第七章 暗闇 《前》
――彼らにこの場所は教えていなかった。ここへ連れて来た事も一度も無かったはずだ。
「………………」
俺は放心したまま、彼らを見つめた。
そして――目の前にぶら下がった頭髪が、キラキラと、雪の結晶の様に煌めいているのに気付いた。
気付かぬ内に《例の病》の発作――《結晶化》を起こしていた。
かつてこの組織――《エレメント》が、世界から隔絶する切っ掛けとなった未知の汚染病。病名《停滞結晶化》。その発作を、先程の舌戦で、気付かぬ内に引き起こしていたらしい。
俺達は“汚染された人類”であるが故に、今日まで表の社会から隔絶された環境で生きて来ねばならなかったのだ。
そういえば――それらについて、《世界樹》で事の真相を調べておけば良かったのかもしれない。そんな考えが、今更、脳裏を過ぎった。
思えばこの数日間――いや、数ヶ月間だろうか。俺は肉体こそ“それ程酷使してはいなかった”が、余りに多くの”情報”と、自他含めた“感情”を処理していた。
通常の人間であれば、一人では、そう簡単には処理し切れない程の、膨大な“それら”を処理し続けていた。
自分でもそうと気付かぬ内に、自然と《リミッター》を解除していた可能性がある。
その病は、表の世界では正式名称すら無い、未知の汚染病だ。今でこそ、他の隊員達はその名残を残してはいない。
だが、俺だけは別だった。体中に未知の性質を持つ結晶性神経が張り巡らされている。それは半ば溶け込むかの様にして、脳や細胞内に浸透していた。それらは通常の神経よりも高速で脳からの指令を伝達する性質を持っていた。
人体が危機的状況下に陥った際に、時が緩慢に流れ出し、脳の処理能力や筋力が、百パーセントの能力を発揮する瞬間――それと似た様な状態に、俺は望めば“常時なれる”のだ。
しかもその結晶神経の伝達速度は、通常の神経では到底太刀打ち出来ない程の速度であり、平均化すると約七倍にも達する。通常は約半秒の伝達時間を要するのだが、その七分の一の速度で、指令は下される。その速度は、今もなお、時を追う毎に、徐々に上昇すらしていた。人体が、通常の神経系が、耐えられる限界を超える程に……。
大半は結晶化神経によって命令は伝達されるが、それでも通常の神経系にも負荷を与える。更に、結晶化神経は、酷使すればする程体中に広がり、そして、使用すれば必ず結晶故に砕け、その際に激痛を与える。
一見すると便利なその能力は、諸刃の刃であった。そして、砕けた結晶は、血液中に溶け込み、その濃度が高まれば、血管が詰まる可能性も出て来る。更に、更に言えば、結晶が砕ける事で微細な電気が走り、更に命令伝達速度が早まる性質まである。
それは、ある意味で言えば、使えば使う程に筋力が付く、筋肉と似た性質のものだった。ただ、付けば付く程に、使えば使う程に、痛みは上がって行き、生命が脅かされる部分以外は……
唯一の救いは、その結晶は砕けると、冷却効果を生み出す事だった。それだけの命令伝達と、肉体酷使をすれば、脳や体の熱処理が追い着かないはずだ。
だが、皮肉にも、それら結晶が砕ける事で冷却作用を引き起こし、長時間に渡り《時間感覚緩慢化》+《高速思考》+《反射神経強化》+《筋力全開》+《…………》+《…………》等――《超感覚》での行動が可能になるのである。
ただし、使い過ぎると、今度は体温が下がり過ぎると言うデメリットもあった。
――俺は、仲間達の前にくず折れた……誓ってもいい。俺がこうして倒れたのは、その病のせいなんかでは決してない。
事実、この《能力》は、この数ヶ月で一度も使った覚えはない。先程の発作とて、極一時的なもののはずだ。
一番の痛手は、たった今さっき……一人の少女を更に絶望に追いやってしまった事――それだった。
――仲間達が、慌てて俺の元へと駆け寄って来る。
すぐに彼らは、いつもの治療を、慣れた様に始めた――恐らく彼らは、ここしばらくの俺の行動の変化に、もう大分前から気付いていたのだろう。だからこそ、今ここにいて、そして、こうしてくれているのだろう。
《投薬治療》用の道具を持って来ている事から、それが窺えた。
コートの上半分を脱がされ、黒い長袖がまくられ、腕が消毒される。そして、献滴針が刺される。それは俺用に加工された血液のパックに繋がっていた。それこそが《投薬治療》に使う《薬》だった。
普段から採り貯めていた俺の血液から、可能な限りの結晶を、特殊な方法で取り除き、今改めて俺の体内に戻すのだ。これこそが俺の……《例の病》に対する《投薬治療》の正体だった。
こうすると、体内の結晶濃度が下がり、発作を抑える作用がある。その代わり、幾らかの血液も同時に抜いて、後でそれは特別な透析機械に掛けなければならない。これは体内にある結晶を、少しでも減らす為の手段だった。
「――バカが! 今日は《投薬治療》の日だろうが!」
ハーレンが、こちらの顔を見下ろして叫んでいる。こちらの意識を繋ぎ止める為に、恐らく、力の限り叫んでくれているのだろう。
生憎、意識は朦朧としてはいない。俺は手を振って、無事だと、問題無いと、応じた。
「……大丈夫だ……ハーレン。それよりも、しなければならない事がある」
今更……何をすると言うのだ?――交信は拒絶されたと言うのに……!
「――黙りなさい! 今は何もするな!」
理が俺の両肩を抑え付けて、膝の上から俺の頭を離そうとしない。
先程、倒れ込む様にして両膝を付いた事で、誤解を生んだ様だ。だが、俺は――彼らを乱暴に振り解いて、立ち上がった。
それにより――腕から抜けた針から血が噴き出し、周囲に勢い良く飛び散った……彼らの服に、顔に、赤くも、煌く、液体が降り掛かる。
だが、すぐに、医療関係者がそうするかの様にして、慣れた様に、後頭部に手の平が触れて来る。そのままぽんと軽く、穏やかに、そして自然と、床へと押し倒され、ついでにこちらの両腕を背後で極められて――気付けば……スーに、背中に馬乗りになられていた。
「――隊長。いつもならわたしなんかじゃ絶対に止められないのに……なのに、今はこんなにも隙だらけですね。冷静になって下さい。どうですか? 少しは冷静になりましたか?」
スーはそれ以上何も言わず、すぐに背中から退いて立ち上がった。全てをこちらの自由意志に委ねた――それ故に、効果はてき面だった。
俺の頭は完全に冷え切っていた。正直、今の彼女には、違う意味で勝てそうもない。
今まで機を見計らっていた光が、自身の顔や服に飛び散った血に物怖じすらせず、冷静に、すぐにこちらに駆け寄って来た。速やかに、外れた献滴針をこちらの腕に刺し直そうとする。
さすが――この歳で既に独学で医療の勉強をしているだけの事はある。難無く、こちらも痛みを覚える事も無く、スムーズに針は再び刺し戻された。
俺は立ち上がり、四人に向き直って、頭を直角に下げた。本当なら、土下座をしたい気持ちだった。
「……すまない」
そう言い終えるなり、そのまま、今度はよろよろと、改めて――両膝を付いてしまう。そして、額を床に擦り付けて、震え……あろう事か、声を上げて……泣き始めた……
「……っぅうあああっ! うう……うぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
四人の間に動揺が走った――だが、すぐにそれは引いてゆく。発作による痛みによる叫びではないと、彼らは気付いたのだろう。
四人はそう気付くと、感心な事にすぐ様冷静になり、ハーレンと光は女性二人に俺を託すと、背後のコントロールパネルとディスプレイの方へと行ってしまった。
そこには――今まで俺がして来た事の、無数の痕跡があった。
《第二黄昏隕石群》襲来の研究データ。
《七号機》の事。
《五人》の《メンタルケア》のプランとその経過。
《四人》と《彼女》の行動方針。
そして――《彼女》との数ヶ月間に渡るチャットの履歴。
画面中にそれらは広がっていた。
二人は黙って、それを分担して、一つ、一つ、丁寧に、内容を確認してゆく。
俺は頭部をスーの胸と膝に挟まれて、そのまま抱き締められるまま、そして、背中を理に包まれたまま、声を上げて泣いた。
仲間の前で、初めて、無様に――泣いた。
あの時の事を、今になって、思い出していた――
――今から半年前の事。
自分達の隊は、地上での任務から外され、それに反抗し、地上に上がろうとした。
その結果。俺だけが脱出に成功し、搬送用車両に紛れ込む形で脱出する事に成功した。
四人は俺を先に行かせる為に、身代わりとなる形で身柄を拘束され、規律違反として独房に入れられた。
結局、自分もすぐに連れ戻されるのだが、自分はその際に《例の発作》を起こしており、彼らとは別に、自分用の《特別治療室》に、施設に帰還後、すぐに連行され、そこで深い眠りに就かされた。
自分がそこで目を覚ました頃には既に――世界は滅んでいた。完膚なきまでに。
世界が滅んで、既に十日近くも経過していた……数日間に渡って降り注いでいた《黄昏隕石群》の波は既に過ぎ去っており、次いで、世界は大豪雨に見舞われていた。
目覚めた自分は、《特別治療室》の隔壁を、非常用の手動レバーを起こして開き、無人の、全面が白い光を放つ、セラミック加工が施された廊下へと踊り出た。
そこは、ふとすれば――気が遠くなる程の錯覚を覚える、長さ一千メートル以上にも及ぶ直線通路だった。これは万が一にも《汚染》が拡大しない様、非常時に何重もの隔壁で封じる為の通路だった。
自分は、病人のまとう様な、あるいは、被験者がまとう様な、そんな薄い白衣をまとったまま、そこを一人……進んだ。
白い廊下を、白い髪をした、白い服を着た、白い肌の、白い自分が進んでゆく……――
まだこの時は――外の世界の在り様と、そして、仲間の置かれた過酷な状況について、自分は何も知らなかった。




