3)温泉話
徹は可奈に最近の学校の様子について話してくれるようせがまれた。特に景山夏子について聞きたがった。夏子は可奈の親友である。徹は夏子が毎日放課後に、可奈の家に見舞いに行っていると話した。可奈は時折複雑な表情を見せた。徹は同級生の話題やこの一ヶ月の話をすると、可奈は「そうだったわね」と懐かしそうに相槌を打った。
一段落ついたところで、可奈は戸棚の上に置いてあったもう一つのランタンをテーブルの上に置くと、灯りの灯っていたランタンから種火をとってそれを移した。「ちょっとお湯に浸かってきます」と言い残し、着替えらしい服と手桶とランタンを持って家の外へ出ていった。徹はその後ろ姿を見送った。
「外に風呂があるのか?」
「風呂じゃなく温泉だ。この国では至る所で温泉が湧いている」
クマ夫はそう説明すると、壁際に置いてある衣装箪笥の中から浴衣と帯、肌着と下着と手拭いを取りテーブルの上に置き、入り口横に置いてある下駄箱から下駄を取り出し徹に渡した。
部屋の中の雰囲気は、随分前のヨーロッパの庶民の家を再現している。ただ、浴衣とか下駄とか箸とか、そんなところは日本での生活と同じで和洋折衷と言ったところだろう。
「その服は可奈が縫ったんだぜ」
服とは机に置かれた浴衣などのことだ。
「可奈は今日、それに掛かりっきりだったろうな。俺はお前を探し回っていたから、作業している姿は見ちゃいないが、なにせ急な来客だ。この村にはお前のような体格の人物はいないから、借りることもできかなかった」
徹は机の上に置かれた衣服の中から、トランクスの形状をした下着を手にとって確かめる。工場で大量生産したものと違い、無地で地味だが、縫い目はミシンに負けないぐらい細やかで、肌触りも心地よく、彼女の手の温もりが伝わってきそうな感じだ。これもノートに記されたキャラクター設定のとおりになっている。
クマ夫は説明をした。これらに使われている生地は村で生産されている。主食のパンの材料となる小麦や野菜類などともに綿花も栽培され、村のはずれにある機織り小屋で木綿生地が織られる。村単位の家内制手工業といえばいいのだろうか。貴重な現金収入なのだ。
徹は食事前の可奈の発言を思い起こしポツリと呟いた。
「佐藤は元の世界に帰れるようなこと言ったよな?」
「ああ、たしかにそんなこと言った気もするな」
クマ夫の返事もやや曖昧であった。徹のしゃべりに力が入る。
「じゃあ、やっぱり帰る方法があるんだよな」
彼は手のひらをテーブルに広げクマ夫の方に向き直す。クマ夫の添に対し困った表情をする。
「だから俺は知らないと言っただろう。なぜ可奈に聞かなかったのか?」
「佐藤もここへ来てもう四年になるのなら、帰る方法があれば帰るだろう。彼女も帰りたいと思ったことあるはずだ。すぐに帰れない理由でもあるんじゃないかって思ったんだ。それに……」
「それに?」
「そしそうなら佐藤は四年間も辛抱してるし、今日来た俺が帰りたいと言い出すのは少し大人気ないと思ったからだ。彼女の嬉しそうな顔を見てたらなんか聞きそびれた……」
徹の力の抜けていく姿をクマ夫は見逃さなかった。
「ふ~ん。まだガキのくせに」
徹はその言葉に過剰に反応した。勢い良く椅子を立って握りこぶしを作った。
「さっきの佐藤の目もそうだったが、お前も俺を子供扱いする気か? だいたいお前は四歳だろう。博識設定かどうか知らんが、でかい口利きやがって」
「スマン。スマン。俺が口の悪いのは生まれつきだ。謝る」
クマ夫は額と両手をテーブルについて頭を下げた。
「可奈のことは怒るなよ。悪気もなかったろうし、彼女はああ見えても慣れない世界で苦労してきたんだ。 同級生だったとしてもそれなりに経験もしている」
それを聞いて徹も矛先を収めた。腕組みをして椅子に座り目を閉じ黙りこんでしまった。
暫くして扉を開け可奈が帰ってきた。徹は目を開けると彼女の浴衣に、再会を果たしたとき以上に惹きつけられた。
紺一色で染められた浴衣は彼女のボディーラインの魅力を隠すことを放棄している。長かった髪は、今は頭の上に巻かれた手拭いの中に収まって、なだらかうなじが露わになっている。うなじは、それだけで見ると健康的に日焼けした色に見えるが、浴衣の紺色に反比例してその存在を主張しているかのようだ。可奈の唇は魅惑的に動いた。
「お先に頂きました。クマさん、伊勢崎君を温泉まで案内してあげて」
クマ夫は椅子を飛び降りて、手桶と着替えを徹に持たせた。それからランタンを持って、呆けている徹の手をひっぱり家の外に連れ出した。徹の脳裏には可奈の浴衣姿が焼き付いていた。
「――クマさん……」
徹の言った独り言がクマ夫の耳に届いた。クマ夫はそれに反応した。
「自分でクマ夫と名付けておいて、呼ぶときは略して『クマさん』じゃ、意味ないと俺は思うぜ」
その言葉に我に返り、手をつないだクマ夫に視線を移す。
「……そうだな ……クマのクマさんじゃ変だよな」
――口は悪いが憎めないな
それが徹のクマ夫に対する印象であった。
小屋から100mの距離にそれはあった。平な広場に四方を囲むように高さ2mぐらいの板が立ち並んでいる。扉を開けて中に入ると、大理石のような平らな石が敷き詰められている。中央に4畳分の円形の温泉があり、温泉の周囲には大きめ石が並べられている。湯気なければ、池と間違えそうだ。
徹は衣服を脱いで体を洗い湯船に浸かる。「ふー」ため息が漏れる。光源から放たれた光は、彼の背中で遮断され、板の壁に影を映しだしている。それにもう一つの影が近づいてくる。それはしぶきが掛からないように退避していたクマ夫の影だった。
徹の横にある石に腰を下ろす。
「クマ夫は温泉に入らないのかい?」
「体を乾かすのに一苦労だから、あまり入らないな。普段は付いたホコリを叩いて落とすぐらいだ。汚れが酷くて入るとしても、天気の良い朝に洗って、濯いで、脱水して、一日中干されるんだ」
「それはまるで洗濯だな」
「脱水が大変だ。まるで遠心分離機に乗っているようだぜ」
「ぬいぐるみでも、いろいろ大変なんだな……」
徹は黙りこんで夜空を見上げた。
「伊勢崎どうした?」
「……なあ、佐藤がこの世界に来たときどんな様子だった?」
「可奈が最後に地球でノートに書いた小説の一文は『魔女は別世界に腕ききメイドがいることを知り、下女にするためそのメイドを召喚した。メイドは始まりの村近くの綺麗な花畑に召喚された』だった。
可奈もお前と同じで、あの花畑で見つけた。当時はお前の記憶どおりのおとなしそうな女の子だった。そしてこの村に連れ帰った。村の連中は今住んでいる丸太小屋を建ててくれたり、温泉に塀を作ってくれたりと可奈に好意的だった。そのうち可奈も打ち解けて、農作業など村の仕事を手伝うようになり、新しい生活が始まった」
「それで、佐藤の性格が変わっていったのか」
徹は彼女のことを少しだけ理解した。
――敏腕メイドだったんだ……
クマ夫は「話が変わるが……」と付け加えると話し始めた。
「この世界には『ある日突然、勇者が何処からとも無く現れ、悪い魔女を激闘の末に倒す』という英雄伝説がある」
徹は頷いてみせる。クマ夫は更に続けた。
「その伝説も、可奈がこの世界を創造したときの設定なのだが、この世界が出来た当初から、魔女が大暴れして民衆は恐れおののいていた。しかし一向に勇者が現れない。――なぜだか分かるか?」
「分かるわけ無いだろ。俺はもう考えることを放棄する」
「そうだろうな。お前の気持わかるぞ。じつはな、勇者って名前だけで、あとはほとんどキャラクター設定されていないんだ。だから『ある日突然』がいつの事になるかさっぱり検討がつかないんだ」
「でも、佐藤なら話の続きぐらい考えていたんだろ?」
「可奈が考えていたストーリーはこうだ。彼女がこっちの世界に召喚された、あの花畑に魔女が現れ、彼女を連れ去ろうとする。下女にしようと企んだのだから当然だ。そこに勇者が登場し、彼女を守る。魔女は諦めて城に帰る。――喉乾いたな。ガムあるか?」
「あるけど、説明が終わってからな」
「そうだな。仕方ないな」
「早くしてくれ。のぼせそうだ」
徹も喉が渇いてきた。しかし飲料水の出る水道もない。クマ夫はガムを諦めて続ける。
「実際に起ったことは、可奈が召喚された。魔女が現れた。しかし勇者が登場しなかった。可奈は魔女に危害を加えられたが連れ去られなかった。怪我をした可奈を俺が村まで連れ帰り、介抱した。まあ命に別条がなかったから良かったんだが、連れ去られていたら大変な事になっていた」
――そんなつらい目に遭っていたのか……
徹は可奈の波瀾万丈な境遇について思いやった。
「実は、クマ夫が勇者で、遅刻したって事じゃないのか?」
「それは違うと思うぞ。俺の半分は最初からこの村にいたから、『ある日突然、何処からとも無く』に当てはまらない」
「なるほど…… もう出よう。倒れそうだ」
湯船から出た徹は手縫いの手拭いで体を拭いた。
――英雄伝説か。不思議な話だな。
徹はこの世界に想いを馳せた。