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EUNUCH  作者: 立春
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昨日のこともあり、授業が終わってもどこに行くあてがある訳も無かった。当然部活に参加する気もなく、かといって図書室に行く理由も無くない。それでもこんなに早く家に帰りたいとも思えない。ただ、頭の中にはあの声が響き、今もなお離れない。

気づくと資料室の前に立っていた。しかし、耳を澄ませてもあの声は聞こえてこない。もしかしたら、夏にからかわれたのかもしれない。仕方がない、夏とは何の約束も交わしていないのだから、騙す云々とは別問題である。

夏がいなくとも資料室は一人で時間を潰すには好都合なので、鍵の壊れた戸を開けた。

「やあ、こんにちは。来てくれたんだね」

いないと決め込んでいたが、目の前にいざいるとなるとどうすれば良いのか分からない。いつものように押し黙り、招き入れる夏の傍に腰かけた。腐臭の漂う者が側に来ても、夏は自然体で接してくれる。

「ぼくお菓子持ってるんだけど、食べる?」

そう言いながら、夏は紺色の巾着を広げてみせた。中身は包みに入った飴玉で、そのことに何故か安堵し、差し出された赤い飴を口に含んだ。

「美味しい?」

どう返せばいいのか分からず、とにかく小さく頷いた。すると、見たことのない穏やかな笑みを浮かべ、夏も一つ飴を食べた。

「ぼくのはブドウ味だ」

滅多と飴を食べないため、自分の味が何なのか分からず、黙ったまま夏を眺めた。夏はきっと退屈しているだろうが、笑顔を崩さずにこちらを同じように眺めていた。

「これで、きみも共犯だよ」

楽しそうに言う夏に、意図が分からず首を傾げた。

「学校にお菓子を持ってきたこと、秘密にしてね。あと、この場所のことも先生にはないしょ」

飴玉は口止め料なのか、飴を噛み砕きながら頷いた。夏は照れたように笑い、その口の中には赤い色の飴が見え隠れした。口に含んでいる飴よりも、夏の口の中にある飴のほうがおいしそうに思えた。誤魔化すように、舌の上で砕けた欠片を呑み込んだ。

「もうすぐ、文化祭だね」話しかける夏の右頬は膨らんでいた。まだ飴が小さくならないのだろう。「ぼく、部活に参加しなきゃいけない」

少し悲しそうに夏が言うので、どうすればいいのか分からず、彼の顔をただ眺めていた。

「きみは家庭科部だよね、文化祭は何をするの?」

唾をのみ込み、息が夏にかかることがないよう、窓の外に顔を向けて答えた。

「何もしない。けど、女子は服を作っていた」

「そっか、去年みたいなファッションショーをするんだろうね」

構成に一切携わることは無かったが、恒例行事なので小さく頷いた。夏は「そっか」と小さな声で相槌を打ち、それ以上会話が広がらずに二人並んで黙りこんだ。何か言おうと思うのだが、飴の欠片が咽喉を傷つけてしまったのか、出そうとするたびに擦れて消えて行くようだった。夏はこの沈黙を嫌っているのだろうか、けれど、彼は歌っているときと同じ顔をして、壁に張られた世界地図を眺めている。

その内に、夏は澄んだ声で歌い始めた。少年らしい、低くも高過ぎもしない中間の声が、会話をしなくとも別に構わないと言っているように思えた。眼を閉じ、耳に神経を集中すると、夏の声とそれから時計の針、外の部活の声、風の音、そのどれもが一つの唱を奏でている事に気がついた。いや、夏の声がそれらを一つの音楽にまとめ上げているようなのだ。

何故か、目蓋の裏が熱くなった。

何も哀しいことなど無いのに、不思議と目が痛んで、その痛みが止むまで眼を開けることが出来そうもなかった。

夏の唱が中に入り込んで、その綺麗な声が、お前はこんなにも醜いと後ろ指を指す。どうして夏はこんなに透明なのに、この身体は腐った緑色の塊で出来ているのだろう。きっと、近づくたびに、夏にも汚い臭いが移ってしまう。そう分かるのに、唱に締め付けられて、動くことが出来ない。

「・・・ねぇ、」

呼び掛ける声に応えたいのに、声が出ない。

「泣いてるの?」

顔に指を当て、そこに水気のないことを確認し、首を振った。それからようやく目を開けると、眼と鼻の先で夏が顔を覗き込んでいた。その顔は、眉を垂らし、眼を細め、心配している表情だった。

「ごめん、」

何故かわからないけれど、夏は小さく呟いた。ゆっくりと顔を離し、どこか宙を見て大きく息を吸い込んでいた。何を謝ったのかわからないが、どうやら夏に気をつかわせてしまったようだ。

「夏、」

ようやく身体から声が出たが、夏に比べると何とも汚らしい、掠れた高い音がした。腐った身体が声を出すたびに、呼吸の中の菌糸が空気を汚染し、夏を汚す気がしたが、夏に向かって声を出したいと思った。

「ありがとう」

お礼の意味が、夏にはわかるものだろうか、いや、呆然としたその表情では、きっとわかっていない。それでも、別にかまわなかった。詩を聞かせてくれ、汚れた人間を避けないことに礼を伝えたかった。

教室のチャイムが鳴る。

その音に時計を見ると、六時を過ぎていた。もう、帰らなければならない。遅くなりすぎると母の心を乱してしまう。

「・・・また、明日」

小さく伝えると、夏は僅かに指を伸ばし、口を開けた。けれど、結局彼は何も言わず俯き一度口をつぐんでから「明日、」と返した。濁りの残る様子で、無性に声を出したくなった。同じように何度か口を開いたが、出るのは息ばかりで、仕方なく眼を逸らし、先に資料室から出て行った。

空は低い雲を這わせ、薄暗い紫を張り付けている。廊下には、昼ではあれ程うるさかった生徒たちがいなくなり、閑散と無機質な白い色をして、長々と続いている。それはまるで、腸のようだ。学校という身体の中、腸を下って、汚いカスになり、空へ吐き出される。

グランドに眼をやると、野球部がまだ練習をしていた。同じような坊主頭だけが、浮かび上がっているように見える。あの様に辛そうな顔をして、どうして練習なぞするのだろうか。汚いカスにはその理由が分からない。

校舎を出て、家に向かう。それが確約された平生であり、一般的な子供の行動だろう。特別何も無い道であるが、歩いていると、道路で座り込み話し合う三年生の姿が映った。けれど、他人など互いに興味はないので、目も合わせずに通り過ぎた。

今日も昨日と違いはなく、道は単なる空間でしかない。家まではさして近くもなければ遠いわけでもなく、何も考えずとも家に帰ることが出来るようになっていた。いつ信号を渡ったのか、いつ道を曲がったのか、それすら記憶に残らない。

家に着くと車が車庫に入っていた。どうやら、珍しく父が早く帰って来たらしい。

窓から煮物の匂いが漂い、オレンジ色のカーテンに人影が映り、笑い声が漏れ聞こえる。それはまるで影絵のようで、陳腐な芝居に思えた。

外の空気を吸い込み、さっと玄関を開け、中に滑り込んだ。生ゴミを開けた時の刺すような臭いがした。呼吸を止めてしまいたかったが、声を出さなければ入ることさえ許されない。

「ただいま」

声と入れ替わりに、見えない灰色の細菌が身体に入り込み、心臓が焼け落ちてしまいそうだった。

廊下でリビングの調子を確認し、母の笑いが小さくなったタイミングで中へ入った。中では母と父と兄が、それぞれいつもと同じ位置を陣取っている。姉の姿がない理由は、きっと彼氏の家に泊まるからであろう。きっと母には、友達の家に行くと伝えているのだろう。いや、たとえそれが本当であっても、大した違いはない。

「・・・ああ、おかえり」

声をかけたのは、ソファーから頭だけを向ける兄だ。父は椅子に腰掛け、小難しい題名の本を読んでいる。母がこちらを一瞥したが、ふいと視線を逸らして、汚い存在を忘れた。

空気になったように、音もなくリビングを出て自分の部屋に入った。今日はプリントを貰っていない、カバンの中身を机に広げ、大きく息を吸いこんだ。この卵の殻の中で、生まれなければよかったのに、残念ながらすでに存在している。声をかけられる前に、下に降りなければならないが、まだ夏の声が耳に残っている。

息を吸い、身体に力を入れ、部屋を出た。足音をなるべく抑え、リビングに入ると、母が夕食をそろえていた。

「ほら、貴方達も手伝いなさい」

作ったような猫なで声で、母は言った。その言葉に頷き、普段より彩の良い夕食をテーブルに運んだ。兄は自分の分だけを先に運び終え、ビールの缶を誰よりも早く開けて、ごくりと一口飲み込んだ。父は本を本棚に戻し、母が運んだ食事を表情を変えずに口に運んだ。夕食を運び終え、母が席に着いてから、兄の隣に座り両手を合わせた。

「いただきます」

一人だけで食べ物に謝罪し、米を口に運んだ。

「・・・くだらない」

隣の兄が、ぼそりと呟いた。けれど、両親には聞こえていなかったようで、母は相変わらず楽しそうに今日の出来事について話している。父はラジオでも聞くように、母の顔を見ずに時折相槌を打っていた。

一番に食べ終わり、手を合わせて食器を片づけた。視線を上げると、兄も丁度食べ終わった後のようで、すぐ後ろに立ち、顔を近づけてきた。

「喜劇だろう」

兄のほうに眼だけ向けると、その鋭い眼光が父を睨んでいた。それなのに、口元は笑みを浮かべている。

「来い、」

長い指が、腰を掴んだ。何か言おうと思うのだが、口は息を吸い込むだけで精いっぱいなので、音まで発することが出来ない。声の代わりに踏みとどまると、兄は少し眉を顰め、手を放してリビングから出て行った。食器を洗い終え、母が笑っていることを確認し、入ってきた時と同じように、音を出さずに出て行った。

階段に視線を向けると、兄が見下ろしていた。自分の部屋に帰るために階段を上ったが、兄に腕を掴まれて、部屋に引きずられた。

「胸糞悪い」

部屋に入った途端、身体はベッドに投げ出され、強引に抑えつけられた。暗い部屋には、ドアから洩れる光が異様に目立ち、カーテンの向こう側にある月の光を感じることができる。

何をされても拒絶をしない。何も感じない。

兄の歯が、肩を噛んだ。痛みに顔を歪めたが、それだけだ。

「声でも出してみろよ、」

今日の兄は機嫌が悪いらしい。泣きそうな兄の顔を眺めながら、声を出そうと口を開けてみたが、音はなく、空気が漏れだすだけだ。何度か同じことを繰り返し、諦めて沈黙した。

夜の帳は長い。

脱ぎ捨てた制服は、きっと明日、酷い匂いがするだろう。制服だけじゃない、髪から、口から、身体から、汚臭が学校にまき散らされるのだ。皆分からないフリをしているけれど、きっと、臭くてたまらないに違いない。

身体が動かなくなって、眼を閉じると兄の身体が離れた。空気の動きを肌で感じ、顔を持ち上げられて、開いたままの口に硬いものが放り込まれた。甘い芳香が鼻孔をくすぐり、それを吐き出さないように口の中で何度も舐めた。いつも同じ、チョコレートの味がする。

眼を開けると、兄が服を着て部屋を出て行くところだった。風呂に入る様子ではなく、今から外に出かけるのだろう。時計を確認し、乱れた髪を手櫛で整えている。

何処に行くのか聴こうと思うが、声が出ない。身体を起こし、着替えを眺めていると、兄が突然振り返りニヒルに笑った。

「お前も行くか?」

どこに、口の形だけを作ると、兄はふんと鼻を鳴らした。

「冗談だ、じゃあな」

それから一度も振り返らず、ドアを閉めて兄は部屋を出て行った。いつもあっさりと部屋を出て、兄は外の世界へ向かう。この汚臭に、兄は気づいていないのだろうか、それとも、そもそも気にも留めていないのだろうか。

制服を拾い上げたが、ボタンを一つずつかけるのは面倒臭いので、身体に羽織っただけで済ませた。ズボンだけはベルトまで絞めて整え、息を顰めて兄の部屋を出た。すっと冷たい空気が身体に触れ、身が縮まりそうになる。部屋に戻って着替えをとり、隠れるように風呂場に向かった。リビングからは笑い声は消えており、テレビの音が妙に響いている。そっと中を覗き込むと、父と母の姿がそこにあり、胸を撫で下ろして風呂場に入った。

制服は丁寧に折りたたみ、シャツと下着を洗濯機に投げ入れて、対面の鏡を見つめた。筋肉のかけらもない、貧相で痩せた生白い身体が映っている。予想した通り、右肩には歯型が赤く腫れるように残っており、触れると熱を帯びたように熱く、ヒリヒリと痛んだ。

傷の手当てをするよりも、早く洗い流さなければならない。

強くスポンジを押し付け、身体を洗った。何度も、何度も、痛いと感じるほど身体を磨いた。湯船に浸かる気はない、汚れは洗い流さなければ、明日を迎えることができない。

髪を三度洗い、シャワーで全身を洗い流すと、疲れた身体がもう休みたいと訴えてきた。まだ匂いが残っているだろうが、風呂からあがってバスタオルで水をそぎ落とし、パジャマに着替えた。外の空気に触れるたびに、身体が汚く染まって行く。清浄なのは、流れる水だけだ。

廊下に出ると、トイレから出てきた父と目があった。会話することもなく、ようやく綺麗になった口で、「おやすみなさい」と呟き、視線を反らした。父の方も特別関心はないらしく、「ああ」とうなずき、書斎となった父の部屋に引き揚げて行った。ならば、おそらく今、リビングにいるのは母だけなのだろう。

廊下を進み、リビングに入って、母と対面した。

「あら、何なの」

「・・・来週、文化祭があります」

今告げなくてもいいことを、母に言っている。母は俯いた顔で近づき、頬に指を這わせ、生臭い息を吐きかけた。視線を上げると、母と目があった。

その瞬間、母は頬に爪を立てて、乱暴に引っ掻いた。痛みに声を上げそうになったが、声を上げるよりも前に、母からチョコレートを投げ入れられ、身体を抑えつけられた。皮膚が裂け、肉に食い込んでくる。顔が抉られるような痛みだが、実際の行為が眼に映らないので、どれほどの傷なのかわからない。

母の顔が歪み、時計の針の音が遠のき始め、突き飛ばされて壁に衝突した。入口の角にぶつかったので、顔の痛みとは別の鈍い痛みを感じた。

「早く、寝なさい」

声を出すことが出来ず、頭を下げてリビングから出て行った。自分の部屋に戻るのだ、戻って、この傷の手当をすればいい。

白い部屋、卵の殻のようなこの部屋が、自分の部屋だ。

机の一番上の引き出しをあけ、鏡と消毒液を取り出した。鏡で傷を確認すると、それほど酷いものではなかったらしく、血が滲んでいる程度であった。それでも、傷に変わりはないので、消毒液をつけ、ガーゼで覆った。肩の傷には軟膏を塗ったが、背中の痛みは自分では対処のしようがないので、手当はせずに痛み止めだけを飲んで、道具は引き出しに戻した。

眠ってしまいたかったが、今日は明日までに提出しなければならない数学の宿題があったので、問題集とノートを取り出して問題を解き始めた。

計算法さえ分かって居れば、後はそれにあて嵌めて答えを書く、単純作業だ。問題数も少なかったので、すぐに宿題は終わり、教科書を閉じて明日の準備もせずにベッドにもぐり込んだ。仰向けになると、背中が疼くので、うつ伏せで眼を閉じた。カーテンから、月の光か、隣の家の明かりが僅かにもれて、真の暗闇を作り出さない。それが、今は現実の世界なのだと伝えているようで、虚しかった。


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