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EUNUCH  作者: 立春
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同性愛や近親姦、虐待など、個人的にはそこまで過激ではないと思いますが、作品内に含まれていますので、そういったものを嫌悪される方はご遠慮ください。


 この家は腐っている。




 放課後の図書館に訪れる者は殆どいない。カウンターから離れた図書館の一番奥の席につき、普段は閉め切られている窓を開けた。夏になれば開けることもあるが、秋は少し肌寒いため窓は掃除の時以外閉じられている。開けにくい窓をわずかに動かし、湿った外の空気を吸い込んだ。それから後は、何をするというわけではない、何もせず、そこに座っているだけだ。宿題がある時はそれをやるが、今回は何一つ課題が出ていないので、頬杖をついて軽く目を塞いだ。眠るつもりはない、そうして耳を澄ませるだけだ。

 しばらくすると、もう耳になれた心地よい詩が聞こえてきた。空気のように透明な、風のように、すっと身体に溶け込むような声である。よく聞く歌であると思えば、まったく知らない旋律のときもある。

 酔う様に聞いていようと思っていたが、ふと、詩が止んだ。

 「よくそこにいるけど、どうして、」

 窓の外から、声が聞こえる。振り返えるか悩み、結局眼を開け、顔だけその方へ向けた。視界に入ったのは、小学の時から良く見知った、けれど仲の良いわけでもない同級生の夏だった。学生服を少し着崩しているが、けして先生の目に留まるような着崩し方ではない。少し色素の薄い髪は木の肌色をしているが、それも悪く映らず、細いそれは綿毛の様にゆらゆらと風に靡いていた。

 どう応えようか迷ったが、彼は窓の外だと思い到り、顔色は変えず言った。

 「・・・詩が、聞こえるから」

 そう答えると、夏は犬の様に丸い目を細め、ほほ笑んだ。

 「詩、好きなの?」黙ったまま、夏の顔を眺めた。犬の様に丸い目が、笑みをこぼす様に細くなった。「きみは、歌わないの?」

 言われて、襟まで止めた首を押えた。声が喉を絞め殺すように感じ、息まで止まりそうだった。それを誤魔化すように、手元の本に視線を向けた。

 「・・・聞くだけで、良い」

 「なら、ぼくたちの教室に座っていれば、上の音楽室から声学部の歌が聞こえるよ」

 本から夏に視線を映すと、彼の口元が先ほどよりも緩やかに上がっている事に気がついた。

 「お前も歌ってるのか?」

 「ぼくは入部しているだけで、滅多にあそこにはいかないけれど」

 その答えに納得した。

 「たぶん、お前の詩がいい」

 相手に伝えるよりも、自分に確認をとるように返事した。夏は少し照れたように顔を赤くし、僅かに開けられていた窓を押して、顔を近づけてきた。

 「ありがとう」

 ここまで近くで、他人の顔をまじまじ眺めるのは初めてだった。けして癖のない、けれど左右対称を絵に描かいたような綺麗な顔立ちだった。小柄な印象だったが、自分よりも幾分か背が高いようであった。どちらかといえば華奢な体つきだが、女の様な丸みはなく、どこから見ても少年にしか思えない。女の様に美しいという形容詞はよく聞くが、筋肉質をイメージさせる男らしい身体とはまた違った、少女とも女とも男とも違う、少年の綺麗さだった。まるで違うその綺麗さに、また目を伏せた。

 それなのに、夏は執拗にこちらを見て来た。何か言いたいことがあるなら、夏の方から言われなければ困る。自分から声をかけることは滅多と無く、必要に迫られない限り出来るだけ避けていた。この視線から逃れるためには、こちらから声をかけなければならないのだろう。口を開けようとすると腐乱した匂いが込み上げて、息が詰まった。それを夏に感じさせないように気をつけながら、口を手で蔽い、およそ当たり障りのないことを聞いた。

 「外は寒くない?」

 「少し、寒い」夏は笑いながら、窓枠に縋りついた。「明日からは、ここで唄うのはやめるよ」

 それは本当に寒いからか、彼の詩を聞いていた所為だろうか。けれど、それを尋ねることは出来なかった。

こちらの戸惑いを感じとったのか、夏は窓から離れて空を見上げ、一息ついた。

 「・・・実はね、いつも空いている教室を見つけたんだよ。昔、演劇部があったときに使っていた小さな教室でね、今は社会の資料室になってるところ」

 そこならば、よく知っている。学校には校舎が二つあって、一つは各学年の教室、もう一つは職員室や図書室などの部屋がある。だから一日、一つの校舎から一度も出ないということもある。その資料室があるのは、職員室のある校舎の三階、ほとんど使わない美術室の隣にある。資料室なのだから鍵でも掛ければいいが、盗む者は今まで居らず、教師が生徒を使って資料を取りに行かせることが多いので、鍵はいつも開いていた。不良も三階まで上る面倒さからか、そこに集まることは滅多とない。そう言う者たちは、体育館の横にある部室に集まっていた。

 場所を教えてくれたということは、聴きに行っても良いということであろうか。尋ねるのは憚られ、頷きだけを返した。

 「ぼくはもう帰るね」

 「・・・うん」

 「また、明日」

 同じクラスなのだから、ごく自然な挨拶だっただろう。僅かに身体を逸らしながら、同じように「さよなら」と返し、重い身体を起こして図書室から出て行った。


 家は小さくはない。三兄弟それぞれに部屋が与えられ、父と母も個別に部屋を持っている。周囲の家からは少し離れており、家の周りは背ほどの門と草木に覆われている。それはまるで、この家の腐臭を外界へ漏らさないシェルターのように思えた。家にはいつも母がいる。彼女は部屋中を毎日掃除しなければ気が済まない性格で、自室にも掃除が行き届いている。ただ、姉と兄の部屋には鍵がかけられている為、母はそこの掃除が出来ないといつも嘆いていた。

 玄関を開けて、思わずため息を吐いた。そこには、男ものの靴と姉のミュールが揃えて並んでいた。姉は大学を卒業して就職も決まったというのに、職場が近いという理由で家に居ついて離れない。それは良いのだが、姉は家に彼氏と女友達をよく呼び込む。それがどういう友達か、誰よりも知っていた。

 まず始めに、家族全員が唯一揃うキッチンと連なったリビングへ向う。それが、この家で定められた規則の一つだ。

 「おかえりなさい」

 入ってすぐに、母が声を掛けてきた。どうやら今日の機嫌は、それほど悪くないようである。

 「ただいま」

 その場で鞄を開け、先生から配られたプリントを渡した。当たり障りのない、毎月出される学校についての知らせと、近づいている文化祭への招待紙だ。

 「あら、もうそんな季節なのね」

 母が外を見て、感慨深げに頷いていた。同じように外を見たが、レンガ色の塀が連なっているだけの面白味も無い風景しか眼に入らない。

 「二階に上がるでしょう、お姉ちゃんにおやつを届けてあげて」

 母の調子は昔から変わらない。二十代の成人女性におやつが必要なのであろうか、それも、恋人を連れている女だ。文句を言わずに受け取りながら、カレンダーに目を向けた。兄の予定は特に何も無いらしく、今日も定刻道理に帰ることになっている。そのことに、思わずため息を漏らしてしまった。

 「あら、何なの」

 厳しい声が横から聞こえた。こんな所でぼろを出してはいけなかったのに、今日はどうやら気が緩んでしまっていたようだ。そう思った途端、背中に鋭い痛みが走り、お盆を落とさないように強く固定して痛みに耐えた。母の爪が食い込み、痛みと熱が発せられ、喉が渇く。顔が歪んでしまったのだろう、母はすっと手を離して、「ごめんなさい」と言いながら、姉のお菓子の中からチョコレートを取り出し、口に押し込んで来た。酔ってしまうような甘い味に、脳が痺れる。その甘さを外へ出してしまわないよう、沈黙してリビングを出た。

 姉弟の部屋は二階にある。一番大きな部屋が姉の部屋で、次に兄、そして三番目に自室になる。生まれた順に部屋を決めたのだろうか、それにしては、姉の部屋は青い壁紙に囲まれ、兄の部屋は桜の柄の壁紙であった。自室は、何の感傷も無いもので、まるで卵の殻のように白い色をしている。

呼吸を整え、持っていた鞄を階段の傍に置き、姉の部屋をノックした。

 「はーい、」

 姉が鍵を開けて迎えた。奥の方で、ベッドに横たわる恋人の姿が見える。薄いシーツをかけているだけなので、身体の形がはっきり見て取れた。曲線の細身の身体、姉と同じ程の乳房の形が見て取れた。部屋のカーペットには服が脱ぎ捨てられており、紺色のパーカーと大きな麻色のズボンが視界に入った。

 「あ、またお菓子ね。これはいらないけど、でもジュースはちょうど良かったわ。喉が渇いていたところなの」

 口の中には、まだチョコレートが残っている。黙って姉にお盆を渡し、階段へ向った。けれど、姉に腕を掴まれ、そのままキスをされた。少し開いていた唇に、姉の口からチョコレートの欠片が押し込まれた。

 「・・・黙っててね、」

 また、チョコレートの味がする。口の中に入る前に溶けて、舌や唇に張り付き剥がれない。黙って姉に背を向け、階段に置かれた鞄を掴み自分の部屋に入って行った。


 部屋で鞄の中身を机上に置いてある小さな本棚に片付け、明日の予習をしていると、兄が帰った音がした。おそらく、すぐに玄関の靴に気づくことだろう。それを想像しながら、国語の教科書を開いた。

 教科書の黙読を終えた所で、下から夕食の支度を整えた声が響いた。夕食はいつものように母の規定した時間に始まり、母よりも先にご飯を食べ終えていなければならない。姉はまだ彼氏と部屋にいるため、食卓は三人だけだ。

 食卓に全員が、特に父が揃わないことに関して母が不機嫌になっている様子が伝わった。母が兄に、今日近所で話したらしいことをそのまま伝えている。兄はそれを聞いているのか分からないが、適当な相槌を打っていた。

早くこの空間から逃げ出すために、いつものように一番に食べ終え、食器を片づけて自分の部屋に向かった。入れ違いに、姉が彼氏と共に出てきた。足音と声から、玄関で別れを告げ、リビングに入っていった事が分かった。

 部屋に戻り、何度も読み返した教科書に目を落としていると、下の部屋から明るい笑い声が聞こえてきた。よく、継母と連れ子の相性が悪い話を聞くが、家族はその逆だ。姉と母の明るい声に、兄が朗らかに笑う嬉々とした音が響いた。その中で笑うことも一緒になって怒ることも出来ず、胸の疼きを隠すように部屋に閉じ籠もることしか出来ない。本当に部屋の壁が卵だったなら、また外に生まれ直すことが出来るかもしれない。だが、壁はただの壁でしかない。

 時計の針が九時を指した頃、ようやく父が帰ってきた。父を見かけるのは、朝、新聞を読んでいる時とたまたま仕事が早く終わった日だけだ。しばらくすると、笑い声が姉の声だけになり、階段を上る足音がした。もう来たのかとため息を吐き、表情を硬くした。すぐに、ノックも無しに誰かが殻の中に入ってくる。

 「おい、」

 呼びかけたのは、兄だ。何のために入ってくるのか、もうあまりにも慣れ過ぎて、用事を尋ねずに兄の方に視線を向けた。

 「俺の部屋に来い」

 言いながら、口にチョコレートの欠片を押し込まれた。板チョコの一欠片で、角が口に当たり、生きているように舌の上で跳ねた。チョコレートの塊と違って、平面からはすぐに味が広がらない。兄に手を引かれ、そのまま彼の部屋に連れて行かれた。用心深い兄は、けして誰かに見られることがないように、鍵をかけ乱暴にベッドに押し込む。簡素な自室と違い、マンガやギター、ボールなどがベッドと机の間に所狭しと放り投げてある。昔は天井にアイドルのポスターが貼ってあったのだが、今はその代わりか世界地図が張り付いていた。どうして世界地図を天井に張るのか意味が分からないが、あえてそれを尋ねるようなことはしない。

 明かりを弱められ、オレンジ色の蛍光が部屋を照らす。すべての明かりを消してしまわないのは、この顔を見るためだ。明かりを弱めるのは、この身体を見ないためだ。

 「彌生、」

 呼びかけながら、脆弱な身体に手が触れた。それは違う名だ。彼がいつも呼びかける名は、姉のものだった。

 兄は、姉に恋をしている。そんな単純な事、幼い頃から知っていた。愛情等無い。ただ、この顔が姉とよく似ているから、代わりに抱かれるだけだ。

 どれ程彼に抱かれようとも何も感じない。兄はきっと、姉に似た人形で遊ぶ感覚で抱いているのだろう。何か言いたいことがあった筈なのに、口の中のチョコレートが消えてしまいそうで、開けることさえ出来ない。身体が重く、思考を働かせるだけで億劫だった。

 「・・・お前、背中どうしたんだ」

 煙草を吸いながら、兄が背中に触れた。背中には、爪の痕が残っている。白い肌に浮かび上がるように赤く。

それよりも、今は兄が吸うタバコの灰が腕に落ちる熱の方に意識が向っていた。だから、何も言うことはない。舌を動かすと、口の中のチョコレートが消えてしまった。けれど、まだ甘い香りが口の中に残っていた。

 脱がされた服を着て、兄の部屋を出た。早くお風呂に入ってしまわなければ、一日の終わりを迎えることが出来ない。この家はあんまりにも汚く腐っているので、風呂に入り何度も洗い流し、匂いを落とさなければ、おちおち眠ることも出来ない。腕に鼻を近づけ嗅いでみると変な匂いがした。この部屋の匂いが移ったわけでも、兄の匂いが移ったわけでもなく、独特の厭な匂いがする。この匂いは体に染みつき、もう離れなくなってしまった。風呂に入ってすぐ、赤くなるほど体を石鹸で擦りあげ、髪も二度ほど洗い、ようやく腐臭から合成された匂いが移る。そこでようやく風呂から出て、誰にも会わないように部屋に閉じ籠もるのだ。

だが、眠りにつく頃には、少しずつ匂いが戻り始めてしまう。もう、ずいぶん昔からこの匂いがこびりついて離れず、匂いと共に空気が身体を腐らせていた。



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