12
家に帰り、「ただいま」と声を出して中に入った。化粧の匂いも嫌いではあったが、家の腐った臭いの方が何倍も酷い。
リビングに顔を覗かせると、台所に立つ母と目が合った。
「ただいま」
もう一度言うと、母は顔を歪ませ、眼を細くし、眉を寄せ、唇の右側だけをつり上げて睨みつけた。蛇に睨まれた蛙など見たことはなかったが、きっと今、それと同じ顔をしているだろう。その場から動けず、母が動かす包丁をじっと眺めていた。しばらくして、トイレの水を流す音が聞こえ、父が部屋に戻ってきた。
「ああ、お帰り」
「・・・ただいま」
「文化祭、母さんと二人で見に行ってきたよ」
父が言うと、母はあの穏やかな笑みを浮かべて、「ええ、そうよ」と相槌を打った。何かが解かれたように、肩の力が抜けて、両親のいるリビングを音を押さえて逃げ出した。部屋に入り、カバンを投げて制服のままベッドの上に倒れた。
母は酷く憤慨している。その理由は分からないが、今までに無いほど怒っている。
一度だって、母の機嫌を良くすることが出来なかった。何をするにしても、母を酷く怒らせてしまっている。それはやはり、母は誰よりもこの醜さと汚さを見抜いて、それが自分の腹から生まれたことを悔やんでいるからかもしれない。
この部屋が卵の殻だったら、生まれる前に腐乱し、外に出ることはない。けれど、部屋はやはり部屋でしか無く、もうすでに生まれている。生まれ直すには、生まれなかったことにするには、このままではいけない。
明日、生まれて死ぬのだろう。
父が会社に出かけた後、母と二人だけのこの家の中で死に、生み直されるのだ。それはいつかは起こることで、いつ起きるかだけだった。それが今日きっかけが出来て、ようやく終わる。
覚悟が出来ていると言うのとも違う、それは当り前の事なのだ。
最後の夕食を食べ、風呂に入って身体を洗った。姉兄のいない二階は、しんと静まり返り、部屋に置かれた時計の音が響いて聞こえた。眠れば、明日が来る。眠らなくとも、明日が来る。
身体は疲れ切り、程良い睡魔に、落ちるように眠りについた。