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課長に昇進した俺の会社に、昔俺を虐めていた同級生が派遣で入ってきた。

作者: キンクマ
掲載日:2026/10/27

 四月一日。新年度を迎えた俺は、三十二歳にして営業管理課の課長に昇進した。


 大学を卒業してから十年間、真面目に働いてきた成果がようやく認められたというわけだ。もちろん、これまで以上に部下も増えて責任は重くなるが、それに見合った待遇も用意されている。年収も一千万は固い。


 この不景気なご時世にありがたい話である。


 そんな俺の部署に、新しく派遣社員が配属されることになった。


 繁忙期に入って事務作業が増えていたため、人事部に増員を依頼していたのだ。派遣会社からは事務経験のある男性を紹介され、今日から勤務を開始する予定になっていた。


「本日からお世話になります、田中です。よろしくお願いいたします」


 朝礼の時間。人事担当者に案内されてきた男は、社員たちの前で丁寧に頭を下げた。


 俺はその顔を見て、思わず目を細めた。


 田中大輔。


 中学校時代、俺を虐めていた同級生だった。


 初めは俺が田中のカンニングを先生にチクったとか、そんな因縁をつけられた事が原因だった。


 もちろん俺はそんなことはしていない。そもそも、こいつに興味がなかった。だが、思い込みの激しい奴でそんな事を言っても無駄だった。


 田中は取り巻きを引き連れて俺を囲み、人目のない場所で殴る蹴るの暴行を繰り返すようになった。体育の授業中に財布から金を抜き取られたり、下校時に自宅までつけ回されたりしたこともある。


 教師に相談したこともあったが、田中は注意された翌日には決まって仕返しをしてきた。そんな日々が卒業まで続いたものだから、中学時代にはろくな思い出がない。


 あの頃の記憶が一瞬フラッシュバックして、心臓がギュッと締まった。


 浅く、深呼吸をする。

 

 落ち着け。もう十五年以上も前の話だ。


 今さら蒸し返したところで、失われた時間が戻ってくるわけでもない。今はお互いに社会人だ。俺にはもう家族もいるし部下もいるのだから、個人的な感情は飲み込んでやっていかなくてはならない。


 俺は気を取り直し、彼に向かって笑顔で挨拶した。


「課長の佐藤です。よろしくお願いします」


「はい! よろしくお願いいたします!」


 田中は俺に向かって深々と頭を下げた。


 どうやら、奴は俺だと気づいていないらしい。


 無理はない。中学時代の俺は小柄で痩せていたが、今では身長も伸び体格も随分変わった。髪型も眼鏡も違う。


 虐めた方は覚えていないとはよく言ったものだ。きっと俺のことなぞ気にせず、のうのうと生きてきたのだろう。


 俺は田中を空いている席へ案内し、教育担当の社員を紹介した。


「最初は分からないことも多いと思いますが、遠慮なく質問してください」


「ありがとうございます! 精一杯頑張ります!」


 なかなか礼儀正しい男じゃないか。


 十五年も経てば、人間も変わるものなのだろう。


 俺はそう思いながら、自分のデスクへ戻った。


 *


 田中が配属されてから二週間が経った。


 結論から言えば、彼の仕事ぶりはあまり芳しくなかった。


 入力ミスが多く、作業速度も遅い。何度説明しても同じ間違いを繰り返し、分からないことがあっても自分から質問しようとしない。


 もっとも、新しい職場に慣れるまで時間がかかるのは珍しいことではない。


 俺も最初から仕事ができたわけではないし、失敗しながら覚えていけばいいと思っていた。


 ところが、ある日の午後。


「田中さん、ちょっといいですか?」


 俺は彼を自分の席に呼んだ。


「はい。何でしょうか?」


「昨日入力してもらった取引先のデータなんですが、金額が間違っています」


 俺はパソコンの画面を示した。


「こちらの請求額は百二十万円ですが、入力されているのは千二百万円です。桁が一つ違いますね」


「ああ……すみません」


「すみませんで済む問題ではありませんよ。差額は千八十万円です。今回は請求書を発行する前に発見できましたが、もしそのまま取引先に送っていたら、会社の信用に関わる重大な問題になっていました」


「は、はい……」


「しかも、同じような入力ミスが今週だけで三件あります。以前にも確認を徹底するようお願いしましたよね?」


「……はい」


「金額を入力するだけでなく、その数字が正しいか確認するところまでが仕事です。今後は必ず元の資料と照合し、入力後にも再確認してください」


 俺はそう言って、修正すべき箇所をまとめた資料を渡した。


 すると田中は、なぜか不機嫌そうに眉をひそめた。


「……あの」


「はい?」


「課長って、もしかして昔、第三中学校に通ってました?」


「ええ。そうですが」


 田中はしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて何かに気づいたように目を見開いた。


「……お前、佐藤か?」


「はい?」


「中学の時、同じクラスだった佐藤健一だろ!」


「ああ。ようやく気づいたんですね」


 俺がそう答えると、田中は急に態度を変えた。


「なんだよ! お前だったのかよ!」


「ええ。久しぶりですね」


「全然分かんなかったわ! 随分変わったな、お前!」


 田中は馴れ馴れしく俺の肩を叩いた。


 周囲の社員たちが、不思議そうにこちらを見ている。


「お知り合いなんですか?」


 近くにいた部下が尋ねてきた。


「ええ。中学校の同級生なんですよ」


「へえ! すごい偶然ですね!」


「そうですね」


 俺は笑顔で答えた。


 田中も笑っていた。


 ただし、その笑顔は長く続かなかった。


「それで田中さん、先ほどの件ですが」


「……え?」


「入力ミスの再発防止について、教育担当と確認してください」


 俺が資料を差し出すと、田中は露骨に顔をしかめた。


「……お前さあ」


「はい?」


「もしかして、昔のこと根に持ってる?」


 俺は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


「昔のこと?」


「ほら、中学の頃のことだよ。俺たち、色々あったじゃん」


「ああ、貴方が私を虐めていた件ですか?」


 周囲の空気が変わった。


 田中は慌てたように声を潜めた。


「お、おい! そんな大声で言うなよ!」


「何か問題でも?」


「いや、だからさ! 昔のことをいつまでも根に持って、仕事で仕返しするのは違うだろ?」


 なるほど。


 そういうことか。


「田中さん」


「何だよ」


「今回の入力ミスと、中学校時代の出来事に何か関係があるんですか?」


「だから、お前が俺を目の敵にしてるんだろ!」


「いえ。私は入力された金額が間違っていると指摘しただけですが」


「そういうところだよ! 昔からお前は陰湿だったんだ!」


 田中の声が大きくなった。


 周囲の社員たちが、完全に仕事の手を止めている。


 俺は小さくため息をついた。


「分かりました。ひとまず落ち着いてください。業務の話をしましょう」


「逃げんのかよ!」


「逃げるも何も、仕事中ですから」


「ふざけんなよ!」


 田中は資料をデスクに叩きつけた。


 俺はその様子を眺めながら、少しだけ懐かしい気持ちになっていた。


 ああ、そういえば、こいつは昔からこういう奴だった。


 *


 その後も田中の態度は改善しなかった。


 仕事でミスをするたびに、俺が昔の恨みを晴らそうとしていると言い出す。教育担当の社員が注意しても、俺に命令されているのだと決めつける始末だった。


 ついには人事部にまで、俺から不当な扱いを受けていると相談したらしい。


 当然、人事部は事実確認を行った。


 俺が提出したのは、田中の入力したデータと修正履歴、それから教育担当が作成した指導記録である。


 どれも通常の業務で作成されたものだ。


 確認の結果、俺の指導に特段の問題は認められなかった。


 田中にもその旨が伝えられたが、彼は納得しなかったらしい。


 そして、事件は起きた。


 金曜日の午後。


「おい、佐藤!」


 突然、田中が俺のデスクにやってきた。その顔は怒りで真っ赤になっており、周囲の社員たちが驚いて顔を上げるほどの大声だった。


「どうしました?」


「お前、人事に何を吹き込んだんだよ!」


「何の話ですか?」


「とぼけんな! 俺が仕事できないって言ったんだろ!」


「事実確認には協力しましたが」


「やっぱりな! 昔のことを根に持って、俺を追い出そうとしてるんだろ!」


 俺は椅子から立ち上がった。


「田中さん。少し声を落としてください。ここは職場です。他の社員の迷惑になります」


「うるせえ! 課長になったからって偉そうにしやがって!」


 田中は拳を握りしめ、今にも殴りかかってきそうな勢いで俺を睨みつけていた。


 十五年前と同じ顔だった。気に入らないことがあれば相手のせいだと怒鳴り、威圧し、自分の考えを押し通す。まるで成長していない。


 ああ、そう。その態度ですか。


 じゃあもう、こっちも遠慮してやらないよ?


 俺はその顔をじっと見つめながら、田中にしか聞こえない程度まで声を落とした。


「相変わらず思い込みの激しい人ですね、田中さん。……なあ、覚えてるか? お前が俺にカンニングがどうとかで因縁つけてきた事をよ」


 不意に昔のことを切り出されて焦ったのか、田中の表情が固まる。


「……何?」


「お前、いつも取り巻きを引き連れて俺を囲んでたよな。数人がかりで殴ってくれたよな。一人じゃ何も出来ねえ猿のくせによ」


「てめえ……!」


「で、今度は何だ? 仕事でミスしたら俺のせいか。教育担当に注意されたら、それも俺のせい。人事に相談して思い通りにならなかったら、また俺のせい。お前今日まで何して生きてきた? 何も成長してねえじゃねえか」


 俺はヘラヘラと笑いながら続けた。


「もう三十二だぞ。いつまで学生気分なんだよ」


「黙れっつってんだろ!!」


 次の瞬間、田中が俺の胸ぐらを掴んだ。


 強引に引き寄せられたかと思うと、そのまま身体を押し飛ばされる。背後にあった壁に背中が激しく叩きつけられ、鈍い音とともに鋭い痛みが走った。


「ぐっ……!」


 思わず息が詰まり、顔をしかめる。田中はなおも俺の胸ぐらを掴んだまま、怒りに任せて顔を近づけてきた。


「てめえ! 調子に乗りやがって! ぶっ殺されてえのか!」


 周囲から悲鳴が上がった。何人かの社員が立ち上がり、こちらへ駆け寄ろうとしている。


 俺は背中の痛みに耐えながら、田中の顔を見つめた。


 今にも殴りかかってきそうな血走った目に、顔には青筋が浮かんでいる。


「……あー、暴力っすか。やっちゃったね田中君」


 俺も少しだけ震えながら、しかし頭は冷えていた。この瞬間、こいつは終わった。そしてわざと目立つように声を張り上げる。


「誰かー! 警察呼んでください!!」


「……は?」


 田中の動きが止まった。


「お、おい! ちょっと待てよ!」


「誰か警察お願いします! 壁に叩きつけられて背中を打ちました。あと、殺すと脅されてます」


「ふざけんな! お前が挑発したんだろうが!」


「え? 私は注意をしただけですよ?」


「お前が先に喧嘩売ってきたんだろ!」


「皆さんも見てましたよね?」


 周囲の社員たちが頷いた。俺と田中が言い争っている所は見ていても、会話の内容など聞こえているはずもない。


 すでに一人の女性社員が電話を手にしている。


 田中は慌てて俺の胸ぐらから手を離すが、もう手遅れだった。


「ま、待てって! 警察は大げさだろ!」


「恫喝に、暴力まで振るっておいて大袈裟はないでしょう。立派な傷害事件ですよ。いてて」


「だ、だから悪かったって! ちょっと頭に血が上っただけなんだよ!」


 先ほどまでの威勢はどこへやら、すっかり怯えた表情になっている。中学生の頃には一度も見たことのない顔だった。


 俺は乱れた襟元を直しながら、田中を見つめた。


「田中さん。私が気に食わないのはしょうがないですが、周りの社員にも迷惑ですし、大人なんですからそこは理解してくださいよ」


「だから、悪かったって言ってるだろ!」


 田中は必死に弁解を続けた。どうやら警察沙汰になることだけは、どうしても避けたいらしい。


 俺は少し考えてから、ふと思いついたことを口にした。


「そう思うなら、謝罪すべきでは?」


「…………は?」


「分かりません? 膝をついて、頭を下げるやつ」


「な、何でそんなこと……!」


「いえ、しなくても良いですよ。ただ……」


 俺は周囲を見回した。


 社員たちが遠巻きにこちらを見つめている。彼らの視線に気づいた田中は、悔しそうに顔を歪めた。


「……土下座したら、許してくれるのか?」


「かも知れませんね」


「お前……!」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて田中は唇を噛みしめると、その場にゆっくりと膝をついた。両手を床につき、震える身体を折り曲げて、額を床に押しつける。


「……すみませんでした」


 田中の声が静かに事務所に響いた。


 俺はその姿をしばらく眺めていた。


 俺を虐めていた奴が土下座すると、スカッとするかなという思いつきだった。だが実際に見てみると、これが思ったほど面白くない。


「……もう良いですよ」


 田中はゆっくりと顔を上げた。


 その表情には屈辱と安堵が入り混じっている。どうやら、これで一件落着だと思っているらしい。


「じゃ、じゃあ……警察は……」


「それは呼びますよ。もちろん」


「……はあ!? お前っ! 土下座したじゃねえか! だったら何で警察呼ぶんだよ!」


「それはそれ、これはこれ、ですから。あなたの土下座なんか見ても誰も、一円の得にもなりませんし」


 田中は口をぱくぱくと開閉させた。


 俺はそんな彼を眺めながら、思わず笑ってしまった。


「まあ、来月の同窓会で良い笑い話が出来たって事で。私の気持ち的にはもう許してあげても良いかなと思ってますよ。それはそれですけどね」


「…………っ!」


「いやあ、楽しみですね。田中君が仕事でミスして逆ギレして、最後は土下座して警察に連れて行かれた、なんて。みんな何て言うかな」


 田中の顔が真っ赤になった。


 しかし、今度は掴みかかってこなかった。


 さすがに二度目はまずいと理解したらしい。


「……お前、性格悪くなったな」


「お陰様で」


 田中は悔しそうに唇を噛みしめていたが、もう言い返してはこなかった。


 俺はそんな田中の肩に手を置き、宥めるふりをしながら周囲の社員には聞こえないよう、その耳元で囁いた。


「……分かりましたか田中さん。大人の喧嘩に暴力はダメなんですよ。勉強になりましたね、このクズが」


 田中の顔が引きつるのを見届けると、俺は何事もなかったかのように身体を離した。


 ほどなくして警察官が到着し、田中は事情を聞かれるため警察署へ同行することになった。俺も病院で診察を受け、背部打撲と診断された。


 その後、派遣元との協議を経て、田中の契約は終了となった。職場で暴力沙汰を起こしたのだから、当然の結果だろう。


 それから一週間後、俺はいつも通り仕事に励んでいた。背中にはまだ少し痛みが残っていたが、今はこの痛みすら心地良い。


 昼休み、スマートフォンを確認すると、中学校の同窓会の案内が届いていた。


 参加予定者の一覧を眺めてみたが、田中の名前は当然なかった。


「ははっ、そりゃあそうか」


 俺は思わず笑みを浮かべた。やはりもうあいつの顔は見たくない。俺はもう過去ではなく、今を生きているのだから。


 俺は出席の返事を送ると、スマートフォンをしまって午後の仕事に戻った。

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