第八章 暗闇 《後》
白い廊下を抜けると、そこは暗闇だった。
暗い施設内を探索し、自分達が普段生活していた階層に辿り着いた頃には、数時間が経過していた。施設内は非常灯すらもほとんど機能していない有り様であった。
非常電源を入れながら見て回ったものの、それでも明かりは付かない事が多く、探索は難儀した。
途中見付けた、どうにか稼動する端末の一台から情報を検索した。先ず検索したのは――仲間達の居場所。
それはすぐに出て来た。彼らはここより一つ下の階層の、とある一区画にある、独房室に入れられていた。
懲罰期間がまだ切れていないはずの違反者である自分に、未だ端末の使用権限がある事からも判る通り、超非常事態である事は明白であった。
仲間の居場所へは、最短ルートで向かう事が出来た為、すぐに辿り着けた。
――部屋の前に立っていても、人の体内から出る、あらゆる老廃物の混じったすえた臭いが感じられた。思わず顔をしかめてしまいそうな、そんな激臭が鼻腔の奥まで満たされる。
それが……――彼らがここにいる事を如実に物語っていた。
先ずは一番手前側から、手動レバーを引き起こし、力の限り開く。
昏睡中も機械仕掛けの点滴により、栄養補給が十分になされていた。どうにか力はそれなりに出る。多少頭がクラクラするが、それは久方振りに体を動かしているせいであろう。恐らく問題は無いはずだ。
開くと――一つ目の部屋にいたのはスーだった。
彼女は、白い薄手の上下をまとい、普段の可憐な姿からは想像出来ない程の汚れと……酷い悪臭をまとっていた。
独房室に備え付けられている端末から、それから漏れる明かりに照らされ、暗闇の中、浮かび上がる形で、壁を背に、首を右に大きく傾けて、まるで力尽きるかの様にして、彼女は茫然自失としていた……
端末の画面には、黒い雨雲と、濁った水面に大豪雨が降り注ぐ映像が流れていた。それだけが……いつまでも見えた――
自分はスーの呼吸があるのを確認すると、彼女がこうなった原因を探る為、端末に触れ――高速逆再生機能のカーソルバーをクリックした。
見る見る――雨粒が上昇し、黒い雲は去り、津波は引いてゆき、粉塵は地に降り注いで落ち着き、赤熱した隕石群は空へと舞い戻り、瓦礫やクレーターは修復されて赤く砕けた人々が再生してゆき――自分はディスプレイに拳を叩き込んだ。
「――糞がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
端末のディスプレイがひび割れても、映像はいつまでも流れ続けた……
――何故この区画の、よりによって独房室の端末だけが生き残っている……!
外部の景色を見る事で《リフレッシュ》する事と、万が一の急病等を知らせる為の端末だった……だが、それが裏目に出た。
彼らはこの十日近くを、この暗い独房の中で、孤独に、世界が滅び行く様を、地下でありながらも“はっきりと”見続けていたのだ……――
――四人を、当面の拠点とする事に決めた広間に運び終えた頃には、自分は疲れ果てていた。
そこは、かつて自分達が過ごしていた階層の区画にある、中央広間だった。
疲労はしている。けれども、不思議と、少なくとも体はまだまだ動かせた。頭が、かつて無い程に高揚していたからだ。
彼ら四人は、あの閉塞した暗い環境の中で、世界が滅びゆく様を直に見ていた。
逆に、自分はその数日間を、眠りに就く事で運良く回避した。
だからこそ、彼らを見てショックを受けつつも、それにより幾らか冷静になれた。その上で、ある程度緩和される形で重たい現実を知る事が出来たからこそ、この厳しい現実を、こうして冷静に受け止める事が出来たのだ。重たい現実を、ほんの一瞬で知ったからこそ、傷は浅く済んだのだ……
だからこそ、五人の中で、比較的……いや、違う――唯一、まともに動けるのだ。
とにかく、自分は彼らの面倒を看なければならない。自分がそれをせねばならない。副隊長、指導教官、仲間……それとは関係無く――“ただの人である自分”が、“今この場で動ける自分”が、彼らを“全力で守る”しかない。
――食事。
――一人目。
一番弱っていたスーから始める。
薄いコンソメ味に仕上げた米だけのリゾットを、彼女の口の前に運ぶ。
スーはこちらの顔を見る事も無く、そして、喋る事と食べる事、二つの意味で、口にする事をしない。いや、恐らく、そんな簡単な事ですら、もう出来ないのだろう……
「………………」
自分は、どうするべきか、本気で考えあぐねた。
「――生きてくれ」
だが自然と――そう呟いていた。
すると、彼女は、か細い声を出した。
「ぃ…………りま……せ…………ん……――」
彼女の口元に半ば耳を接触させ、そこまでしてようやく、どうにかそれだけを聞き取れた。
「――生きてくれ」
自分は彼女を――自然と抱き締めていた。胸に彼女の頭を掻き抱いて、懇願していた。
「――生きてくれ」
彼女は三口だけ、どうにか食べた。
――二人目。
悩んだが、理から与える事にした。
「……死なせて……」
これが、あの奔放な少女の出す声なのか?――足元が崩れる錯覚。
「――弟を残して死ぬな。光はまだ生きている。生きろ」
彼女が掠れた声で拒否する度、弱々しく頭を振る度、抵抗とも言えない程のか弱い抵抗をする度、弟の名前を出して、無理矢理食べさせた。
五口、どうにか与えられた。
――三人目。
光。
「………………」
床から視線を反らさない少年に、自分は言葉を掛ける。厳しくも、穏やかに。
「――姉の為に生きろ。早くお前が力になってやれ。今は無理をしなくてもいい。自分が代わりに守っていてやる。だが、いつかはお前にその役目を返す。お前は姉の為に生きる努力をしなければならない」
光は、ポロポロと、嗚咽すらせず、涙を流し始めた。
泣いているせいで、えづくのか、食事は思う様に進まなかった。それでも、吐き戻した分を除いても、自らの意思で、三口、食べてくれた。
――四人目。
ハーレン。
一番体力のある彼を、一番後回しにした。どの道、彼は最年長である事から、男性である事から、群れの為に、物理的に、肉体的に、時として精神的に、いつも一番損な役目を負う事を、自らの信条としていた。だからこれでいい。
「――ハーレン。いつものお前はどうした。お前よりも弱い奴らがまだ“四人”も生き残っている。スーはお前が死ぬとそのショックで死んでしまうぞ? 理と光だってそうだ。命令だ。生きろ。自分の感情を殺せ。仲間の為に生きろ」
ハーレンは、腕を、どうにか上げようとするも、思う様に上がらないらしく、ペシャリと、床に落とす。涙を止める程の力も入らないのか、彼の目尻から流れる二つの水の線は、いつまでも止まらない。
「――安心しろ。自分もお前の手伝いをする。自分は全力で、お前も、みんなも、守る。今は休んでいればいいんだ。それでいいんだ。無理に頑張らなくていい。ただ、これだけは、守れ――仲間の為に生きろ」
彼は吐き気を堪えながらも、カップ一杯分を完食した。
――入浴。
ただでさえほとんどない広間の明かりを、完全に落として、男女関係無く、自分が“全て”面倒を看た。
人が半身を浸かれる程度の深さと大きさの容器を見付けて来て、それにお湯を満たした頃には、食事から二時間が経過していた。
――一人目はスー。
何もかも優先するべきは、この少女だった。
彼女は隊の精神的要だ。性格の良い、誰とでも人当たりの良い彼女は、仲間の中で、生命的には、一番弱い存在だった。女性で、小柄で、非力で、そして取り分け優しいからこそ、いつだって人の事を気に掛けてしまうからこそ……一番の致命傷を負っていた。
「――明かりは付けていないから心配するな。嫌ならば抵抗してくれても構わない」
――むしろしてくれ。
だが、項垂れたまま、されるがまま、体を“男”の自分に洗われるスー。一枚も衣類をまとっていないのに、羞恥する事すらしない。
「――生きてくれ」
隊員の中で、一番長いその髪をそっと洗いながら、自分は、幾度も、ゆっくりと、そう言い聞かせた。
――二人目は理。
「――明かりは付けていないから見えない。安心しろ……――抵抗しないのか?」
――早くこちらの顔に拳を振るえ。爪を突き立てろ。罵倒しろ。
だが、抵抗する力も気力も湧かないのか、ただ、じっとしている理。
別の意味での医療行為、人工呼吸以外で、異性の体にこんなにも密に触れ、それを直接見る事――それは、こんなにも苦痛な事だったのか……
暗闇ではっきりとは見えこそしないものの、いざその事態に直面してみると、性欲が欠片も湧かない所か、まともに直視しようとすら思えない。ただ、ただ……罪悪感に押し潰されそうになる。
二人とも、人並み以上に魅力的な女性のはずなのに――こんな事が幸運なものか……嬉しいものか!
理のポニーテールを解いて、その髪を洗い始める。
「――早く元気にならなければ、その内光にさせる……スーはハーレンにでもさせようかと考えている。そんな事、お前は許せないだろ……?」
――怒りでも良い、憎しみでも良い。自分を嫌って、金輪際口を利かなくなってくれても構わない。
ただ、ただ……――
「――生きてくれ」
――三人目は光。
同性なので大分気が楽だ。
「――理に頼んでおいた。お前が元気になるまで、こうして入浴の面倒を看てくれる様に」
羞恥心と怒りからの奮起を期待したが……無反応だった。
――四人目はハーレン。
同性であるが故に、かえって、彼は少しの抵抗を見せた。
「――今は良い。慌てるんじゃない。今は力を蓄え、後で幾らでも自分に文句を言えば良い。後で幾らでも自分を殴ればいい」
――殺されても構わない。
――就寝。
正直……疲労困憊だった。たった一日で、精神的にも、肉体的にも……ガタガタだった。
気付けば、自分の食事すらまだしていなかった。だが、どうでもいい……自分の事はどうでもいい……――いや、冷静になれ。自分がすぐに潰れては、元も子も無い。
残っていた、もうすっかり温くなってしまったリゾットをかき込んで、それを本日の最初で最後の食事とする。
自分は――力無く、壁を背にして座り込む四人を見渡した。
これから、彼らを眠らせなければならない。その際、四人に睡眠薬を注射し、四人の睡眠サイクルを同期させる必要があった。これは、彼らが勝手に放浪したり、あるいは“自殺”したりしない様に、一箇所に集めて置き、ばらけさせない様にする為の手段だった。
自分は明日から、五人の中で誰よりも早く起きて、最も遅くに寝なければならない。そして、一人で全力で動かなければならない。
彼らが寝ている間に、食事の用意と、着替えの用意と、他、あらゆる用意をしなければならない。彼らが起きている間は、“一時たりともそばを離れてはいけない”からだ。
……そうだ――思考をしていては、作業が進まない。とにかく、今とりあえずは、眠らせ方を考えよう。
先ずはそれを思い付いた――姉である理に、弟の光を胸に抱かせる。そして、ハーレンの胸にスーを抱かせる。二組それぞれ、両手をそれぞれ互いに握らせ合う。そうして人の温もりに触れさせながら寝かせる事にしよう。これは今だからこそ、非常時だからこそ、許される行為だ。
理に、光を背後から抱かせる形で、横にならせる。次に、ハーレンにスーを背後から抱かせる形で、横にならせる。
その形を整えてから、用意していた四本の注射器で、四人の腕に薬を打ち込んでゆく。睡眠薬と、幾らかのブドウ糖液を一緒にした物だ。
誰も嫌がらず、素直に刺された。それ以前に、抵抗する気力も体力も今は無いのだろう。
これで後、約十時間は、皆、眠りに就くはずだ。きちんと彼らのカルテのデータを参照した上での投薬量に調整してあるから、それ程バラバラの時間帯に起きる事は無いはずだ。これで明日の昼までは、四人は目を覚まさないはずだ。
――二日目。
何もしていない時は、皆を床に座らせ、理に光を抱かせて、ハーレンか自分がスーを抱き締めて、人の温もりを絶やさぬ様に留意した。
――三日目。
変化は無い。
――四日目。
変化は無い。
――五日目。
ハーレンが自分で食事と入浴を出来る様になる。自主的に、入浴以外のスーの面倒を看る事を買って出る。だが、無理をさせてはいけない。あくまで少し手伝わせるだけだ。
傷付いた者に触れているだけで、新たな傷を負ってしまうからだ。
彼の心の傷がぶり返さぬ様に、可能な限り、こちらがしなければならない。
だが、自分は安堵していた。
隊内で一番の年長者で、腕力と体力が最もある彼が復帰してくれたのだ――これ程心強い事は無い。
――六日目。
理がハーレンの姿を見て、幾らかの気力を取り戻す。スーの入浴の世話だけは、どうにかこなしてみせると自ら言った。素直にお願いした。
――七日目。
理がスーの入浴の世話をしているシルエットを遠くから見て、光は目に生気を取り戻す。食べる量が、また少しだけ増えた。
体が未成熟で、体力も無いが故に、まだ回復には幾らか時間が掛かるだろう。だが、幼いと言う事は、最も生命力があると言う事でもある。
文字通り、姉を支えられる日も近いだろう。
――八日目。
先日と比べて大きく変化無し。
――九日目。
光が復帰。ハーレン同様、簡単な手伝いだけを任せる。
――十日目。
スーにだけ一切の変化が無い……
――十一日目。
寝ている時も含め、スーに対し、随時、自分も含めた四人に、常に触れさせるか、抱き締めさせるか、話し掛けさせるかし続けた。
抱き締める行為。一番それを担ったのは理だった。二番目が自分だった。ハーレンと光は頭を振って辞退した。男性隊員二人は、自分達よりも、最初から面倒を看続けた《自分》との距離が一番近いはずだと言った。自分達では駄目だと断言した。彼女の身に、抱き締める程に触れて良い資格と信頼を持つのは《自分》だけだと言った。
また、理曰く、今日まで一番面倒を看た《自分》が、隊長である《自分》が、そして、異性である《自分》がそうする方が一番効果があると言った。女の私じゃ限界があると言った。三名の男性の中で、一番甘えられるのは《あんた》だと、そう言った。
理を、自分と光とで挟む形で、何度か抱き締めていた事もあった。その経験から、彼女はその答えを導き出したらしい。
子が母親からそうされて安堵を覚える様に、時として、女性は男性に触れられていた方が安息を得る場合がある。だが、父親よりも、母親がそうした方が癒す効果が高い事の方が多い。事実、そういう研究結果だってあるのだから。
だが、この中には親を持つ者はいない。確かに、時として、異性がそうする事で、癒す必要がある場合もあるのだろう……最初の頃が、正にそれだった。
義理とはいえ、理と光の絆の強さは《本物以上》である事は否めない。この十一日間を、互いに触れ合っていたからこそ、二人共ここまで早く元気になれたのだ。“家族”であるが故に。そして“異性”であるが故に。
ならば、自分はスーの何にだってなろう。家族にだって、他の何にだってなってやろう――
「――スー。生きてくれ。お前が元気だと自分は嬉しい。お前が元気だと自分も頑張れる。お前が居ないと自分は生きていけない……みんなもそうだ。そう思っている。早く元気になってくれ。早く自分を、いや、みんなを支えてやってくれ……」
彼女の両手を取って、まるで告白するかの様にして――そう言った。
スーはようやく――顔をクシャクシャにして、グスグスと泣きながら、その日、初めて……“はっきりと”声を出した。
「――はい……隊長……」
彼女は薄く口を開いて、微かな笑みの形にし、そう呟いた……――
――十四日目。
皆がどうにかまともな生気を幾らか取り戻した。だが、今度は、冷静に、重たい現実を受け止めなければならなくなる。
なまじ、幾らかの健康を取り戻し、自由にある程度動き回れる状態になった今だからこそ、一番危うい。
四人共、手持ち無沙汰に、何かを考え込む事が多くなっている。食事をしていても、砂を噛んでいるかの様な顔をして、なかなか飲み込まない。
これは自殺を考えている傾向だ。素直に食べ物を飲み下せないのも、食事をする事に罪悪感を抱いてしまっているからだ。
――自分はその日、地下を目指す事にした。
あまり《その方面》のデータが記憶されていない端末からの情報だけでは、まともな治療のプランや、行動方針を考える事も出来ない。何より、そんな寄せ集めの知識だけでは、これ以上の《メンタルケア》は不可能だった。
《エレメント》の隊員の多くは、隕石群襲来の際に、何らかの目的で外界へと出て行っているはずだ。恐らく、彼らはもう“帰っては来ない”だろう。
だが、全員は出て行っていないはずだ。ならば――残りはどこへ?
恐らくあそこだろう……――この組織で、人命以外に一番重要な《物》――超弩級性能コンピューター《世界樹》――そこに彼らはいるのだろう。
この二週間、四人の仲間以外、誰も見なかった。恐らくここより更に下の階層で、全員が駆り出される程の“何か”があったのだ……
――自分はこれからそこに向かわねばならない。