1)クマ夫との出会い
高校の校舎の屋上から眺めると、校門のとなりには枝振りの良い桜の木が一本あった。すでに桃色の花びらは地表にも残されていない。代わりの日差しを精一杯吸収しようと青々とした葉が茂っている。
それ以外に屋上から見える緑といえば、遠く霞んだ山並みか、乱立するビルに寸断された数キロ先の河の土手だけだった。河土手には並木道ができるほど桜が植えられているが、校門のそれと同じく今は、人の目を気にすることなく生命活動を営んでいる。
伊勢崎徹はただ一人、屋上の片隅で持参の弁当を食べていた。特に孤独が好きなわけではない。運動能力に優れた体格と多少粗暴な面はあるが、ざっくばらんな性格は男女を問わず、同級生からもそれなりの人気があった。しかし今日は彼の噂が陰でまことしやかに囁かれている。それに嫌気が刺し逃れるようにここにやって来た。
徹は恋に破れた。恋の相手は同じクラスの景山夏子。クラス委員長しており、二年のクラス替えで一緒になった。彼女は女生徒の中では背の高い方で、肩までかかる艶やかな黒髪が印象的だった。可愛い系と言うより美人系という評判のほうが多い。そのためか、異性からは気軽の声を掛けがたい雰囲気さえある。それは凛とした性格と常に学年トップの成績に由来するかもしれない。
徹にとっても高嶺の花である彼女ではあったが、初めて声を掛けたのは彼女の方だった。元々は男子生徒の中でリーダーシップのある徹にクラス運営に関する相談ということだった。次第に二人の会話も増えた。そのうち徹の心に恋が芽生えた。日に日にその思いは強くなっていく。考えるより行動が先行してしまうタイプではあるが、一定レベルまで至るにはしばしの時間が必要であった。
告白しようかと迷いが生じた矢先、彼女からの呼び出しを告げられた。それが昨日のことだった。休み時間にちょっとしたメモをさり気なく渡された。「そこには放課後に体育館の裏で待っている。来て欲しい」と綺麗な文字で書かれていた。
授業が終わり指定の場所に向かった。そこは体育館と第二校舎と路地に面する生け垣に挟まれた三角地帯である。生け垣の高さは全てを覆い隠すほどのものではなかった。けれども部活が終わるまでは路地の人通りは少ない。着いた時にはすでに夏子はそこで待っていた。
「伊勢崎君、急に呼びだしちゃってごめんなさい」
徹が現れたことに気がついた彼女から先に声を掛けたが、その表情には不安が詰まっていた。
「伊勢崎君、実は相談があるの。私の友達の佐藤さんが一週間近く意識不明なの。毎日見舞いに行ってるけど、まるで寝ているみたいでいくら起こしても起きないの。私どうしていいかわからない……」
彼女は声を震わせながら言った。徹にとっても予期しない言葉だった。
「佐藤さんって三組の佐藤可奈さん?」
夏子と可奈は中学からの親友である。
一緒によく歩いているところをよく目にしていた。それに可奈は一年生の時は徹と同じクラスだった。小柄で黒縁のメガネ、ショートヘア、夏子と並んで歩くと姉妹のように可奈のほうが1、2歳年下に感じてしまう。しかし徹にとっは同級生以上の情報はなかった。
「どうしてそんなことに? 事故にでもあったのか?」
夏子は両手で口を抑え弱々しい声で言った。
「いいえ、そんなことはないわ。先週は元気だった。でも先週の火曜日学校の帰り、駅近くの路地に露天商がいたの。怪しげだったけど、不思議な力があるって。可奈はその中からノートを一冊買ったわ。そして翌日、彼女のお母さんから目を覚まさないって連絡があったの」
徹はこの状況で愛の告白どころではないことを知った。しかし普段見せない彼女の素振りに魅せられた。
「伊勢崎君は可奈のことをどう思ってるの?」
質問の唐突さに徹はたじろいだ。自ら告白しようとさえ思った相手に他の女性の好き嫌いを尋ねられるとは予想だにしていなかった。
「ごめんなさい。変な事と聞いてしまって。実は一緒に彼女のお見舞いに行って欲しいの。可奈は伊勢崎君のこと好きだったみたいだから……」
その言葉を聞いてとんだ思い違いをしていた事に気がついた。メモを受け取った時には夏子からの告白があるのではと期待していた。それは単なる勘違いだった。
「俺は……一緒に見舞いに行ってあげられない」
「どうして? 可奈のことが嫌いなの。嫌いでなければ同級生だし、お見舞いに行って欲しいの」
「俺は君のことが好きなんだ!」
彼女の顔に驚きの表情が浮かんだ。そして彼女は背を向け
「急にそんな事言われても……」
と、弱々しい返事が帰ってきた。
彼女の背中越しに声を掛ける。
「君は綺麗だし、頭もいいし。同じクラスになってからずっと君のことが気になってたんだ」
後ろ姿の彼女の肩にそっと手を置き、
「俺と付き合ってくれないか?」
と、勢いに任せて告白した。
添えたてから、震えが伝わってきた。
――パチン
彼女は振り向きざまに、徹の頬を平手打ちした。
「あなたがそんな軽薄な人だとは思わなかったわ。可奈は一年生の時かずっと伊勢崎君のことが好きだったの。彼女が大変なときに大切な親友を裏切れないわ!」
夏子の瞳には怒りと悲しさがで充ちていた。叩いた手の甲で目頭を押さえながら、第二校舎と体育館の狭間に駆けていった。
徹は叩かれた頬を抑えながら、彼女の走り去る背中を見送ることしかできなかった。
昨日の出来事は一部始終をスクープされていた。よほど優秀な調査員だったのだろう。ニュースは朝からクラス内でささやかれた。徹の耳に直接届くことはなかったが、雰囲気だけは感じ取れた。昼休みには事実を確かめにくる同級生に取り巻かれるだろう。それを嫌った。
そして一人屋上で弁当を食べ終わると、後頭部を両手で押さえフェンスに持たれ掛かった。もう痛くないはずの左頬を抑えてながら考えた。告白のことはもう忘れよう。そこから見える景色をぼーっと眺めた。この季節の心地よい風がフェンス越しに吹き抜ける。春の陽気に包まれ、しばらくすると瞼を閉じ眠りに入ってしまった。
***
徹は心地よさにすっかり寝入ってしまった。すると彼の頭をコツコツと叩く者が現れた。
「起きろ。起きろ。いつまで寝てるんだ」
――誰だ? せっかく気持ちよく寝ているのに……
うつろながらも気がついたが、不遜にも知らん顔を決め込んだ。
「おい、起きろと言っているのが聞こえないのか!」
――ドカッ
怒鳴り声とともに彼は脇腹に鈍器で殴られたような痛みを感じた。しばしの幸福感は吹き飛んでしまった。
「……なにするんだ。この野郎!」
痛みのある腹を左手で抑え、右手の拳を振り回す。しかし無常にも拳は空を切る。
「ほう、やる気か?返り討ちにしてやるぜ」
その声に徹はゆっくりと立ち上り、片目を開けてファイティングポーズを取る。しかし、彼を蹴ったであろうその人物を目にしたき、彼はまだ夢の中だと感じた。
目の前にクマがいた。ディフォルメした一メートルもあるクマのぬいぐるみがいる。
背景は一面の花畑。学校が跡形もなく消失している。驚きのため徹はすでに戦闘意欲を失っていた。そのクマのぬいぐるみが今、まさに殴りかかろうとしていた。
「待て、待て、まってくれ」
徹の叫びは無慈悲にもクマのぬいぐるみには届かなかった。顔面にクマのぬいぐるみの右ストレートをまともに食らい、両手を放り出しそのまま後ろへ倒れた。
「手間かけさせやがって……」
クマのぬいぐるみは、手を差し伸べ徹を起こした。右ストレートの威力により徹の意識は朦朧としている。
「おい大丈夫か?」
クマのぬいぐるみは、真っ黒なまん丸の目で徹を見ている。
――しゃべってる! ぬいぐるみがしゃべっている。やっぱり俺はまだ昼寝中なのか。
次第に意識がはっきりしてきた。徹はクマのぬいぐるみに自分が正気かどうか確認をした。
「ここは夢の世界なのか? 俺は夢を見ているのか?」
つぶらな瞳のクマのぬいぐるみは愛らしい口を動かした。
「似たようなもんだが、結論からすると答えはNOだ。もう一回蹴ってやろうか」
クマのぬいぐるみは、いきなり徹の顔に飛び蹴りをしてきた。
「痛ッ!」
まともに顔面で受けてしまった。徹は両手で顔を抑えた。
クマのぬいぐるみは華麗に着地した。
「これで夢じゃないことが分かっただろう」
クマのぬいぐるみが座ったのを見て、徹も胡座をかいた。
「確認するが、伊勢崎徹だよな?」
「ああ、そうだが」
「そうか。それならよかった。どうも若く見えたから。年喰ってないというか。まさか人違いじゃないかと心配したぜ」
「お前は何者だ。未来のクマ型ロボットじゃないよな」
「俺の名前はクマ夫だ。一応この世界の住人だ。この世界ができてからまだ間がないがな。五年ぐらいか」
クマ夫は徹の反応を監視している。
「簡単に説明すると、この世界は佐藤可奈の小説の世界だ」
「???」
夏子が、可奈は一週間近く目を覚まさず学校も休んでいると言ったことを思い出した。
このクマのぬいぐるみと可奈はなにか関係があるのだろうか?どこかで見たような気もする。可奈と言えばぶら下がっていた携帯ストラップ。大きめなクマのストラップはスカートのポケットに収まりきらずいつも腰のあたりでぶらぶらしていた。クマ?!
徹はストラップのクマも目の前のクマのぬいぐるみも同じ赤茶色だったことに気がついた。
「まさかお前、携帯ストラップか?」
クマのぬいぐるみの口尻が僅かに上がった。
「ああ、そのまさかの携帯ストラップのクマだ
「大きくなったなあ。あんなに小さかったのに……」
「おいおい子供が成長したみたいな言い方はやめろ。俺は当時から大人だ」
クマ夫は不機嫌そうな表情を見せた。
「話をもとに戻すぞ。世界観や登場人物のキャラクター設定などを不思議な力のあるノートの書き始めた。それがこの世界に反映されている」
クマ夫の言うノートとは、夏子と学校の帰りに買ったと言うそれのことだろう。
「つまり俺は佐藤の空想小説の世界に紛れ込んだということか?」
「そういうことだ」
「ここは地球ではないと?」
「そういうことだ」
「どうすれば帰れるんだ? まだ午後の授業もあるけど……」
戸惑う徹にニヤリと笑うクマ夫。
「授業中居眠りする奴の言葉とは思えないでけどな」
「どうして、それを知ってるんだ」
焦る徹を尻目にクマ夫は笑った。
「さっきも言ったとおり、俺は可奈のストラップだ。可奈と同じクラスの時のお前もちゃんと知ってる。俺は可奈と一緒だった」
クマ夫にも地球にいる時の記憶があった。地球ではストラップではあったが、この世界に来て魂を得たようだ。
それを聞いて不意に思い出す。可奈はどうしたんだ。
「この世界に可奈はいるのか? お前一緒だったんだろ?」
「ああ、可奈もこの世界に来ている。ここから一番近くの村でお前を待っている。だけどどうして学生服着てるんだ?」
「高校生だからな。昼休みにこっちに連れて来られたんだ」
クマ夫は首を傾げた。
「ああ、そうか」
クマ夫は手のひら小拳で叩いた。
「どういうことだ?」
不思議そうに言うと意味ありげにクマ夫は笑った。
「可奈に会えば分かる。可奈も驚くだろうな。クククッ」
意味ありげな笑いだった。徹が問いただしても、それ以上クマ夫は喋らなかった。
クマ夫は立ち上がってお尻を叩いた。真ん丸の尻尾がくっついている。
徹も立ち上がった。そして景色をゆっくり眺める。彼にとって初めて見る世界。人工物の見えないこの世界が、彼の住んでいた街でないことをはっきりと示している。咲き乱れる花の種類や名前さえも彼は知らない。地平線のかなたまで続くように思わるその彩りは、万華鏡を通した映像のように鮮やかに美しく瞳に映った。
徹はすっかり肩を落としていた。
「俺はどうやったら、元の世界に戻れるんだ? もとに戻してくれるのか?」
先程より弱々しい声でクマ夫に尋ねた。
クマ夫の瞳は黒く輝いている。
「もうホームシックにでも掛かったのか?」
「その言い方には毒があるな。訳もわからん理由で訳もわからん世界に連れて来られたんなら、普通帰りたいと思うだろ」
「残念ながら俺にはそんな力はない」
徹は肩を落とした。意気消沈した彼をクマ夫が慰める。
「そう気を落とすな。可奈なら帰り方を知っているかもしれない。とりあえず村へ帰ろう。そうだ彼女の手料理は美味いぞ」
そのクマ夫の言葉に徹は僅かな希望を見出した。
「その近くの村まではどれくらいの距離があるんだ?」
「そうだなあ。十キロほどだ」
「十キロか……」
徹は落胆したが、歩き出すほか方法は無かった。
改稿し始めました。これ以降話が噛み合わないところがありますがご容赦ください。順次改稿していきたいと思います。
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