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文化祭一日目、そうは言っても普段の日常と大差ない。制服に着替え、カバンを持って学校に行くだけだ。
今日は合唱で声を出さなければならないので、せめて少しでもこの腐臭を無くそうと風呂に入り、身体を擦り上げ、ドライヤーで髪を乱雑に乾かした。少しは匂いが消えたのか、今日はそれほど酷い匂いはしていない。リビングに入って「おはようございます」と声をかけると、姉がせわしなく部屋を歩き回っている姿が見えた。そういえば、旅行に行くのだと言っていたことを思い出した。母が困った顔をして、「どうして昨日のうちに済ませておかなかったの」と声を掛けていたが、自分のことで精いっぱいの姉には届いていない。父は何事も無かったように新聞を読み、姉の不手際には無関心なようであった。
荷物がまとめ終わったところで、ようやく姉はこちらに気づき、ぽんと頭を撫でて「行ってくる」と部屋を出て行った。人差し指がまだ治っていないコブに当たり、少し痛みが走ったが、顔に力を入れたので誰にも気付かれずに済んだ。
用意された朝食をすませ、洗面所に向かって何度も口をゆすって歯を磨きあげた。そして、すべての身なりを整えると、父と母に「行ってきます」と言って外に出た。しばらく兄の顔を見ていないのは、必要がなくなったからか、こちらから顔を背けているからか分からない。
学校につき、教室にカバンを置いて座っていると、今日はやけに人が少ないことに気づいた。どうしてなのだろうかと思っていると、正義たちが駆けこんできた。それを眺めていると、彼らはこちらを見て近づいてきた。
「おっす、」
「・・・おはよう」
正義はカバンを教室の隅に投げて、肩を竦めていた。
「今日は体育館集合だろ、遅刻すんぞ」
「あ、」
そう言えばそのようなことを先生が言っていたことを思い出し、慌てて立ち上がった。正義たちは待っているようで、立ちあがると背をつついて「早く行くぞ」と声を掛けた。
まだ臭いだろうに、それでも後を押して連れて行こうとしてくれるので、それに対しては礼を言わなければならないと思い、走りながら「ありがとう」と小さく言った。よく聞こえなかったのか、前に走っていた男子が振り返って「何?」と聞いてきた。正義には聞こえていたようで、「ありがとう、だとさ」と大きな声で男子に伝えた。男子の方はへらへら笑って、「気にすんな」と手を振って足を速めた。足が速いので少し息が切れながら、後ろで正義に押されながら前に進んだ。体育館に近づくと、生徒が入って行く姿が見えた。それでもう大丈夫だと思ったのだろう、正義は押すのを止めて前の男子と肩を並べて先に入った。一人で入るのは少し気が引け、彼らの後ろで邪魔にならない程度の距離を開けて中に入った。昨日リハーサルをしたときに座った席の部分が開いていたので、先に座っている人たちに申し訳ないと顔を伏せて通してもらい、自分の席に落ち着いた。
皆がどこか居心地が悪そうに身体を揺すり、小さな声がざわざわと体育館に溢れていた。前の紙に今日のスケジュールが張り出されて、9時から文化祭の開会式が行われるとあった。それまでの間は一切動くことが出来ないので、時計の針をじっと眺めていると五分前になった。すると、電気が弱くなり、もうすぐ始まる高揚感から声が大きくなったが、しばらく何も起こらないと自然と声が小さくなり、ふっと静寂が訪れた。
すると、突然後ろからライトが照らされ、生徒会役員の誰かが前に立ち、文化祭の始りを伝えた。拍手が沸き起こったが、堅苦しい挨拶に盛り上がっている様子はなく、淡々と開会あいさつと学校長の話を30分も聞かされた。皆退屈そうにして、イスの背に頭を押し付けて寝ている姿が暗闇に慣れた目に映っていた。普段なら先生が起こして回るだろうが、暗闇で生徒の様子など分かっていないようだった。
訳の分からない祝辞が行われ、十分の休憩を挟んで合唱の発表となる。その場から動いて他人に迷惑をかけることは嫌だったので、眠ったふりをするように両手で顔を覆って俯いた。いくら秋だと言っても、人が多いと汗が噴き出てくる。身体から染み出る汗は、やはり腐った臭いを漂わせているので、隣に座ることになった女子生徒に申し訳ないと思ったが、自分から臭くて申し訳ないと言えるはずもなく、ちらりと横目で左右の女子の顔を眺め、また顔を伏せた。
予定よりも少し時間がずれ込んでいたが、合唱の発表会が始まった。最初は一年からで、まだ幼い顔の生徒たちが壇上に上がり、胸を張っていた。どこかで聞いたことのある歌で、やはり学校の先生が好きそうな、当たり障りのない合唱曲だと思った。前の方から、座っている生徒の塊が昇り降りを繰り返し、気づくと、クラスの番になっていた。クラスメイトが一斉に立ちあがり、遅れないように彼らの後に続いた。狭い通路を歩き、前のクラスがステージから降りはじめると、反対にクラスがステージに上った。ステージの上はライトが集中して照らされているので、下の生徒の顔などわかりはしないし、熱に汗が噴き出してきた。
二段目に立ち、前の男子の頭で顔が見えないように少し身体を屈めた。全員が並び終わると、指揮者が手を上げ、ピアノの演奏が始まった。どのクラスも一人はピアノを弾いているが、クラス分けをするとき、始めからそのことを考えて生徒を分けているのだろうかとふと思った。
まず、最初の班が声を出した。すぐ次に歌うことになっているのだが、やはり声を出してはいけない気がして、口を開くが音はほとんど出なかった。けれど、他のクラスメイトは普段以上の声で歌い、体育館全体に歌声が響いていた。歌おうと思うのだが、額から汗が吹き出し、その臭いが鼻孔をくすぐる度に心臓が跳ね上がり、ざわめいた。何度身体を洗おうと、やはり臭いのだ。あまりにも臭くて、腐って、声を出すたびに細菌があふれ出ている。
心臓が痛かった。けれど、その痛みの止め方が分からない。きっと、痛いのは心臓ではなくてコブの出来ている頭なのだ、それを心臓だと勘違いしているに違いない。
結局、ほとんど声を出せず、クラスの合唱は終わった。指揮者に合わせて頭を下げ、そのままステージを降りて元の席に座った。申し訳なさと自分の醜悪さに嫌気がさし、両手で顔を覆い俯いた。
他のクラスの歌が耳に聞こえてきたが、どれも同じようなもので、違いがわからない。やはり、夏の声だけが特別なのだろうか、体育館を声が満たすけれど、どれもただの大きな音としか思えない。先生たちが評価を下し、明日の一般公開の文化祭で各学年一クラスずつを歌わせると言っていたが、違いがわからないので、先生たちがどのように決めているのかわからない。もしかしたら、先生たちの間では、どのクラスを出すか始めから決めているのかもしれないし、権力のある古株の先生が自分のクラスを出すように言っているのかもしれない。芸術の評価など、結局出来るものなのかどうか、分からないものだ。
全学年が歌い終わったところで、電気がついた。司会者が「昼食の時間」を連絡している。今日も給食が出るものだと勘違いしていたので、弁当を持ってきていなかった。けれど、話によるとPTAのうどん販売があるとも伝えているので、サイフを持ってきていたことに安堵し、隣の女子がいなくなると体育館から出て行った。まず鞄を置いていた教室に戻ったが、すでにクラスでは弁当を広げて食べ合っている女子の姿があった。鞄から財布をとり、中庭で販売しているうどんを買うために教室を出て行った。
弁当を持ってきていない生徒は思うよりも多く、普段なら出来ない長い列が出来ていた。ようやく番が回ってきて、二百円払いうどんと割り箸を受け取った。すぐに食べようと思ったが、簡易テントは満席でとても食べられそうも無かった。仕方なく、教室までうどんをこぼさないように気を付けながら運んだのだが、帰ってくると席は違う誰かに座られていた。仕方なく、黒板の下に座り床で食べることになった。二百円のうどんというのは確かに安いが、見ると麺は伸び切り、具はネギだけの素うどんであった。一口すすってみたが、出汁も薄くうどんは柔らかく、お世辞にも美味とは言い難いものだった。確かに不味く食べられないというわけではないので、するすると味を感じない速さで食べていると、弁当を持った夏と正義と男子がうどんに気づいて近づいてきた。
「PTAのやつじゃん。それってうまいの?」
男子が聞いた。それほど美味しくなかったので、首を横に振って否定した。すると、正義は肩を落とし目の前に座った。
「明日は弁当作ってくれねぇから、うどん喰わなきゃなんねぇんだよ。なぁ、一口くれねーか?」
そう言って、彼は拒絶する前に器をとって一口飲んでしまった。「あ」と声を出し、正義は首を傾げた。
「・・・まあ、まずいわけじゃねぇけど。お前さ、なんでそんな顔してんだ?」
うどんの器を返され、困ったように正義を見た。彼は夏と違い、汚いということを知らないのだ。知らぬが仏という言葉もあるので、敢えて汚さを伝えてショックを受けさせるよりは、言わない方がいいかと思い、首を横に振って「なんでもない」と小さく答えた。
「それで、具はネギ以外に何が入ってたんだ?」
正義は自分の弁当からおにぎりを口に含んだまま聞いてきた。口の中で唾液により分解されようとしている米粒が何度も見えて、こうして食物が無駄に浪費されていくところを人に見せないために、食事のときに話してはならないと母が教えたのではないかとぼんやり思った。
「久連?」
「・・・ネギ以外は無いよ」
答えると、正義は酷くがっかりした顔をしていた。どうすればいいのか分からずに夏に目を向けると、彼はクスクス笑いながら、「コンビニで買ってきたらどう?」と提案していた。すると、正義は少し嫌そうな顔をしながら、「そうするか、仕方ねぇ」と肩を竦めていた。
夏たち三人が自分たちだけで会話を始めたので、安心してうどんを食べ終わり、棄てる場所も無いのでスープも飲み干した。
「お前、それだけで足りんの?」
男子が声を掛けてきたが、足りる足りない以前にうどん以外の食べ物が無いのだから仕方がない。もう一杯買いに行くよりは、我慢する方を選ぶので肩をすくめて見せた。何となく、立ち上がると埃が舞って彼らの弁当を汚してしまう気がし、その場から動けず、床に並べられた彼らの弁当に視線を落とした。教室で食べる女子の弁当に比べれば大きなもので、むしろ、よくこれだけのものが胃袋に入ると感心した。
「勇希ちゃん、そのから揚げとこっちの卵焼き変えてくんない?」
男子の名前は勇希だと分かり、勇希は正義が見せる卵焼きを覗き見て、首を振って否定し、残りの揚げを呑み込んだ。
「てめ、ちょっとくらい分けて与えようという優しさはねーのか」
「チーズの入った卵焼きなんてゴメンだね」
どうやら、勇希はチーズが嫌いなようだ。そして、正義もあまり好きではないのか、夏に交換するように持ちかけて、同じように断られると渋々口に運び、ご飯で飲み下した。夏以外、弁当をあらかた食べ終わったようで、器をもったままゆっくりと立ち上がり、彼らから離れた。廊下を見回し、ごみ箱を見つけて捨てていいものかと少し考えたが、中には同じようにうつわが多く捨てられてあったので、注意を受けないだろうと判断し、同じようにごみ箱に投げ捨てた。そして、いつもの癖で教室に戻り、自分の席がないのだということを思い出し、どうしたものかとその場で立ち往生した。けれど、廊下を歩く生徒の流れに気づき、体育館のイスに座って居ればよいのだと気づいて、その流れに従い体育館へ向かった。
人が少なくなった所為か、先ほどよりも気温は下がっているようだった。もうすでにちらほらと座っている姿が見え、まだ誰も座っていないクラスの自分の席に座り、手持無沙汰に時計を眺めた。汗をかいた今、身体からどれ程の悪臭が漏れていることだろうか。きっと強烈な匂いが漂っているのだろうと思った。予想を立てることは簡単だったので、敢えて臭いを確かめ、自分の臭いで吐き気を催す事が無い様に、やはり、顔を上げて時計の薄くよく見えない秒針の動きを追った。午後にあるのは、順位発表と明日の注意事項だけなのだから、昼食時間を取らずに、一度に終わらせてしまった方が良いのではないかと思った。だが、早く解散になっても家に帰らなければならないだけなので、やはり考えただけでどうでも良いと結論を出した。前の方で、何がそんなに忙しいのか生徒会役員が走り回っている。彼らはどうして自ら忙しい生徒会に立候補するのか。人のために何かを尽くすと言う、押しつけがましい慈愛の精神を真っ当したいのだろう。一時五分前になると、普段のチャイムの代わりに「生徒は全員体育館に集まってください」との放送が流れた。その後、ぞろぞろと会話をしながら生徒が入ってきて、自分の席に散って行った。時計の針をじっと眺めて、ふっと下に視線を落とすと周囲に生徒がもうイスに座って、午後の始りを待っていた。皆真面目なもので、反発はしていても結局は指示通り行動する。
体育館は午前中のように暗くなり、生徒会役員の司会が、「それでは明日の、」と順位発表を校長が行うことを告げ、呼ばれたクラスの文化祭委員が前に出るように告げていた。そして、午前中に長く意味のない過去の栄光しか語らなかった校長が前に出て、マイクを持ち胸を張り全校生徒を見下した。
「では、一年生の代表は、一年二組!」
前の方で歓声が沸き起こった。いったい選ばれたことの何が嬉しいのか、明日も歌わなければならないという面倒が増えるだけだのことであるというのに。すると、周囲でも大声と拍手が沸き起こった。突然何をそんなに喜んでいるのかと思っていると、壇上にクラスの文化祭委員が上っていく姿が見えた。あれは、いつも前に出て指導をしていたクラスメイトである。彼らが前に出ていると言う事は、このクラスは明日も歌わなければならなくなったと言うことだ。きっと夏の声により選ばれたのだと思って夏を見ると、彼もこちらを見ていたので、思わず眼を逸らしてステージに目を向け直した。
拍手と歓声が収まり、各学年の文化祭委員は自分の席に戻って行った。これで終わりかと思ったのだが、明日は保護者が来るからと、また長い校長の話が20分ほどあり、その後校長がいなくなってから学年主任による注意事項が話され、各自解散となった。教室にカバンを置いていたので、体育館から直接ではなく一度校舎に戻ってから帰ろうと思っていたのだが、その肩を夏が掴んだ。
「明日さ、一緒に見て回ろう」
あまりにも驚いて、思わず口も塞がず、「どうして?」と聞き返した。夏は返答に困っているようで、頭をかいていたが、唇を引き上げて笑みを浮かべた。
「一緒に見ると楽しそうだから。駄目かな?」
断る理由は無いので、少し夏から離れて「うん」と返事をした。確かに断る理由はなかったが、夏はきっと退屈して自分から離れていくだろうと何となく思っていた。夏は良かったと呟き、明日は晴れそうだと教えたが、傘を持つか持たないかの違いで、天気などどうでも良いように思えた。
一人になり、渡り廊下を歩いていると、前から部長が走ってくる姿が見えた。一応礼儀として会釈をしようと足を止めると、彼女も前で止まったので、不思議に思い首を傾げて見せた。
「言い忘れてた。明日の一時までに、舞台袖に来てよね。いい、一時よ!」
そう言えば、ファッションショーは明日あるのだと思いだし、わかったという意味を込めて大きく頷いた。了承したことを確認したのだろう、部長は走って体育館に入って行った。役職に就く人間というのは、どうして敢えて面倒くさい仕事をしているのだろう。やりたいとは思わないが、彼らが嫌な顔をしていないというのが不思議だった。
教室に戻ると女子たちが飾り付けの仕上げをしているところだった。手伝うべきかどうか迷ったが、居ても迷惑なだけだと思い、見ていないだろうが会釈をして教室を後にした。早く家に帰りたいわけではなかったが、行くあてもないので仕方がない。それに、母の機嫌は良く、寛大で優しい母親だった。家に帰ってもきっと何も思わず、部屋に帰って休むことが出来るだろう。外の世界を歩き、ふと、家を出る兄の姿が見えた。論文を仕上げに友人の所に行くと言っていたが、それが本当のことかどうかよく分からない。走れば彼に追いつき挨拶をすることも出来るだろうが、もう兄にとって必要のないもので、そこに存在は無かった。だから、自分の足を早めることはなく、兄の背から目を離して家に帰って行った。