神谷紗月だった頃
白い光が消えた。
リヴィアが目を開けると、そこは見慣れたはずの街だった。
高層ビル。
信号機。
車の走る大通り。
コンビニの明るい看板。
夕暮れの空を背景に、無数の窓がオレンジ色に輝いている。
「……ここは」
リヴィアは息を呑んだ。
「日本……?」
そう呟いた瞬間、自分の声に違和感を覚えた。
髪に触れる。
肩までの黒い髪。
手を見る。
貴族令嬢の細く白い手ではない。
そして――。
ショーウィンドウに映った自分の姿を見て、リヴィアは固まった。
黒髪。
濃い茶色の瞳。
見慣れた現代の服。
二十歳だった頃の自分。
神谷紗月。
「……私」
その名前を口にすると、胸の奥が締めつけられた。
忘れていたわけではない。
前世の記憶はずっと持っていた。
それでも、こうして再び自分の姿を見ると、不思議な感覚が込み上げてくる。
「紗月」
突然、背後から声がした。
リヴィアは振り返った。
そこには誰もいない。
「……今の声」
確かに聞こえた。
けれど、街を歩く人々は何事もなかったかのように通り過ぎていく。
リヴィアは周囲を見回した。
そして、ふと気づいた。
誰も自分を見ていない。
まるで、この世界に自分だけが存在していないかのようだった。
「……これは記憶?」
その瞬間。
目の前に小さな光が現れた。
光の中に文字が浮かび上がる。
『記録開始』
『対象――神谷紗月』
リヴィアの表情が強張った。
「やっぱり……」
これは単なる記憶ではない。
誰かが記録していた過去。
その可能性が高い。
「なら……私の死も記録されている?」
リヴィアが呟いた瞬間。
景色が変わった。
学校。
教室。
机の上には教科書。
窓の外には桜。
そこに座っているのは――紗月。
大学生だった頃の自分。
友人と話しながら、スマートフォンを見ている。
「……懐かしい」
リヴィアは少しだけ笑った。
けれど、その記憶には違和感があった。
紗月のスマートフォンに、一通のメールが届いている。
差出人は――。
『Unknown』
件名は。
『薔薇と運命の王冠』
リヴィアの笑顔が消えた。
「……そんなメール、受け取った覚えはない」
紗月は画面を開いた。
そこには短い文章が書かれていた。
『あなたは、世界の可能性を観測していますか?』
『このゲームに存在する人物たちは、本当に架空の存在でしょうか?』
『もし世界が複数存在するとしたら――』
『あなたは、どの未来を選びますか?』
紗月は不思議そうに画面を見つめた。
そして、小さく笑った。
「変なメール」
そのまま削除する。
リヴィアは息を呑んだ。
「……待って」
だが、映像は止まらない。
場面が次々と変わっていく。
紗月がゲームを購入した日。
初めてプレイした日。
リヴィアという悪役令嬢に興味を持った日。
何度も同じルートを繰り返した日。
そして――。
最後の場面。
雨の降る夜。
紗月は一人で帰宅していた。
道路を横断しようとした瞬間。
ヘッドライトが視界を覆う。
「……!」
リヴィアは思わず目を閉じた。
しかし、衝撃の直前。
世界が止まった。
雨粒が空中で静止する。
車も。
人も。
信号も。
すべてが動かない。
「……何?」
リヴィアの前に、一人の少女が現れた。
長い黒髪。
白い衣。
黄金色の瞳。
「……白蓮?」
しかし、目の前の少女は首を横に振った。
『私は白蓮ではありません』
声が違う。
「あなたは……誰?」
少女は静かに微笑んだ。
『あなたをこの世界へ送った者』
リヴィアの身体が固まる。
「……私を?」
『正確には、あなたを選んだわけではありません』
『あなたが、この世界を観測し続けたことで、世界の側からあなたに接触したのです』
「観測……?」
少女が手を伸ばす。
すると、空中に無数の光が現れた。
ゲームの画面。
キャラクターの設定。
世界の地図。
そして、無数の未来。
「これは……」
『あなたが遊んでいたゲームは、完全な創作ではありません』
リヴィアの目が大きく開く。
『この世界の一つの可能性を、別の世界から記録したものです』
「じゃあ……」
『あなたが知っていた物語は、この世界の未来の一つでした』
リヴィアは言葉を失った。
ゲームのシナリオ。
攻略対象。
悪役令嬢。
そして、自分の破滅。
すべてが偶然ではなかった。
「……でも、私はどうして死んだの?」
少女は答えなかった。
代わりに、一つの光を見せる。
そこには、事故の瞬間の紗月。
しかし。
車が彼女へ近づく直前。
道路の端に、黒い王冠の紋章が浮かんでいた。
「……!」
リヴィアは息を呑んだ。
黒い円。
三本の銀色の線。
そして――黒い王冠。
「まさか……」
『あなたの死は、自然なものではありませんでした』
少女が告げる。
『あなたの魂は、世界の記録に接続されました』
『そして、あなたは別の可能性へ移された』
「……それが、リヴィア?」
『はい』
リヴィアは震える手で自分の胸元を押さえた。
「じゃあ……私は最初から、この世界へ来ることが決められていた?」
『いいえ』
少女は静かに首を横に振る。
『あなたがここへ来た後、何を選ぶかまでは決められていませんでした』
その言葉に、リヴィアは顔を上げた。
『あなたは本来の物語を知っていた』
『だからこそ、その物語から外れることができた』
『そして、あなたが選択するたびに、世界は変化した』
リヴィアの脳裏に、これまでの出来事が浮かぶ。
エヴリンとの友情。
攻略対象たちとの距離。
ルシアンとの出会い。
アルカディア。
セラ。
三百年前の青年。
「……私が選んだことが、全部……」
『そうです』
少女が微笑む。
『だから、あなたはもう「悪役令嬢」ではありません』
その言葉に、リヴィアの目から涙が一粒落ちた。
「……」
『あなたは、あなた自身です』
少女の姿が少しずつ薄くなる。
「待って!」
リヴィアが手を伸ばす。
「まだ聞きたいことがある!」
『一つだけ、覚えておいてください』
少女が振り返る。
『あなたをこの世界へ導いた存在と、あなたの未来を固定しようとしている組織は――同じ目的ではありません』
「……どういう意味?」
『すべての記録を作った者が、あなたの敵とは限らない』
「では、誰が……」
そこで、世界が再び動き始めた。
雨が落ちる。
車が走る。
そして――。
リヴィアの意識が急速に遠ざかっていく。
最後に見えたのは、道路の向こう側。
黒い王冠の紋章。
その上に浮かぶ、新しい文字だった。
『次の観測対象――ルシアン・ヴァルクレスト』
「……え?」
リヴィアは目を見開いた。
次の瞬間。
白い光がすべてを包み込んだ。
「ルシアン……!」
その名前を叫んだ瞬間――。
リヴィアは、東の仙境の床へ戻っていた。
「リヴィア!」
ルシアンが彼女の身体を支える。
「大丈夫?」
リヴィアは荒い呼吸を繰り返した。
目の前にいる彼を見つめる。
黒い髪。
深い青い瞳。
確かな体温。
「……殿下」
「何があった?」
リヴィアは彼の手を強く握った。
そして、震える声で告げる。
「私の前世の死には……黒い王冠が関わっていました」
ルシアンの表情が変わる。
「……黒い王冠?」
「はい」
リヴィアは涙を拭う。
「そして、最後に……」
一度、息を吸う。
「次の観測対象として、あなたの名前が表示されました」
その瞬間。
遠くの空で――。
第四の鐘が鳴った。




