しかやってなかったし。それより、嫌になったんじゃなくてよかったわ」
どうして女子は怒鳴りつけないのだろうか。無断で休み、彼女たちに迷惑を掛けたのだ。けれど、休んだことを怒らないで、来たことを良かったと言う。人というものは、思い描いているものと少しだけ違うのかもしれない。
「それより、ほとんど仕立て終わってるから、袖を通して見て」
渡された服は、白いレースを折り重ねたワンピースのようなものだった。どこかで見たことがあるような服であったけれど、それがどこだったか思い出せず、かといって聞くことも出来ないので、渡された服を持って更衣室に入った。何度も着せられていたので、着方が分からないわけではないが、制服を脱ぎ、置いてある鏡の自分を見て痣も何も無いことを確認した。それにしても、薄っぺらで、筋肉も脂肪も無い醜い身体である。幅広い服を着ていると、その身体が少しは誤魔化すことが出来ているような気がした。
服を着て外に出ると、女子はスカートに手を触れて襞の部分を確認していた。仕付け糸を慣れた手つきであてがい、針が刺さらないように身動き一つせずに耐えていた。今日もずっと服を着ているものかと思っていたが、意外にも「仕上げちゃうから、脱いでくれる?」と言われた。
着替える時はさっさと服を脱ぎ、ボタンを首元まで止めて白い服を女子に渡した。他に何かすることはあるのだろうかと傍に座っていたのだが、特に触れることがなかった。それは言い知れぬ不安がよぎるが、どうすればいいのかわからない。
傍の女子からは、首筋から指先に掛けて、甘い匂いがしていた。夏とは違う匂いで、このような腐った臭いでもない。どうしてそれほど甘いに匂いがするのか、傍で漂うたびに酔ったような気分になり、胃が痛くなる。
「あれ、具合でも悪いの?」
隣で仕付け糸をとっていた女子がこちらを見ていた。身体の痛みは何処にも無かったので、首を横に振って否定した。そして、少し手で口を覆いながら、「何か手伝うことはある?」と自分から聞いてみた。女子は少し考え込んでいるようだったが、奥の方にあるダンボールを指差した。
「あれ、文化祭の花、作ってくれる?」
縫物を手伝わされないことに安堵し、傍のダンボールを持ち上げてテーブルの上に置いた。中にあるのは紙の牡丹と布で作られたらしい花の塊だった。紙の牡丹に関しては、以前卒業式で作らされたことがあったが、布の花は作り方が分からないので手をつけないことにした。薄い白の紙を取り、段々に折って真ん中を輪ゴムで結び、一枚一枚、広がるように花びらを作っていった。どれくらい作ればいいかとも聞かなかったが、おそらく用意してある紙で作り上げられるだけ作っても問題が無いように思った。仕事があるというのは、気まずい思いをしなくて済むものである。存在しているという理由が、生じた気がしていた。
時折女子は身体を立たせて採寸を測ったが、それ以外は花を作り続けていた。誰も邪魔だと言わず、何の意識もないようだった。臭いを感じないのは、彼女たち自身から溢れる香りに押されてしまうからなのだろう。安堵するような気持ちにはなれなかったが、同じ場所にいるというのに、居心地が悪くなかった。
放課後のチャイムが鳴り、ダンボールに花を片づけて元の場所に置き、カバンを持って教室を出て行った。それは毎回のことなので、気づいた誰かが「また明日」と手をひらひらと振ってきて、それに会釈を返し外に出た。上の階から吹奏楽の音が聞こえるが、反対の校舎にいるだろう声楽部の歌声はここまで届かなかった。近くに行けば聞こえるだろうが、しかし、敢えて行く理由もない。
普段通り、一人で学校を出てゆく。吐き出されるように、白い廊下を通りすぎて、いくらか薄くなったカスをそのままに、学校を出て行った。夕焼けはまだ背中に熱く、前に影を細く伸ばしていた。自分の体を踏みつけるように、足を出して前に進んだ。けれど、どれだけ足を伸ばそうと、自分の頭を踏みつけるには影は長く、身体は重く疲れていた。
夕食の時、姉は週末から旅行に行くと母に言っていた。母はそれが彼氏か友達かを執拗に聞いていたが、どちらであっても変わらない筈だ。そして、それと対抗するかのように、兄は友人宅で論文を仕上げると姉に続けていった。母の機嫌が悪くならなかったのは、父の帰りが遅くならなくなったからである。一仕事終わり、しばらくは定刻通りに帰宅することが分かっていたので、母は善良で寛大な女性になっていた。
この中で一番機嫌が悪いのは、隣で食事をとっている兄であろう。彼の機嫌が悪かろうが良かろうが、どうでもよいことのように思えた。彼がこの生活を握っているわけではない。
ふと、姉がこちらに目を向けた。いったい何なのだろうかと首を傾げて見せると、「あんたの文化祭、いけそうにないわ」と小さくいった。初めから、家族の誰にも文化祭に来て欲しかったわけではない。ただ、学校の連絡事項として伝えていただけなのである。だが、姉が気にしているようなので、頷いてご飯を飲み下した。
リビングで寛ぐような気持にはなれず、食べ終わるとすぐに部屋に上がった。部屋はただの白い色をしているだけで、何の感傷も与えない。引き出しから着替えを取り出し、風呂に入る準備をしていると、兄がノックもせずに部屋に入ってきた。けれど、それを無視し準備を終えた服を持って部屋を出ようとすると、兄の手が腕を掴んだ。夏の手とは違う、冷たく、強い力だった。
「来い、」
耳元で聞こえる声は、普段よりも低く抑えられていた。今に始まったことではないのに、どうして兄には肉体の欲求と渇望を耐えられないのだろう。今日は早く身体を洗い流してしまいたかったので、その手を振りほどこうと力を入れた。
「いやなら、放せ、ぐらい言えよ」
自分の喉に手を当て、声が出せることを確認した。チョコレートは口の中にない、声を吐き出して、何が悪いというのだろうか。
「姉さんを抱けばいいだろ」
その眼をまっすぐに見て言うと、力の限り殴り飛ばされた。とっさに身を屈めたので、顔には痣が出来ていないはずである。明日、女子にまたキイキイといわれなくてすんだとまだ揺れる視界で思った。
床に倒れていると、冷静になったらしい兄が身体を抱き起こし、小さな声で「悪かった」と謝った。どうして殴った本人が、そんな顔をするのだろうか。この程度の痛みには、もう慣れてしまっている。
兄の体が離れると、急に恐ろしくなった。このまま、兄が居なくなってしまうような気がして、思わず、彼の服を掴んだ。
「ごめんなさい」自分でも嫌になるほど冷静な声が、口から洩れた。「いいよ、構わない」
だから、とは言えなかった。一緒に居たいわけではない、けして、愛しているわけではない。抱かれることが嫌なわけではない、けれど、抱かれたいわけではない。存在価値が、姉の代わりでしかないとしても、そこに価値があるのなら、断わってはいけなかった。そう、断わってはいけなかった。その選択権すら、与えられてはいないのだ。
兄は少し考えるようにその場に留まっていたが、右手で顔を上げさせ、「お前は彌生じゃない」と呟いて、部屋から出て行った。
その言葉に、嘘も偽りもない。姉じゃない、姉の代わりにもならなくなったカスだ。なら、これは誰なのだろう。一体誰なのだろう、この部屋の中で、座り込むのは何者なのだろう。
床に散った服を拾い集め、ぼんやりとした意識のまま部屋を出た。このまま兄の部屋に入れば、また姉の代わりとして存在することが出来るのだろうか。けれど、戸は鍵を閉めたまま、誰も受け入れようとしない。
階段を降り、風呂に入って服を脱ぐと、姉とは程遠い、青白く薄っぺらな身体がそこにあった。じっと眺めていると、指先から床に肉が腐り落ちてゆくように思えたが、触れてみても硬い骨にぶつかり、取れないことがわかった。
汚い身体をスポンジで何度も何度も洗いが流したが、しかし、一向に綺麗になる気はしない。どれだけ磨こうと、こそぎ落とそうと、醜い身体が鏡に浮かび上がっている。いっそ、本当に腐ってしまえば良いのに、外面にまではまだ緑色が現れなかった。
水で何度も身体を洗い流し、浴槽を出てタオルで水滴一つ落とさぬように体を拭いた。ドライヤーで髪を乾かし、タオルを首にかけて外に出た。リビングからはテレビの音が流れ、姉の笑い声が聞こえた。兄は部屋にいるのだろうか、けれど、もうどうでも良いことだ。
部屋に入って、すぐにベッドの中に身を落とした。電気を消し、カーテンを閉め切ってもどこかからか灯りが漏れてしまう。布団の中ならまだ暗闇だろうかと思うのだが、息苦しさに頭は布団から無意識に出てしまう。そうして眼を開けると、青白い光が何処かから浮かびあがって見えた。そうして漏れ聞こえてくる声は、テレビの音か、家族の声か分からない。それにしても、なんて汚い雑音だろうか。耳を塞いでも声が入り込んで、匂いが身体に纏わりついて離れない。睡魔は一体どこへ消えたのか、閉じられた眼に力を入れて、聞こえない心臓が止まってしまわないかと思った。