表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
EUNUCH  作者: 立春
11/14

11


朝、太陽の光に目を覚ました。ここ最近天気は悪く、薄曇りで朝日などとんと見ていなかったので、カーテンの隙間から見える朝日が少し眩しく思った。今日はパジャマを洗う日で、着替えを持って風呂場に向い、昨日と同じように身体を洗い流した。三度ほど頭を洗うと、ようやくシャンプーの匂いに染まった気がした。いっそ、香水でもつけたら匂いは気にならなくなるのだろうか、しかし、その人為的な臭いも好きではなかった。

リビングに入り、「おはようございます」と挨拶をすると母が「おはよう」と声を掛けた。テーブルにはご飯とみそ汁が並び、父は休日ではあるがもう朝食を食べ終えたらしく、ソファーで新聞を広げていた。母は台所で何かを作っているのか、テーブルの上に置かれた母の朝食は一切減っていなかった。自分の椅子に腰掛け、ご飯とみそ汁と真ん中に置かれた卵焼きを食べ終え、食器をまとめて台所の流しに片付けた。それからまた洗面所に向い、歯を何度も何度も擦って磨きあげた。

学校に行く挨拶をしておこうとリビングに顔を出すと、母が気づき、「ちょうどよかった」と言って包みを渡した。その形状と重さから、これが弁当なのだとわかった。

まさか、母が弁当を作っているとは思わず、受け取ってから間を開けてようやく、「ありがとうございます」と声が出せた。

弁当はカバンしまい、玄関に立って「いってきます」と声を出し外へ出た。今日の天気は夏の言うとおり晴天で、雲はあるが久々の青空が広がっていた。けれど、基本的に文化祭は室内で行われるので、雨が降っていようがいまいが関係ないように思ったが、荷物になる傘を持って歩かなくていいというのは良かったかも知れない。学校につき、カバンは教室ではなくロッカーに置いて、昨日と同じように体育館に向かった。

自分の席を探し、人の間をすり抜けて座り、渡されていた今日の行事予定の紙に視線を落とした。体育館で行われる文化系の部活の発表は一日中行われ、校舎では昨日と同様のPTAのうどん販売とバザー、後は各クラス、部活の展示が行われる。紙には家庭科部も書いてあり、家庭科室では今までの作品の展示とあり、声楽部は特別展示をしていないようだったが、ステージ発表は吹奏楽の前に行われることがわかった。

「久連、」

前から声を掛けられ、顔を上げると夏が「おはよう」とあいさつをしてきた。同じように「おはよう」と声を掛けて、自分の席に着く夏を見ていたが、また紙に視線を落とした。午後からは全校生徒は体育館に集められ、代表の合唱が一年生から順に行うことになっていた。その後に各文化系の部活の発表があり、それが終わると閉会のあいさつだった。おそらく去年と同じく、文化祭終了後は後片付けをして帰る予定となっているので、普段と変わらない同じ時間帯の帰宅になるだろうと思った。

時計に目をやると、もうすぐ9時になろうとしていた。昨日と同じように電気が弱められ、二日目の開会のあいさつが始まった。今回は長すぎる校長の話はなく、すぐに各自解散となった。どうしようかととりあえず立ちあがって辺りを見回すと、夏が手を振っている姿が見えた。本当に一緒に見て回るつもりなのだろうか、迷惑をかけてはいけないと思い、入口に立つ夏の傍に走って近づいた。

「よ、」

彼の後ろには正義と勇希もいたので、少し驚いた。けれど、彼らの方は何とも思っていないらしく、「何を見に行くよ」と紙を広げて話し始めていた。どうしたものかと夏の隣に並んで三人を眺めていると、正義が「お前は行きたいとこあるか?」と話を振られた。しかし、行きたい所など元々無かったので、首を横に振って否定した。すると、今度は夏が苦笑しながら二人に、「とりあえず、下の教室から見て回ったらいいんじゃない、時間はあるから」と案を出し、正義が「そうするか」と賛成したので、三人が歩きだした。どうしたものかと立ち尽くしていると、夏が身体を突き、「行こう」と声を掛けたので、その隣に並んで歩いた。

文化祭の展示品などたいしたものはない。完成度の高いものを見たいのなら、美術館に向かう方がいいに決まっている。けれど、生徒が必死になって作ったと言うことだけは伝わってくる。それを良しとするかしないか、結局見る側の心情に関わる問題だと思った。

美術部の展示を見ていた時、夏が「どの作品が好き?」と聞いてきた。これといって心に惹かれるものは見つからなかったが、一つ、風景の絵を指した。夏は隣になってその絵を眺めて、「きみはどこが気に入ったの?」と聞いてきた。

「・・・色が、」

「色?」

頷き、絵の中の空を見た。空は普通、青色である。けれど、この絵の中の空は紫色で、それが印象に残った、ただそれだけのことである。

「そっか」

夏はきっとどんな答えでも良かったのだろう。絵を眺めながら、「上手だよね」と同意を求めた。「そうだね」と返すと、彼が笑みを浮かべた。たぶん、彼は自分に同意を示してくれれば、誰でもよいのだろう。だから、一緒にいるのだと思った。

一通り展示を見終わると、正義が腹を押さえて「もう飯食おうぜ」と言った。時間を見ると確かに昼時で、早すぎるというわけではないようだったので、彼の言葉に肯いた。

「だろ、じゃカバン取りに戻ろうぜ」

正義が先に歩きだしたので、彼の後を追って階段を下りた。保護者もそろそろ集まり始めていて、中庭で食事をする人の姿も見えた。それほど美味しくないだろうと思うが、人が集まっていると不思議とおいしいのではないかと思える。けれど、今日は弁当があるので、買いに行く必要はない。夏らも弁当を用意していたようで、カバンを持って何処で食べるかという話がさっそく始まった。教室にも保護者が詰め寄り、食べる場所を確保出来なさそうだった。いっそ外に出て食べるかと話していた所で、夏の服を引いた。

「何?」

「・・・あの教室なら、開いてる」

夏はああと言う顔をし、正義と勇希は何処なんだと聞いてきた。夏は苦笑しながら、「社会の資料室」と応えた。

「ああ、確かにあそこまでは面倒だから行かねーな」

「何でもいいから、そこにしようぜ」

夏は肯定しなかったが、しかし、二人はそこに行くつもりでもう歩きだしていた。夏の方を見ると先ほどと同じ苦笑いを浮かべていたが、視線に気づき、「行こうか」と声を掛けて二人の後に続いた。夏の隣に並んで歩き、三階にまで足を進めた。展示がしてあるのは二階までなので、部活の生徒が数名いるだけでやはり人は少なかった。先に居た正義はすでにドアを開けて中に入って行った。彼が入ったということは、やはり先客はなかったということなのだろう。

彼の後に続いて中に入り、全員で椅子を広げて、正義は窓枠に腰掛けてビニール袋に入ったパンを既に食べ始めた。よほどお腹が空いていたのだろうと彼を見ながら思った。夏と同じようにテーブルの上に弁当箱を広げ、そこに入っているお弁当の匂いに思わず鼻を摘まんだ。酷い匂いがする、もしかしたら、腐っているのかもしれない。しかし、他の三人は匂いに気づいていないようで、鼻を摘まむ様子に首を傾げていた。

「どうしたの?」

「・・・何でもない」

酷い匂いがするが、母の作ったものを残したくないので、手を離して出来るだけ噛まずに飲み下していった。喉が詰まったような苦しさを感じ、一息に食べ終えるとお茶で流しその腐った臭いを押し流した。

「お前、よっぽど腹が減ってたんだな」

正義がそんな姿を見て笑った。別にお腹が空いているわけではなかったが、何も言わずにとりあえず頷いて返し、弁当をカバンにしまって椅子の背に縋りついた。早々に食べ終わってしまったので、仕方なく三人の食べる様子を眺めた。彼らの弁当からは腐った臭いはなく、鼻孔をくすぐる良い匂いがした。どうして持つものの全てが、こんな腐った匂いがしているのだろうか。

腐っているのは家ではなくて、自分だけなのかも知れない。だから、触れる全てのものは腐って、酷い悪臭がしてしまうのだろうか。

「久連、」顔を上げると、窓に座って同じように昼食を終えた正義と視線があった。「午後の合唱は声を出せよ」

責めるような口調ではなく、頼みごとをするように彼は言った。どう返せばいいのだろうかと閉口し、彼から目を逸らした。すると、今度は勇希が同じように、「あの、ほら前みたいに歌ったらいいんじゃないか」と促す。

二人は声がどれ程汚いものなのか、知らないのだろうか。だから、平気で歌ったら良いと無責任に言うのだろう。夏に目を向けても、彼も「そうしたらいいと思う」と助け舟を出してはくれなかった。しかたなく、彼らに歌えない理由を話した。

「声、汚いから」

事実を述べると、勇希が「何言ってんだ?」と素っ頓狂な声を出した。正義も首を傾げて見きた。夏は肩を竦めて、静観を決め込んでいるようだった。

「前に一人で歌わせた時、良い声で歌ってだろ」

「・・・あれは、ちがう。夏の声、」言葉を遮るように、夏は「久連の声だよ」とこちらに顔を向けて言った。彼の眼は珍しく、貫くような強さを持っていて、思わず身を竦めた。彼は怒っているのだろうか、けれど、その原因がよく分からない。事実を言っただけだ、綺麗な声なのは夏だけで、汚く擦れた声をあの時、夏の澄んだ声と二人は勘違いをしているのだ。

「いや、あれはお前の声だろ」勇希は目を細め、それから何かを思い出すように顎に手を当てていた。そして、眼を大きく開き、指差して言った。

「思い出した、あの声どっかで来たことあると思ったら、小2の時の文化祭だ!」

いきなり何を言うのだろうか、正義と共に勇希を見つめた。けれど、夏はそうではなかったらしく、「うん、そうだよ」と彼と頷き合っていた。彼らの会話がよく分からず、わかっていない正義も「何だよ」とぶっきらぼうに聞いた。自分の知らない、覚えていないことがあるのが、どうやら彼はいけすかないようである。

「ほら、俺と夏は久連と同じクラスだったから、覚えてんだよな」

「うん」

同じクラスの夏と勇希は覚えていて、自分だけが憶えていないということなのだろうか。小学生の時の思い出などほとんど無く、まして低学年の時のことはほとんど記憶からはじき出されていた。

「まあ、小学校の時だから文化祭というか、学習発表会なんだけどさ。そんときの担任、音楽の先生で、クラスで一番歌が上手な人に、演技の途中で独唱させるってことになって」

そんなことはまるで記憶になかった。首を傾げ、一番歌が上手いなら夏だろうと思い彼を見ていたが、視線に気づいた夏は首を横に振って否定していた。それからこちらを見て、眉を顰め、困った顔を見せた。

「本当に覚えてないんだね」

夏の言葉に、事実なので頷いた。勇希は肩を竦め、呆れたように溜息を洩らした。

「選ばれたのはお前だろ。それで、俺たちの発表が一番いい金賞を貰って、」

すっぽりと穴が開いてしまったように、その時の記憶は一切なかった。彼らは示し合わせた嘘をついているのではないかと思ったが、正義が「あー!」と声を上げ指差すので、思考が停止してしまった。

「あの後、校長が褒めてたヤツって、お前だったのか!」

「そう言えばそんなこともあったな」

「それでさ、俺絶対にあれはなんかの合唱団の声かなんかを録音して流したインチキだ!って先生に言って、めちゃくちゃあの後怒られたんだぜ!!」

「・・・そんなことやってたのか」

正義と勇希は各自の思い出話を始めていた。しかし、彼らの話す言葉に偽りはなさそうだったが、けれど、当事者である筈なのに、そのことが一切記憶に残っていなかった。人に褒められることは滅多となかったので、校長に褒められていたのだとしたら、忘れていない筈である。けれど、何度頭を捻ってもその過去が思い出せなかった。彼らは勘違いをしているだけで、実際に歌ったのは別の違う誰かなのかもしれない。

「でもな。あの後から、お前、音楽の時間でも歌わなくなったんだっけ」

勇希に話を振られても「覚えていない」と応えることしか出来なかった。夏は何度も、「本当に覚えてないの?」と聞いてきたが、どれだけ過去を語られても覚えていないものは覚えていない。

「あれじゃね、やっぱり一人で歌うのが恥ずかしくなって、歌わなくなったんじゃねーか」

代わりに、正義が答えを出した。他に良い答えも思い浮かびそうもなく、「たぶん」と彼の言葉に同意を示した。勇希と夏は腑に落ちていないようだったが、それ以上言っても何も覚えていないと納得したのだろう、「まあ、そういうもんかもな」と正義の言葉に同意した。

「まあ、でも。これで歌えない理由はわかった。お前はただ恥ずかしいってだけだ。大丈夫、誰もお前のことなんか見てやしない、だから大声で歌え。いいな?」

否定を認めぬ言い方に、反射的に頷いていた。けれど、頷いた後で冷静になると、やはり自分の汚い声を体育館に広げるのはとんでもない罪悪の様に思え、俯いて口を両手で隠した。それを恥ずかしがっていると捉えたのだろう、勇希が励ますように肩を叩いた。

「そう恥ずかしがるなって。全員で歌うから合唱なんだぜ」

でも、と声を出したいが、その先を持っているわけではない。すると、隣に座っていた夏が、口元を引き上げて笑った。その笑顔を見ると、なぜか安心することが出来た。

「ちょっと頼んで、前みたいにぼくが後ろに立て歌うよ。それなら、きみも歌えるよね?」

そこまでされて、否定をするわけにはいかない。夏の顔を見て、それから勇希、最後に正義を真っ直ぐに見て頷いた。彼は「これで全校一位は貰った!」とこぶしを作っていた。一人が歌ったところで何も変わらない気もするが、彼ほどの心持でやれば確かに誰にも負けないような歌を歌うことが出来るような、そんな気がした。

「よし、そんじゃ夏と勇希も食い終わったみたいだし、カバン片付けに行くか」

弁当箱をカバンに片付け、二人も同じように片付け終わるのを確認してから、正義は来た時と同じように一番最初に教室を出て急かした。慌てて彼の後に続いたが、夏と勇希はやれやれとようやく重い腰を上げて、特に急ぐわけでもなく自分たちのペースで歩いている。正義は二人に早く来るように急かしていたが、それでも二人は自分たちの歩みを速めず、待っている彼の隣に並んだ。四人で階段を降り、廊下をわたってロッカーに再びカバンを置き直すと、正義はパンフレットを取り出して「一体どこに行くか」と地図と睨み合っていた。ふと今何時かと視線を上げると、一時七分前で、昨日部長に言われたことを唐突に思い出し、「部活に行く」と三人に告げ、教室の前に立ったままの三人を尻目に体育館に遅れることがないように走って向かった。中はすでに午後からの演目を見るために、保護者や生徒が数名席についており、彼らに気づかれないように体育館の隅を走り、舞台袖の扉を開けて薄暗い中に入った。すると、すでに他の部員や女子たちが集まっていて、部長の話を聞いているようだった。一応まだ一時になっていなかったはずだが、もう少し早めに来るべきだっただろうかと不安になった。けれど、一昨日言ったことの最終確認とそれから、午後からの予定がない生徒はもう着替えて袖で待機していて欲しいと告げた。それで話は終わったのだが、部長が傍に来た。他の人よりも遅く来たことを怒られるのかと思ったが、彼女は別に怒りはせずに肩を叩いて笑った。

「確か、貴方のクラスはこのあと代表で歌うんでしょう」

「・・・はい」

「それでね、歌い終わってステージを降りたら、袖に来て欲しいの。衣装の仕上げには時間がかかるから、すぐに来てね。本当は今からメイクしたいんだけど、合唱の時に一人だけ化粧をしてるのは変だし、あなたも嫌でしょう」

特に思い浮かばなかったが、彼女がそう言うので頷いた。部長から伝えることはそれだけだったようで、見ると先ほどまでいた女子も数名の姿が見えなくなっていたので、他の部活の邪魔にならないために舞台袖から出た。けれど、いったい何処に行くというあてもない、体育館を眺めていると、午後がもうすぐ始まるので、先ほど別れた夏たちも座っている姿が見え、もうイスに座ろうと自分の席に向かった。

先に座っていたクラスメイトの間を縫い、自分の席に座ってすることもないのでまた時計を眺めていた。秒針を見ようと思うのだが、やはり遠すぎて僅かに動いているということが分かる程度である。ふと時計から目を離すと、夏が「やあ」と手を上げて顔を向けていた。どうしたものかと考え、同じように手を上げて返し、再び時計に目を向けた。

声を張り上げて歌わなければならないと思うと、心臓が強く動き始めた。今日は昨日よりも多くの人がいたが、約束した以上、それを破りたくはない。けれど、本当に汚い声を大きく張り上げてもよいものなのだろうか戸惑った。

自分の中で答えを出せない内に、放送が掛かって、午後のステージ発表が始まってしまった。まず、生徒会会長のあいさつ、校長の賛辞が終わり、次は合唱である。一年生の代表クラスが前に出て行き、歌い始めた。ピアノの音、指揮者の動き、生徒の合唱が体育館に響き、それは次第に弱まって、拍手の内に最初の発表が終わった。次は、クラスの番で、前の方から順番に立ち上がって一年生と入れ替わるようにステージに上って行った。人がいるから緊張しているのか、けれど、やはり正面のライトが眩しく一つ前の生徒の顔すら見ることが出来なかった。昨日と同じ位置に立ち、震え始めた右手をじっと見つめていると、背中をぽんと叩かれた。眼だけで振り返ると、そこに本当に夏が立っていることが分かり、手の震えは治まった。

まず、最初の班が声を上げて歌い始め、次の番だ。後ろから夏の声が耳に聞こえ、彼に重ねるように、自分の声を外に放った。声は夏とそれから他のクラスメイトの声と混ざり、あの擦れて汚い声は、どれだけ大きな声を出しても聞こえてこなかった。合唱というのはこんな風に汚い声まで、他の声が呑み込めるから、学校で歌う様になったのかもしれない。ピアノの音が止み、指揮者が手を下ろすと暗闇の中から拍手が聞こえてきた。代表である指揮者に合わせてクラスの全員が頭を下げ、前の人からステージを下りはじめた。降りるとき、夏が肩を叩き、その後ろの正義がこちらを見てニンマリと笑った。それを見て、彼らの要望を満たせたのだと安堵し、肩と顔の強張っていた筋肉が弛んだ。すると、少し正義と夏が驚いた顔をし、どうしてそんな顔をするのだろうかと彼らに聞きたかったが、もう前の人が先に歩きだしているのでそれは出来そうもない。階段を降り、そのままイスに戻ろうとしたところで、暗がりに肩を掴まれた。振り返ると部長が居て、先ほどのことを思い出してクラスメイトから離れて舞台の袖へ入った。

「とりあえず、そこでこれに着替えてきて」

渡された白い服には、もう仕付け糸も待ち針も刺さってはいなかった。受け取ると、暗幕の裏側に移動し、その白い服に着替え、脱いだ制服を手に持ち部長の所に行った。部長は制服を机の上に置くように言い、その後すぐにイスに座らせ、少し開いている胸の隙間に布をいくらか詰めた。それでもう終わりなのだと思っていると、彼女はカバンから化粧品を取り出し、頬に白い粉を擦りつけ出した。当然、そんなものは気分がいいものではなく、どうせレースで顔が隠れるのにと思っていたが、声には出せず結局我慢することしか出来なかった。化粧をしている間、ステージでは他の部活の発表をしている様子が僅かに見えた。

「ふぅ、何とか間に合った」

部長は鏡を見せて感想を聞きたがったが、そこにあるのは粉っぽい化粧を塗られた姉の顔があるだけで、それ以上のことはない。何も言わなかったが、彼女はやはり本当は意見など必要はないらしく、カツラを頭に載せ、その上に冠を載せた。さすがにこれ上のことはなく、少し肩の力を抜いてイスに縋りつこうとしたのだが、それを部長は腕を持って引き上げた。

「次よ、」

もう時間になったと言い、着替えを終えた女子の後ろに立たされた。隣にはリハーサルの時に一緒だった、赤い服を着た女子がいた。とにかく後は、彼女と一緒に行動すればいいだけの話である。音楽が流れると、前の女子からステージに出て行った。一人、また一人出て、曲が一瞬止まり、隣の女子に合わせてステージに出て行った。眼の前の暗闇の中から、拍手と歓声が聞こえてきた。今のところ、リハーサルと何ら変わらず進行し、一度袖に戻ったが、今度は着替えてもいない部長と手を結んで外に出て行った。一人一人が、自分の作品について説明し、最後に、部長の番になった。彼女はこの身体を差しながら、「このウエディングドレスは、」切り出し話を始めた。その時になってようやく、これはウエディングドレスだったのだと知った。知ったところで、今まで着ていた事実は変わらないので、やはりどうでもいいように思った。

拍手が起こり、電気が消えたので、部長に手を引かれながら袖に走って戻った。次は別の部活の発表が行われるようで、すでに別の音楽が流れて薄暗いステージ上でセットを用意しているのがわかった。もうこれで終わりだろうかと部長を見ると、彼女は涙を流し他の女子に慰められていた。どうして泣いているのだろうか、もしかしたら、気づかぬ内に、何かとんでもない事をしでかしてしまい、憤慨でもしているのかもしれない。

「・・・ごめん」

謝ると、涙を流す部長がこちら見て首を傾げていた。

「どうしてアナタが謝るの?」

「・・・泣いてるから、何か失敗したのかと思って、」

部長は前に来て、涙を拭いた。やはり、何かしてしまったのだろうか、けれど、いったい何をしてしまったのかよく分からない。

「違うわ。ちょっと、終わったって思ったのよ」

事実、これでステージ発表は終わっている。それで、どうして泣く必要があるのか、分からない。他の女子も少し涙ぐんでいるようであり、居心地の悪さを覚えた。この後一体どうするのか、服はもう脱いでしまっていいのか、聞こうとするが、今の彼女たちに聞くことは出来そうもない。

しかたなく、着替えることも出来ずに先ほども座っていたイスに腰掛けた。眼の前には自分の制服と、小さな鏡が置いている。その鏡に映っているのは自分では無く、違う女の顔だった。こんな胸は無いし、これほど髪を伸ばすことも許されていない。

前の部活の発表は終わり、次の部活と入れ替わりで入ってまた演技が始まった。部長たちの興奮は収まったのか、すすり泣きは弱まって、もう互いを慰め合ってはいない。次の発表が終わり、次の部活が発表をするのかと思っていると電気がついていた。それと同時に、「今から十分の休憩です」という声も聞こえ、今まで静かにしていた生徒の雑談が体育館に響いた。

「・・・あの、」

部長に声をかけると、彼女はもう泣いてはいなかった。けれど先ほどまで泣いていた涙の痕が顔に残り、酷く醜く映ったが、その顔が何故か嫌ではなかった。

「ああ、ごめん。着替えて席に戻ってもいいから。そのカツラと冠と詰め物はそのダンボールの中に入れて。服は私、ここに居るから渡してね」

「化粧、」

「あ、ああ。ごめん忘れてた」

カツラと冠をダンボールの中に放り込み、胸の詰め物である布を取り出し、同じようにダンボールに入れて部長が化粧道具から何を出すのか待っていると、彼女は白いティッシュを取り出して顔に押し付けた。それが湿っていたので、その冷たさに身体がビクリと一度震えた。

「今日は本当にありがとうね」

「・・・」

顔をこすられているので、声を出すことは出来ない。部長はその湿ったティッシュで顔を拭き、それが終わったかと思うと、また別のティッシュで顔全体を拭いて一息ついた。

「これで落ちたわ。まだ気になるようだったら、後で洗面所で洗ってね」

鏡を渡されて顔を見ると、さっきと変わらない顔があった。ただ、確かに前よりも白い色、頬の赤さは無くなって、貧弱そうな醜い顔になっていた。鏡を彼女に渡し、制服をもってさっきのようにカーテンの裏側に行こうとすると、舞台袖が開いて生徒が多く入ってきた。いったい何なのだろうかと思わず部長の後ろに隠れ、彼女は「ああ、声楽部と吹奏楽ね」と呟いた。彼らの後ろから、楽器を持った生徒たちも連なっている。部長は背中に隠れる姿を見て、「恥ずかしがり屋ね」と笑っていたが、追い払うことはしなかった。

吹奏楽部は自分の楽器をもうステージに運び設置をしはじめ、声楽部は全員揃っているか点呼をとっていた。その中に、夏の姿を見た。彼も本当に歌うのだと、改めて感じた。彼を眺めていたせいだろう、視線に気づいた夏がこちらに目を向け、眼を丸くしていた。自分の姿を思い出すと、情ない気持ちになって、制服で顔を隠し、袖の隅を通って暗幕の裏側に移動した。似合わない白い服を脱ぎ棄て、黒の制服をボタン一つ掛け忘れることなく着た。このまま捨てておきたかったが、白い服を両手に持って目立たぬように壁際を歩き、本当にその場で待っている部長に服を押し付けると、袖から逃げるように出て行った。顔を洗いに行きたかったが、もう暗くなり始めて、仕方なくそのまま自分の席に戻って座った。

電気が消えると、ステージにライトが当たり、声楽部が入場してきた。人が予想よりも多く、いったい何処に夏がいるのか最初わからなかったが、歌い始めるとすぐに夏が何処に居るのかわかった。上段の左から二番目、他の生徒と同じように同じ歌を歌っている。夏の声は確かに綺麗だったけれど、彼が詩っているときのあの澄みきった透明な声とは違って聞こえた。合唱の中で、彼の声は他の普通の声に混ざって、飲み込まれてしまっている。

そう言えば、しばらく夏の詩を聞いていない。

声楽部はアンコールの声に応え、もう一つ始めから用意していただろう歌を歌ってステージを下りた。次は最後の吹奏楽の演奏で、練習の時に聞こえていた演奏が流れ始めた。夏はいつの間にか席に戻っており、何事も無かったようにステージを眺めていた。

吹奏楽の演奏は確かに上手いように思ったが、記憶にさっぱり残らないものだった。発表が終わり、文化祭委員、生徒会からの涙ぐむ演出の挨拶が終わり、最後にまた校長の長い話が終わると保護者は体育館から追い立てられるように出て行った。残された生徒は、文化祭がどうであったかという、どうでも良い先生の感想と苦言があり、教室に戻って片付けをするように全体の指示があり、ようやく体育館から解放された。

全体の流れに従って歩いていると、夏が背中を叩いた。

「家庭科部のファッションショー、綺麗だったね」

「・・・」

「嫌、だったの?」

夏が不安そうに眉を垂らした。何か言おうと思うが、声は音にならずに止まっている。仕方なく首を横に振り、一歩彼から身を引いた。

「どうしたの、」

何も言わず、トイレを指差した。それを確認すると、夏は「休憩なかったみたいだしね」と相槌を打って先に教室に戻って行くのが見えた。その前には正義と勇希の姿もあり、あの三人は三人でいるのが、バランスが良いのではないかと思えた。

トイレに入り、すぐに水で顔を何度も何度も洗った。未だに化粧の匂いがしているような気がしたが、ここには水以外無いので我慢するしかない。ハンカチで顔を拭い、廊下に出るとクラスメイトが飾りをゴミ袋に入れている姿が見えた。さっそく掃除が始まったのだろうと思い、教室に入ると、彼らと同じように鎖の輪を天井からもぎ取りごみ袋に捨てた。どうせ棄てるだけなのに、どうして紙を切って飾りを作るのだろう。けれど、そんなことを考えても事実は変わらないので、考えることを止めた。

「よぉ、久連。長いトイレだったな」

顔を洗っていただけなのだが、時間がかかったのは事実なので否定はせずに正義の顔を眺めた。彼は嬉々とした表情を浮かべ、「さっき俺らのクラスが一位だって紙が来たぜ」と先生の机の上に置いてある安っぽい賞状を指差した。あんなものを貰って何が嬉しいのか、実用性のない単なる紙、それも学校側から下されたものだ。けれど、他のクラスメイトも嫌そうな顔をしていないので、これは良かったことなのだと思い、頷いて見せた。

教室の飾りはあらかたごみ袋の中に押し込まれ、机をいつもの位置に戻すと、席に着くように先生に指示された。先生は「素晴らしい歌だった」と熱く語り、賞状は後で教室の壁に飾っておくことを告げた。感動のままに終わらせるのかと思っていたが、先生というものは時に酷く現実的で、今日ふざけた生徒に対する苦言と明日の振替休日で羽目を外さないようにと強く言い聞かせ、解散となった。ふと、家庭科室の清掃はどうなったのだろうかと思ったが、何も言われていないのだから、行く必要はないと考える事を止めた。時計の針を見てみると、家に帰るのが早すぎるわけでも遅すぎるわけでもない時間であった。だから、カバンを持ってさっそく家に帰ろうと思ったのだが、それを夏に止められた。

「あのさ、明日、遊びにいかないかって正義が言ってるんだけどさ」

「・・・」

「一緒に行かない?」

文化祭という高揚感で、彼らは冷静な判断が出来ていないのだろうか。側にいても退屈なだけだと、今日一緒に歩いて十分理解しているはずである。

「あの、」

「何だ久連。お前予定でもあんのか?」

正義と勇希が夏の後ろから近づいてきた。事実、予定はなかったので、首を横に振った。すると、意見など聞いていないのか、「なら、明日の10時にコンビニ前のバス停集合な!」と肩を叩いて約束させられた。彼らの行動は全く理解できないが、悪意があるようには思えない。夏は二人の間で、苦笑を見せてきた。

「・・・さようなら」

三人に向かって言うと、それぞれが「じゃあな」「また明日」「おう」と返事をした。カバンを掴み、それから一度も振り返らずに教室を出て行った。小腸のような廊下を下し、やはり汚いカスのまま、学校を出て行った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ