第五章 反転 《前》
《黄昏隕石群》襲来から三週間以上が経過した頃、地上の生存者である“彼女”との交信が始まった。
四人の隊員達とは別に、彼女の《メンタルケア》のプランも、速やかに立てなければならなくなった。
肉体労働を四人に任せて、その代わりにほとんどの頭脳労働を俺が担う事で、《仲間達》との連携は上手く行っていた。今の所、俺が楽をしていると、その様な事を思われている事も無く、彼らは以前と変わらない――いや、取り分け明るい態度で接してくれている。
こんな疑いや不安を抱く事自体、間違いであるのかもしれない。教官として、上官として、そして仲間として、仲間を疑っては駄目だ。それにすぐに気付き、思考を本来考えるべき事柄へと戻す。
彼女には、直接触れて、直接面倒を看て、《メンタルケア》を施す事が出来ない。
恥も外聞も無く、もし許されるのなら、エロスとは関係無く、彼女に直接触れて、包み込む様にして癒して上げる事こそが最上策なのだが。だが、それが出来るのは、恐らく身内くらいのものだろう。何より、俺は彼女のそばに居ない。すぐに行く事も出来ない。
今この場を離れると、四人を残して行く事になる。仮に連れて行くにしても、外の世界の状態の情報も不足している。移動手段だって、現状、何も無い。もし彼女の元へ行くとすれば、入念な下準備と、何らかの乗り物が必要だ。その計画を立てるだけでも、それなりに多くの時が必要なはずだ。
隕石落下による海面上昇と、舞い上がった粉塵によって起こった豪雨によって、更に引き起こされたあらゆる水害。隕石によって生じた無数のクレーターや瓦礫。そう言った障害もある。車両では、通行不可能な場所だってきっとあるはずだ。
空の上の人々の猶予は――一年と半年余り。
地上に取り残された人々の猶予は――現在調査中。生存数があまりにも絶望的であれば、この調査はあまり意味が無いかもしれない。
四人の仲間を、ただ導くだけに集中するべきなのかもしれない――だが、それは出来ない。せめて今は、画面の向こうにいる一人だけでも救わねばならない。途中で彼女を放棄する事は、許されない。一度“接触”した以上は、責任を持って救わねばならない。これは俺の使命だ。
仲間四人が幾らか回復した現状に到るまでの経過をサンプルとし、その四つのサンプルを更に基にして、彼女には最大限の治療を施して上げたい。
最近の仲間達には、本当に感謝しなければならない。俺は今、ほとんど、時間を割いて彼らと行動を共にしてやれていない。だが、彼らは根が素直な性質だからこそ、自分達だけでも、真っ直ぐに行動してくれている。こちらの指示に素直に従ってくれている。
やはり、優先するべきは彼女の方だった。約一月前の四人よりも、更に深く傷付いていて、かつ、遠く離れてチャットする方法でしか“触れ合えない”彼女……。
この治療には、本腰を入れて、誠心誠意勤め、全力で当たらなければならない。
今はとにかく、少しでも話す時間を作るより他無い。かつ、食料を生み出す環境も、こちらが指示する形で、彼女自身の力でどうにかさせてやるしかない。
思わず、両手で額を押さえる。頭痛がするわけではない。目眩がするわけでもない。ただ、どうしようもなかった。
二日目の会話が、後もう少しで始まる――まだ明確な方針も、答えも、出せていないのに……
『今ある食料、飲み物を、出来るだけ詳しく述べてくれ。』
それは、ともすれば、現実を突き付ける、残酷な質問だった。けれども、前に進まねばならない。苦渋の決断。
『ジャガイモが十五個かな?
バナナはもうないね
水の残りは確認してないけど
給水タンクのを使ってる
最近水の出る勢いが悪いから
もうじきなくなるかもしれない』
思った以上に深刻だった――だが、悩んでいる暇は無い。会話が止まると、それだけで良くない。こちらが悩んでいる事を悟られる事に繋がる。もしそうなれば、それは何よりも、相対する者を傷付ける事になってしまう。
『なら大丈夫だ。問題無い。』
俺は無責任に、何の確証も無く、そう言っていた。それと同時、その発言に対し、俺は、命を掛けて、責任を果たす事を、何よりも自分に対して誓う。もう、後戻りは出来ない。
『次に君の周辺環境について教えてくれ。』
『住んでる建物は山の上にあるんだけどね
街が水没してるのが見えるよ
この山もね
山の中腹よりもう少し上ぐらいまでのところまで水がきてるよ
雨が止んだらもう少し水位が上がってるかもしれない
それは海水だから飲み水には使えないんだ
たまにそこで水浴びしてる
でもずっと雨だから滅多に行かないよ
水ももう残り少ないから
体ももう拭かない方がいいかも
頂上の建物の周りには木しかないよ
食べれる物がなる木じゃないしね
あとね
家の裏にバナナの木がある
でも前に実は全部食べちゃってる
雨の外に出るのは大変だから最近見にいってないけど』
これは朗報だった。雨で根腐りし、枯れていない事を祈る。
『大切な事だから、申し訳ないが、頼みたい事がある。』
雨が降る外へ出ろ――自分はそう続けなければならない。ただでさえ、心が冷え切っているはずの彼女に対し。
『そんなおおげさな
いいよ
なんでもしてあげる
悩んでないでなんでもいってよ
わたしにできることならなんでもするから』
俺はふと気付く――思考が穏やかになり、そして、全身がまるで真綿に包まれているかの様な、そんな錯覚に陥る。
救われているのは、癒されているのは、もしかすれば俺の方なのではないだろうか。
『外へ出て、バナナの木を幾つか根っ子ごと抜いて来るんだ。それを何かシートの様な物で土ごと包めるか、大きな植木鉢みたいな物で、きちんと土に植えた状態にして、屋内に移動させるんだ。』
バナナは種で増える植物ではない。バナナは、根っ子の脇から新たに子株が生える事で、それが新たな木へと成長し、種を存続させる。
この子株さえ無事であれば、幾らでも増やせる。だが、何より、今きちんと成長している木を守る事も大切だ。悠長に育つのを待っている猶予は、彼女には無い。
ジャガイモもまた、バナナとある意味で似た増え方をすると言える。ジャガイモは根菜類である。ジャガイモ自体が根であり、種でもあり、実でもあると言えた。ジャガイモは芽から根を広げ、そして新たな実を付け、そうしてまた増えて行く。
十五個のジャガイモも、上手く節約すれば――
『わかった
ええとね
建物の裏の外に
屋根付きの物置みたいな場所があるから
そこにおくね
それじゃ行ってきます』
何も文句も言わず、疑問すら返さず、彼女は素直に従った。
手伝えない事が歯痒い。悔しい。口惜しい……
約一時間後――彼女から送信があった。
『いいもの見つけたよ
バナナの木を掘り返してるとね
ジャガイモも出て来たんだ
他のところにも
まだまだたくさんあるみたい
見つけたのはそっちのお陰だよ
ほんとうにありがとう』
俺は唇を噛み締めて、熱くなる目頭を押さえた――『なら大丈夫だ。問題無い。』――先程何の保証も無く断言した言葉の重みが、するりと抜け落ちた。
それは想像以上に、実感していた以上に、至極、重たいものだった様だ。
まだしてもらう事はある。山ほど。厳しくも、はっきりと伝えねばならない。
『海へ行くんだ。恐らく今の君は、塩分不足により、カリウム中毒になる危険性がある。海水から、塩と蒸留水を作るんだ。先ずは海水を汲んで来るんだ。そういえば、火は大丈夫なのか?』
しまった――火があるか無いか。この世の在り様を鑑みるに、生存者に気安く尋ねて良い事ではない。俺は彼女を余計に、精神的に追い込むつもりか――
『大丈夫
バッテリーがあってね
電気式の湯沸し機とか
コンロみたいなのがあるんだ
今はそれでどうにかしてるよ
いつまで持つかわからないけど
いつか晴れたらソーラーパネルもあるし
充電もできるよ
後ね
その湯沸し機
おなべを置いて保温とかしておくのにも使えるやつなんだけど
少し大きめのナベくらいなら余裕でその上に置いておけるし
お湯も百度までなら沸かせるよ
安全機能付きだから放置してても大丈夫
そういえば言ってなかったけど
うちには理科室みたいな部屋があってね
元々診療所だったんだけど
調剤用の道具がそろってるんだ』
俺はその時気付いた――これは奇跡や幸運なんかではない。《彼》が、事前に、《彼女》の為に準備していた環境だと。
俺はその時、自然と立ち上がっていた。彼女の純真さと、それを今日まで育くみ、守ろうとした“偉大な人物”に対し――深く、深く、頭を下げた……。
――俺の力など、些細なものだ。俺が出来るのは、人一倍考えて、単に指示するだけだ。そして、彼女を“仮初”にも、“孤独”にさせない事だ。
交信終了後、本日彼女にして貰った事を文章にまとめておく。
『バナナの木の保護(残りは後日継続して行う)。
群生していたジャガイモの発見(向こう二ヶ月は持つ程の量)。
飲料水と塩の精製(継続して精製を要す)。
貯水タンクの残量確認(約三百リットル※風呂一杯未満)。
バッテリー残量の確認。まだ一月は持つ程度の量(工具箱に残電量を調べる器具あり。これは後々、何らかの機械を修理する際に、電圧を調べるのにも使える。留意)。
工具箱の中身(未確認。後日確認。留意)。
ソーラーパネルを所持(晴れてからすぐに設置を指示する事。留意)。
家電により火の代替品あり(電気を絶やさない様に留意)。』
――気付けば、もうじき夕食の時間だった。だが、今日はまだ残業がある。
今日だけでも、彼女について多くの情報を得られた。これからすぐに、明日の方針を考えねばならない。
何を最大の優先事項とし、明日から彼女を動かすか。そして、どの様に癒すか。
それを考え続けた。
『ハロー
あれ?
まだきてないかな』
今日は彼女から通信が始まっていた。
『さびしーよー
まだかなー?
なー
なー』
一見微笑ましく映る、それら文字の羅列。だが、俺はその本質を見抜いていた。
『遅くなってすまない。明日からはもっと早くから話す様にしよう。』
『うわっ
恥ずかしいなっ
一人で遊んでたの見られちゃった』
恥ずかしくなんてない。普通の事だ――その言葉で、その反応で、彼女の孤独と、心の痛みが、こちらにも伝わって来る気がした。
『あのね
昨日少しだけできた塩でジャガイモ食べたけど苦いね
でもすごくおいしいよ
自分で作ったからかな』
それは体が欲していたからだろう。体は、その栄養素が体内で枯渇していれば、無味の食べ物でも、あるいは、塩にすら“甘さ”を覚えるものだ。
『バナナの実はね
やっぱり雨で腐ってたよ
食べられないね
腐る前に回収しておけばよかった』
『根が無事なら問題無い。いつか山ほど食べられる。今は根っ子の世話だけして、腐った実は潰して土に植え、堆肥にでもしておけばいい。』
彼女は幾らかの空白を空けて、言った。
『なんかいろいろ詳しいね』
この質問はこちらに、あるいは双方に、何らかの揺さぶりを生じさせるものだ。動じてはならない。これにはきちんと、冷静に、正直に答えられる。
『俺にはサバイバルの経験があるんだ。』
それは嘘ではない。事実だ。仲間と訓練した頃の事を、少しだけ思い出す。
『なるほどね
ねえ
そういえば
今日もバナナの木を取りに行くの?
海水も?』
これは気付きにくいが、無意味な質問だ。この質問の裏には、彼女がそれらの事をしたくはない、何らかの理由がある事が窺えた。
『風邪をひいているな? 無理をしないでいい。すまない。昨日は雨の中、無理をさせてしまった。』
よくよく考えれば、弱った体で何をさせているんだ俺は――だが、どの道、食料を確保しなければ、更に体は――堂々巡りに陥っていると、彼女の返信が来た。
『気にしないでよ
わたしのために言ってくれたんだってわかってるから
謝られたら困るよ
むしろわたし感謝してるんだよ?
なんかごめんね』
――謝らなくていいんだ……君は何も悪くない……。
『すまない。君こそ謝らないでくれ。つまり、この場合は、どちらも悪くないんだろう。』
こちらが悪い事にしてしまえば、悪くないとされた向こう側が、罪悪感で傷付いてしまう。
今はこんな些細な事柄でも、彼女を傷付けてはならない。それならばせめて、共に責任を負い、共に傷を分かち合う事が、向こうにとっても、最小限の心傷で済む事に繋がる。
『でもね
やっぱり行くよ
だって
病気ならなおさらちゃんと食べないとね
ちゃんと寝て汗かかないとね
だから塩もとらないとね』
奥歯がぎしりと音を立てた――苦渋の決断だった。
『よし。ならば、今日はバナナの木を一本と、海水を汲みに行くのは一度だけで良い。残りは精製作業をしながら、こうして話していよう。横になりながら、その際に、精製の番もすればいい。そういえば、パソコンは床に置いて使えるのか?』
『お父さんのノートパソコンなんだ
ゲームとか入ってたらよかったのにな』
インターネットに繋がないのか?――そう送信しそうになり、俺は自分の顔に張り手をした。それは絶対に言ってはいけない事だ。
彼女の一言、一言に。そして、彼女が口には出さない単語のその裏に、彼女の深い傷が垣間見られる。
俺とそう歳も変わらないこの少女の中に、はたしてどれだけの深い闇と、そして、四人の仲間達が負った以上の傷が刻まれているのだろう……。
『行ってきます』
俺はその後すぐ、彼女と交信を始めてから、初めて、彼女の内部に踏み込んだ――インターネットに繋ぐ。
「――――…………っ」
――酷いものだった。もし電子の世界にも地獄があるのならば、ここがそうだろう……これ以上、上手く言い表す言葉が思い当たらない。
彼女は精神的に犯され尽くしていた。大事な人の尊厳と、自らの精神性の全てを。
やがて――彼女が外での作業を終えて戻って来た。
『終わったよ
今海水を沸騰させて蒸留してるところ』
二行しかない文章を見て、彼女の疲労と、具合の悪さを悟る。
『よし。ならば俺は、これから君が好きな事を話そう。』
再び俺は、自分の顔を、今度は殴り付けた――そして、拳を握り締め、手の平に爪を突き立てた。今度は、過ちに気付く前に送信してしまっていた。
もしかすれば、今の言葉は、彼女が咄嗟に思い浮かべた、“好きなもの”から、更なる傷を呼び起こす事に繋がり、更に追い込む要因になりえたからだ。
“好きなもの”を――“愛するもの”を、汚される事程、傷付く事は無いのだから……
「――ああああああっ! あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!!!」
俺は叫んだ――俺はこんなにも無神経な人間だったのか。
かつての世にいた《メンタルケア》の専門家達は、日夜こんな思いを抱えながら、その職務に従事していたのか。
《世界樹》から聞きかじっただけの素人。幾ら指導教官とはいえ、プロではない俺が、はたして、踏み込んでも良い境地だったのだろうか。
だが――彼女は言った。
『ほんと?
いいの?
忙しくないの?
わたしの相手してていいの?』
俺はすぐに送信した。
『今日はこちらも他にする事が無い。良ければ付き合ってくれ。』
嘘ではない――今は“これ以外にする事は無い”のだから。
『じゃあ
ずっと声をかけてよ
文章で
頑張れ~って
元気出せ~って
横になりながらそれ見てるよ
そっちは面倒くさいかもしれないけど
いいかな?』
何て簡単な事だろう――こちらの顔が見えないのは幸いだった。
俺は恐らく今、顔をクシャクシャにして、泣くのを堪えていただろうから。泣きながら患者を診るセラピストなんて、それこそ失格も良い所だった。
早く雨が止めば良い――そうすれば、きっと何かが変わる。漠然と、そう思えた。
もし今すぐに雨が止む方法があるならば、俺はその代価として、残りの寿命を全て捧げても良いとすら思っていた。
だが、そうしては、彼女とこうして話せなくなる。導いてやれなくなる。何て馬鹿な事をと思い至り――俺は一人、苦笑した。本当に、苦い味のする、笑いだった……
『俺がそばにいる。早く元気になってくれ。そうすると俺は嬉しい。君が元気になるまでずっとそばにいる。君が元気になってもそばにいる。俺に出来る事なら何でもする。今は頑張らなくていい。さっき外で仕事して頑張ったんだから。今は休んでいれば良い。偉いぞ。よく頑張った。君は立派だ。だから早く良くなってくれ。君が元気だと俺も嬉しいから。早く元気になれ。早く元気になってくれ。そうしたら俺は本当に嬉しい。だから早く元気になるんだ。実は君が喜びそうな事を色々考えているんだ。元気になったらそれを教えよう。だから今は体を休めるんだ。こうして横になっていると良い。そうだ。子守唄を歌って上げたい。いや、上げたいけれど、文章だけでも伝わるだろうか。でも、俺も今日はここにずっといるから――』
嘘ではない。たった今決めた事だから。俺は君が元気になるまでここを離れない――返信があった。
『うん
歌って』
『わかった。君が知らない初めて聞く曲だけれども、それでも良いのなら歌おう――』
――その歌は、《エレメント》の創設者の作った歌だった。
『
我ら流れゆく川のごとくありたもう
うつろいゆく流れのなかにありながらも
灰色のうつしよのなかにありながらも
いつかはその流れに身をもどそう
大地をぬけた透明なる水のごとく
まわりめぐる水のごとくありたもう
火にかけられ温もりをもつ水のごとく
風がまとう清涼なる水のごとくありたもう
やがてはその流れのなかに身をもどそう
そしてまた灰色に染まろうとも
いつしか大海にたどりつき
いつしか高空へと舞いあがり
いつしか雨となって降りそそごう
我が樹のもとへと降りそそごう
母なる日のさす樹のもとへ
母なる羽がやすまるその樹のもとへ
輝く水よ舞いもどれ
』




