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EUNUCH  作者: 立春
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3


学校に登校し、朝の会が始まるまでいつものように一人で机の上に置いた本を眺めていた。読んでいるわけではなく、周囲の雑踏に耳を傾けている。本を読むこともあるが、大抵頭から抜けて行くことが多いので、意味はない。

「おはよう」

すぐ隣で、他の生徒よりもずっと澄んだ声が聞こえた。顔を上げると、夏がはにかんだ笑みを浮かべて立っていた。夏にとっては、単なるクラス全員へ礼儀としての挨拶だったのだろう。同じように挨拶を返そうと思うのだが、舌が渇いて上手く回らず、頭を下げた。

「その傷、どうしたの?」

夏は、ガーゼに視線を向けていた。ようやく喉の渇きが収まり、息がかからないように口を手で覆って「何でもない」と小さく答えた。

「痛みは?」

応えず、首を横に振って否定した。内心、母や父でさえ声をかけなかった傷に、他人である夏が心配かけることに驚き、戸惑った。言葉は、どうすれば上手く伝わるものなのだろうか、口を閉ざして夏を見つめた。彼は少し肩を落としていたが、顔は微笑んでいるのでどうやらそれほど不快に思っていないようだった。

「なら、良かったね」

どういう傷なのかも知らずに、夏はそう言う。夏の声が聞けるのなら、毎日傷がついてもいいような、そんな錯覚さえ感じた。彼の声は何処までも透明で、どんな雑音の中でも気づく事が出来るだろう。

もしも、その声だけを聞き続ける事が出来たなら、ふとらしくも無い事を思い浮かべたが、夏は家族ですら無いのだから、その様なことがあり得ることは一生無い。

「夏くん、また昨日部活に来なかったわね!」

後ろから、甲高い女子の声が聞こえた。隣にいる夏は、困ったように唇を引き攣らせて、後ずさりした。後ろの女子は汚いカスなど見えていないのか、すっと傍を通り過ぎて夏に指を突き付けていた。

「文化祭の練習に参加してって、何度も言ってるのに」

「ごめんね、今日から行く予定だから・・・」

「ホントに来てよ。去年なんて、前日のリハーサルにしか来なかったから、先生が怒ってたの忘れてないわよね」

女子の甲高い声が、夏の言葉を奪ってゆく。夏の声を聞いていたいのに、どうして邪魔をするのだろう。夏は言葉を失くして、「行くから」と何度も同じ言葉を繰り返していた。

気づくと、また空気になっていた。けれど、それはいつものことであり、汚臭の原因だと気づかれるよりも幾分ましだろうと考え、教科書に視線を落とした。夏の世界は違う、汚いカスは排除し、夏は皆の暮らす世界の中に存在している方が似合っている。気まぐれに、境界線を越えてしまえば、夏まできっと、腐ってしまうだろう。

耳にチャイムの音が響き、ほとんど同時に、先生が教室に入ってきた。本を閉じ、先生の命令道理に立ち上がって頭を下げる。小学生の時は、大声で朝の挨拶をしていたクラスメイトも、今では小さな声で挨拶を返すか、頭さえ下げずに突っ立っている者もいる。そういう生徒は、先生から指摘をされてようやく頭を下げるものもいるのだが、中には座ってそっぽを向く生徒もいる。そのような反抗的な生徒に先生の視線は向くものなので、おかげで特別目立つことなく日常を送ることができている。

朝の会では、文化祭委員が、今日から音楽の時間だけでなく、昼休みと放課後も部活の無いものはクラス合唱をする提案をしていた。皆どことなく嫌そうな顔をするものもあれば、その委員と友達らしい生徒は盛り上げるように賛成しており、先生も最初から根回しされていたのか賛成のようで、多数決も取らずに練習することが決定した。

クラスの合唱など、何の意味もないものだ。団結力を深めさせるためか、他の学年組より優位に立たせるためか、各々目的はあるだろう。確かに、歌うことが好きだと思う人もいるだろうが、歌うことは好きじゃない。ただ、歌を聴くのが好きなだけだ。けれど、それを言ったところで何になろうか、空気に合唱を左右させるほどの権限はないのだ。

朝の会が終わると、次の授業まで十分ほど休憩になる。教室移動はなかったので、教科書を机の上に出すと、本の代わりに今度は教科書を開いて眼を落した。億劫な国語の授業で、確か今回は新しい話を習うので、最初に出席番号順に音読みが指定されていた筈だ。最初の方に名前があるので、確実に教科書を皆の前で読まなければならない。何とも、億劫なことである。

風を頬に感じ、ふと顔を上げると、開いた窓の席に夏の姿を見つけた。彼は出席番号が半ばなので、おそらく今日の音読には当たらないだろう。じっと顔を眺めていたせいだろうか、彼は視線に気づき、苦笑いを返した。どう返して良いの変わらず、首を傾げ、ゆっくりと視線を逸らした。

授業が始まり、先生が今度の文化祭で自分の担当する演劇部についての宣伝を行ってから、教科書の内容に入った。

予想道理、音読から授業が始まり、教科書の半ばで番になった。読む生徒は立ち上がってから、教科書を読まなければならない。声を出し慣れていないので、少し生唾を飲んでから控え目に音を出した。

「・・・そして、彼は言った。

『お前の所為だ』

悟は、彼の言葉を聞きながら、自分の掌を眺めていた。」

自分の醜声が、教室に響くことを耳で感じていた。誰も視線を向けているわけでもないのに、居心地が悪く、身体から汚物が吐き出されそうになる。けれど、こんな処で吐き出すわけにもいかず、声を押さえながら何とか自分の文を読み上げた。

椅子に腰掛けると、一気に肩の力が抜けて、口を両手で蔽い、大きく息を吐き出した。身体から溢れた汚臭は、これで部屋中にまき散らされてしまった。しかし、そう仕向けさせたのは先生なのだ、だから、気にする必要はない。

それなのに、どうして戸惑うのだろう。

今日も一人でさっさと給食を食べ終え、図書室に行こうとした。すると、ドアの傍に座っていた女子生徒が声を掛けてきた。

「昼休みに練習するのを忘れてないよね」

覚えていたし、図書室に本を返却に行くだけだった。けれど、その責めるような視線に、足が竦み、無言のまま自分の机に戻った。食べるのが速いので、みんなが食べている空間にいるのが気まずかった。どうして、あんなに悠長に食事を取ることができるのだろうか。食事など、生命活動を維持するだけの行為でしかないのだから、早く食べ終えて別の行動をする方が効率的だろう。

返せなくなった本を開き、文字に視線を落とした。時間が早く過ぎてしまえばいい、あるいは、このまま時間が止まってしまえばいい。

いつも時間が経つまで、耐えることしか出来ない。時間というものは、到底操ることの出来ない大きな流れだからだ。耐えて、忘れて、そうすれば、時間はいつか通り越す。

ようやく、ぞろぞろと給食を男子のグループが片付け初め、次いで、女子の小グループ、大グループが片付けているとき、昼休みのチャイムが鳴った。昼休みに練習をすると言っていた女子たちが、一番食べるのが遅かった。言いだした物が、他の人待たせるというのはどうなのだろう。けれど、皆優しいのか、他人に興味がないのか、急かさずに好き勝手に会話をしている。

耳障りな声が教室を包み、腐ったようなシチューの匂いが身体を巡る。血が凝り固まって、流れを遅くしているから、指先が痺れるのだろう。

「そうかもしれないね」

夏の声は、すっと耳に残った。顔を上げ、クラスを見回すと、夏が他の男子と何かを話している姿が映った。楽しいことでもあったのか、夏には影がなく、明るい声を響かせていた。

給食当番が食器を片づけ、やっと合唱の練習が始まった。男子は右側、女子は左側にたち、皆まだ覚えてこいと言われていた歌詞を覚えていないので、プリントを持って仁王立ちで並んでいる。クラスメイト数名の顔が見えないのは、おそらく上手く逃げ果せたからだろう。

「とりあえず、みんなで揃って歌ってみましょう」

文化祭委員が、ざわつくクラスメイトに向かって言った。皆は肩を竦めていたが、反論する気はないらしく、特別何も言わない。ピアノの音だけが入ったカセットテープを再生し、皆で突然歌うことになった。当然といえば当然だが、去年同様、大きな声の合唱にはならず、やる気のない合唱になっていた。自分の声を出せず、また、近くにいた夏の声も聞こえなかった。

「もっとみんな歌ってよ、」

カセットを止めた文化祭委員が、呆れたように全員を見ながら言った。しかし、突然歌えと言われて歌えるものではない。呆れてはいたが、委員には予想道理の展開だったのか、すぐに音楽の授業のときのように、班に分かれて練習することが決まり、夏と同じ組になった。

「よし、ここは声楽部の君をリーダーに任命しよう」

ふざけながら、釣り目の男子が夏の肩を掴んでいった。夏は嫌そうな顔をしたが、他の生徒からも勧められるので、渋々その役割を引き受けていた。どちらかと言えば、リーダーにすると言った彼の方が適任に思った。夏は積極的に前に出るのではなく、傍で支える方が向いている気がした。

歌わなければ始まらないので、夏を筆頭に全員で一番だけを歌った。やはり、夏の声は人を惹きつけるものがあるのか、数人の生徒が、歌う夏を見ては感心した顔を向けていた。

「これさ、もうお前の独唱でいいじゃん」

「えっと、それは嫌だよ」夏は苦笑いを浮かべた。「もっと皆、声を出さないと駄目だよ」

全員を見回しながら夏は言い、最後にこちらに目を向けた。そうなると、自然に皆の視線が集まり、気まずさに楽譜で顔を隠した。

「大丈夫だよ」

夏の手が背中を軽く叩いた。励まそうとしてくれたのだろうが、昨夜の痛みが治まっていなかったので、ビクリと身体が震え、夏の手から離れた。背中の痛みなど皆が知るはずがないので、不思議そうな顔を向けてきたが、説明しようにも声が出ないのでどうしようもなかった。

「・・・よし、もう一度歌ってみよう」

視線が離れたことに安堵し、楽譜を少し顔から離して歌詞に目を落とした。歌詞は学校の先生が好みそうな、夢や希望、未来に向かって進むことの素晴らしさをつらつらと並べたてている単純なものだった。他から聞こえてくる歌声からは、何とも陳腐なものに思えるのだが、夏が歌う、それだけで印象が変わった。冬の空気のように冷たく、深く、そして澄み切った空のように、夏の声が耳の奥で木霊する。歌詞など頭に残らず、残るのは、夏が発した音だけだ。

今度は先ほどよりも声を出せて歌えた。他の男子も声が出始め、合唱をするというのは慣れが必要なのだと改めて感じた。

「みんな、結構大丈夫そうだね。次は最後まで歌ってみようか」

「うーっす」

夏の声が、身体の中に入ってくる。それと入れ替わるように、口からはざらついた声が吐き出され、不調和を生みだした。飾り気のない音響の中、異物が入り込んで、全てがバラバラに崩れてしまうようだった。

何度も、何度も、歌うことを繰り返すうちに、居たたまれなくなって、とうとう声を出すことを放棄した。当然他人にも知れ渡り、視線を向けられた。

「何で歌わないんだ?」

責めるような口調ではない疑問を、背の低い男子が聞いてきた。他の生徒は何も言わないが、同じように問いかけるような視線を向けてくる。何か弁明をしようと口を開くが、喉が渇いているのか声が出ない。声を少しでも絞り出すために、喉に手を当てて首を押してようやく、「ごめんなさい」と擦れた声が出た。

「・・・風邪で咽喉が痛いんだよね」

隣の夏が、代わりに皆に取り繕った。風邪ではなかったけれど、何か反応を示す前に、皆がそうかと納得していた。

「それなら、今日は見学な」

否定も肯定も出来ず、沈黙を許されたまま夏の隣で立ち尽くしていた。そうして、歌わないことに皆が納得し、夏を筆頭に最初からまた歌い始めた。

眼を閉じて耳を澄ませると、右耳に夏の澄んだ声が入り込んで、心地よい。眼を閉じて歌を聴き続けていると、左の後ろ頭を小突かれた。いったい何だろうと目を開けると、先ほど見学と言い切った男子がにやにやと笑っていた。

「寝るなよ、」

眼を閉じていたので、眠っていたように思われたようだ。首を振り、今度はしっかり眼を開けて夏の顔をじっと見つめた。夏は何処にでもいそうな、整ってはいたが顔に特徴のない少年にしか見えないのに、どうしてこんなにも人を惹きつける詩が歌えるのだろう。全身を鷲掴みにするほどの声を出して、けれど、本人は目の前にいる人間である。よく顔を眺めていると、夏の眼は他の人より黒眼がやや茶色であることにも気づく事が出来た。

「・・・ねぇ、」

夏が歌を止め、こちらを困った顔で見ていた。何かしたつもりはないので、首を傾げていると夏は肩を竦めて笑った。

「あんまりじっと見られると、緊張するよ」

「確かに、夏を見すぎだよな」

他の男子まで、視線について笑っている。人の顔をじっと眺めてはいけなかったのだろうか、確かに、自分の顔をまじまじと眺められた時は、酷く居心地の悪い思いがした。

「・・・ごめん」

歌わなくなってから、やっと声を出せた。相変わらず、擦れた汚い声なので、出来る限りそれが分からないように押さえた。

「良いよ、でも、じっと見るのはちょっと控えくれるかな」

頷き、また練習を始めたグループを眺めていたが、すっと視線を外し、今度は教室全体に目を向けた。よく見知った顔ばかりなのに、ほとんどの生徒の名前が分からない。かろうじて、目立っている数人が分かるくらいで、この班の中で名前が分かるのは夏くらいである。

チャイムの音が聞こえた。昼休みが終わる5分前の合図なので、文化祭の委員が解散を指示して、皆がそれぞれ仲の良い友人の輪に集まった。輪の外側に居るので、いつものように席に戻り、次の授業の教科書とノートを机の上に置いて、意味もなく教科書を捲った。ざわざわとした一貫性のない声が、魑魅魍魎に教室に溢れた。

今頃になって、頬が焼けるように痛みだした。抑えることが出来ない、肉の内側から沸き起こる、抉るような痛みが、断続的に襲ってくる。帰ったら、痛み止めをもう一錠飲んだ方が良いだろうかと考えていた。

「ねぇ、」

顔を上げると、夏が隣に立っていた。何か言いたそうな顔なので、首を傾げ促してみた。

「どうして、歌わないの?」

それは確かに、最もな疑問だろう。そして、一番答え辛い質問だった。

声が出ないことを何と伝えよう。穢れ汚染された身体から吐き出されるものすべてが、醜く腐敗しているのだと、どうやって伝えよう。

いいや、本当にそれが理由なのかも分からない。

「・・それは、」

早くチャイムが鳴って欲しかったが、まだ三分は猶予がある。

「・・・」

夏の眼が、捕らえて離さない。確かに凝視されるというのは、気まずいものだ。このまま沈黙で返すことも夏は認めてくれるだろうが、しかし、先ほどのフォローに対する態度としては礼を欠く。

仕方なく、事実を夏に伝えた。

「・・・声が、汚いから」

音を抑え、汚染された呼吸をすぐ傍の夏が少しでも吸い込まないように、擦れた小声で答えた。視線を外していたが、夏がじっと見ていることが分かっているので、仕方なく彼の方を向き、「それが、理由だ」と細かな解釈を付けず、自分に対しても結論づけた。

「汚いって、どうして?」

夏が驚いた顔で見つめている。綺麗で清浄な夏、きっと、穢れた声が分からないのだろう。

「きみの声は、澄んでいるのに」

この擦り切れた声のどこが澄んでいるのだろう。夏の世界は内面までも正常で、汚物でさえも清浄なものに昇華させられるのだろうか。こんなにも汚く、腐って臭いのに傍にいられるのは、そういうことなのだろうか。

それがとても、苦しいと思った。

「お前のように、綺麗な声じゃない」

口の中の腐臭を吐き捨てるように、夏に向かって声を投げだした。鼻を刺す胃液の匂いが、喉の奥から漂う。このままトイレに向い、本当に吐いてしまいたかった。

「きみが、それを言うの?」

戸惑う夏の眼が、揺れた。泣くのかと思ったが、夏は泣かずにゆっくり離れて行った。とうとう嫌われたのか、それとも時間が来たからなのか、判断できない。

一人になって、それが当然のことなのだと思いながら、数学のグラフを眺めて考えた。授業の内容が頭に入らないが、今回は当てられることがないので、喉が渇くほどの緊張することは無かった。

放課後、今度は全体の合唱練習をすることになっていた。しかし、部活動のあるものはそれを優先することになるので、夏は合唱部に連れて行かれた。椅子に座ったまま窓の外を眺めていると、さきほど一緒だった男子が近付き、「風邪なら帰って大丈夫だろ」と肩を叩いてきた。それを拒む理由も無かったので、頷きで答え、整列し始めた教室を後にした。しかし、家に早く帰りたいわけでもなく、行き場を失っただけだ。仕方なく、最近通っていなかった家庭科部に顔を出すことにした。

予想道理、家庭科室には男子部員は誰一人来ておらず、女子が生地を縫い合わせ、裁縫に勤しんでいた。邪魔にならないように家庭科部の隅に椅子を持って行き、彼女たちの様子をおもしろくもなく眺めた。少女らしさが出てきた女子は、己の胸のふくらみに合わせて布に余裕を持たせていた。

「あら、居たの?」

一年の時に同じクラスだった女子が、ようやく存在に気づいて近づいてきた。逃げようかと身体を起こす前に、女子はもう傍に立っていた。

「ヒマなら手伝ってよ」

そう言って腕を引かれたが、裁縫など出来ないので、手伝いが出来るとも思えない。女子の前に立たされ、頭の先から足先までメジャーで身長を測られた。いったい何をしたいのか分からず、ただ立っていると、胸をぺたぺたと触られ、肩を掴まれた。痛みと気持ち悪さに、何をするのかと腕を払うと、「ちょうどいい」と女子生徒たちが楽しそうに声を上げた。

「ねぇ、モデルやってよ。部員なんだからいいでしょ」

拒絶は許されない空気なので、反射的に頷いた。すると女子たちはわいわいと声を上げ、さっそく制服の上着を脱がせ、カッターの上から布を押し付けた。サリーのように布を巻きつけられ、拒絶の言葉も出せずにされるがまま、耐えていた。

「やっぱり、顔が良いからこの色も合うわ」

「ねぇ、ちょっと笑ってみてよ」

笑えと言われて笑えるものではない。首を傾けて誤魔化し、服を着せたまま布に線を引く女子の頭を見下ろした。

「あ、頬どうしたの?」

今頃になって気づいたようである。しかし、夏の時のように言葉は出ず、黙っていた。

「文化祭までには治る傷?」

いつも二三日中には痕が消えていたので、一つ頷いた。すると、女子たちはそれに安心したのか、また空気になって、女子同士が好き勝手に話し合っている。

この雑音は耳ざわりだった。夏は今頃、合唱部で歌いたくない歌の練習しているのだろうか。もう二度と、彼の詩が聞けない気がして、身体が土に沈む気分になった。


昨日と変更はなく、昼休みは班ごとに分かれての練習を当てられていたが、声を少し押し出す程度しか出来なかった。出さなければと分かっているのだが、喉に何かが詰まっているのか、出そうとする度に首を絞められる気になる。申し訳なくて、夏の方を見ることも、声を意識して聞くことも出来ない。

あまりにも声が出ないので、他の男子が小突いてきた。

「恥ずかしがるなって、みんなが声出してんだから」

それは分かっている。けれど、声を出すのが恥ずかしいと言うよりも、出してはいけないのだ。しかし、それをどうやって伝えればいいのだろう。伝えるために声を出すことさえ出来ない。

「よし、ためしに、お前だけで歌ってみろ」

そう言って、男子は伴奏の入ったカセットを再生させた。そんな強引にされても声が出るとは思えなかった。しかし、曲はすでに再生されており、先ほどと同じ声で歌詞を見ながら歌い始めた。明らかに、カセットの音に声が負けており、むしろ曲を邪魔する汚いハエのようだ。声を止めてしまいたかったが、皆が見ているので止めることも出来ない。

突然、すぐ後ろに夏が立って、教室中に響き渡る声で歌い始めた。歌いながら振り返ると、昨日のことが無かったように、笑みを向けていた。夏の声が耳の中なら入り込んで、汚い身体を僅かに清浄にして行く気がした。

「さあ、歌おう、明日の光の中で」

口から、声が出た。それは擦れてもいない普通の声で、夏と交えるようにして、擦り切れそうなカセットテープを追い出した。音程や速さ、強弱など分かりはしない。声は夏に操られるように吐き出されて、教室を巡ったと思うと、窓の外に落ちて行く。夏が声を張り上げると、それに合わせて声を上げ、夏が声を抑えると声を抑える。他人の雑音など無く、夏と二人だけの歌だった。

腹の中から空気を吸い上げ、何も考えず吐きだした。

歌い終えると力が抜けて、酔ったように誰かの机の上に腰かけた。あれが自分の声だとは思えない。自分の声だと思っていたのは錯覚で、あれは夏の声の一つだったのでは無いだろうか。

そう思っていたのに、一人で歌えといった男子が、驚いた顔して肩を乱暴に叩いてきた。まだ完全に痛みが治まっていた訳では無いので、少し顔が引きつってしまった。

「歌えるじゃねぇか」

自分の、声だったのか。どうして歌えたのか、よく分からなった。ただ、この男子がいうように、歌ったのはこの汚い声だったようである。声が意思を離れて、夏に引き寄せられるように外へ出たような、自分のものでない感覚だった。

男子が、にやにやと笑いながらまた身体をつついた。

「お前、声も甲高いんだな」

その言葉に、肺の中の空気が凍りついたように感じ、息が詰まった。表情の変化にようやく気づいたのだろう、男子は誤魔化す様に、「いや、でも、うん。あんなにはっきり歌えるなんて凄いって」と上ずった声で訂正した。まだ、心臓が酷く鈍く動き、気分が悪い。

歌えたことをどう思っているのだろうかと夏に顔を向けたが、彼は目を閉じて先ほどの歌を口ずさんでいた。その姿に、先ほどのことは何でもないことのように思え、ふっと強張った肩の力が抜けた。黙って男子を見ると、「今度は全員で歌おうぜ」と言って、先ほどのことはもう忘れている。カセットテープを最初に戻し、夏をリーダーにまた歌の練習が始まった。今度は先ほどのようではないが、他と同じくらいの声が出ていた。同時に、皆夏に感化されたのか、全体的に小さかった声も纏まりを見せていた。この調子であるなら、他の班の足を引っ張ることはないだろう。後は、まだ覚えていない歌詞を全員が憶えるまで練習を繰り返すだけである。

もう歌う時に声を出すことをそれほど気にしなくなっていたが、夏もいない放課後の練習から逃れるように、家庭科部に向かった。衣装を合わせるマネキンとして使われているが、背格好が女子と同じ程なので利用するのに好都合なのだろう。ズボンの上からスカートを履かせられ、その上、まだ裁縫途中らしいので待ち針が刺さりそうになり、すぐに来たことを後悔した。視線を上げると、恥かしがらずに、女子がスカートをまくって服を作っていた。生白い腿が眼に映ったが、何の感情も湧きおこらない。男子たちは女の写真集を見て楽しんでいるようだったが、それが単なる腐った身体を覆う表皮ということが分かっていた。

「この長さで十分そうね」

女子の声が下から聞こえ、はっと意識を戻した。女子というものは、自分がスカートを短くしているくせに、見ただろうと自意識過剰に文句をいうものなのだ。もし見ていたことを知られたら、きっと雑音を張り上げるに違いない。

家庭科室は声楽部の練習場所から離れているので、ここからでは声が聞こえない。第一、隣の部屋でやっていたとしても、仕事をしていない女子の話し声が五月蠅く聞こえ無かっただろう。

窓に視線を向けると、西日が眼を射ぬく。カーテンを閉めればいいだろうに、女子たちはマネキンなどそっちのけで服の制作に集中している。勝手にカーテンを閉めるというのは迷惑なのだろうか、しかし、どうにも眩しさに耐えられそうにない。

まず教室の電気をつけ、カーテンを閉めた。カーテンは太陽に常に当たっているために、犬の身体のように熱を帯び、ざらついていた。鼻を近づけるとほこりの匂いがしたが、家のように腐った匂いはしない。

そう言えば、女子たちはこの匂いに気づかないのだろうか。いや、彼女たちは変なスプレーを全身にかけているので、鼻が麻痺して、腐っていることに気づかないのだろう。この鼻も早く麻痺してしまえば、気持ちの悪い思いをしなくて済むだろう。

窓の傍に椅子を置いて女子を眺めていた。先輩と後輩と同級生、よく見る顔とあんまり見ない顔。みんな誰かに合わせるように同じ顔立ちを作り、似たような髪型をしている。誰かと同じようにしていれば、人の輪から離れることはないのだろうか。彼女たちと同じように、もっと髪を伸ばし、眉を整え、スカートを履いていれば、同じものとして見られるだろうか。いや、きっと、それでも異物であると気づかれてしまう。

夏は今頃、部活で歌っているのだろうか。そうだとしたら、少し苦笑し、ぎこちない顔をしているような気がした。

「ねぇ、」

女子が呼んでいる。彼女の元に近づき、マネキンのように身体を固定させた。しかし、彼女は一向に服を押し付けてこない。

「あなたって、ドレス着るの平気?」

先ほどからスカートを履かせておいて今更だ。小さく頷いた。

女子は本物のマネキンの服を脱がせ、広げて見せた。それは白く柔らかな布を幾重にも重ねたワンピースのようでもあり、それをどこかで見たことがある気がした。

「これを着るはずだったサトちゃん、ほら、盲腸で入院した子」

そう言われても誰のことなのか分からず、そもそもその子が同級生なのか、家庭科部の誰かなのか、つまり、どういう関係に当たるのか分からなかった。けれど、そんなこと女子には関係ないのだろう、自分の関係者は全員の知り合いであると思い込んでいるようだった。

「みんな、サイズがちょっと違うし、サイズが合う子は恥ずかしいから無理って言うし、これ、着てもらえないかな?」

女子はどんな服でも着れるものだと思っていたが、着たくない服もあるらしかった。この服のどこが恥ずかしいのか分からないが、おそらく、自分の好みの服ではないから、押し付けてしまおうと考えたのだろう。

少し他の服よりもサイズが小さいようなので、後ろに置いてある簡易更衣室のカーテンの中に入り、制服をすべて脱いでそれを頭から着た。入らないわけでも大きすぎるわけでも無かったが、胸のところに少し布が余っていた。もともと女子の為の服なのだから、それは当然のことだった。

カーテンを捲って外に出ると、すぐ近くで女子たちが待っていた。当然居心地の悪さを感じ、眉を潜めて彼女たちを眺めた。

「おぉ、似合う似合う!」

女子が言った。

「本当、私が負けちゃいそう」

別の女子が言った。何故かお昼のときのように、肺が凍ったような気がした。

「サイズはどうかな?」

何も言えず、黙ってまたマネキンになった。女子が身体をぺたぺたと触ってくる。不快であるが逃げる理由もなく、ただ立っていた。

「胸をちょっと詰めればいいだけね。あと、カツラをつけたら完璧ね」

感情が生じない。ただ、無機質だった。虚ろと言っても良いかもしれない。

チャイムが鳴ると、誰よりも先に家庭科室から出て行った。家に帰らなければならない。けれど、身体はまだ学校から離れたくなかった。

今日、父の帰りはいつもよりも遅くなる。姉は彼氏の家に泊まり、兄は友人同士で飲みに行くと言っていた。心は冷え切り、身体が止まってしまいそうな気がした。


眼を閉じ、腹を押さえこんでいると、電話の鳴る音がした。当然下の部屋には母しかいないで、出るのも母である。耳を澄ませていると、近所の人と話すときのような甘ったるい声が聞こえた。あの様な声が出せるのは、きっと、母もチョコレートを食べているからなのだろうか。

電話が終わると、今度はガラスが砕けた時のような音が響いた。身体はここにあるというのに、まるで何度も床に叩きつけられたあとのように、全身が痙攣していた。

力が一つ、また一つ、再び疼き始めた下腹を中心に剥がれ堕ち、シーツに沈み込んでいく。風呂に入って早く黒く薄汚れた身体を洗い流さなければならないのに、麻酔を打たれた後のように身体の痺れが取れず、僅かに指を動かせるだけだった。

身体が空気に触れる部分から、黒く腐り落ちて行く。このまま、存在自体が失われてしまうのかもしれない。眼の前は暗闇、塞いだ耳からはごうごうと嵐のような音がした。

思考が自分の制御から離れて行く。どうやら、眠りに向かっているらしい。睡眠は麻薬のように、痛みを麻痺させた。音が遠のく、醜い音が外から聞こえるけれど、考えが離れて、すべて外に置き去りになる。

このまま学校に行くと、皆が不快な顔をするのだろうか。けれど、部屋から出ることのほうが、辛い。


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