ヴァロリアへの旅立ち
国王からヴァロリア王国への同行を命じられてから、三日が経った。
リヴィアは自室の大きな鏡の前で、何度目か分からないほど自分の姿を確認していた。
今日の服装は、旅に適した淡い青色のドレス。
胸元には銀糸で小さな薔薇の刺繍が施され、腰には細いベルトが巻かれている。灰金色の髪は後ろでまとめ、青い髪飾りを留めていた。
「……これで大丈夫」
小さく頷く。
ヴァロリア王国への公式訪問。
ただの旅行ではない。
アルカディアに関する調査。
謎の組織についての情報交換。
そして――。
「……婚姻についての協議」
口にしただけで、頬が熱くなった。
「どうして私がこんなことを……」
前世の自分なら、絶対に信じなかっただろう。
乙女ゲームの悪役令嬢に転生した。
攻略対象を避ける。
破滅を回避する。
それだけを目標にしていた。
ところが今は、ゲームに存在しなかった隣国の王子と一緒に旅をしようとしている。
しかも、その王子との婚姻話まで出ている。
「……人生って、本当に分からないものですね」
その時。
コンコン。
「リヴィアさん、準備はできましたか?」
エヴリンの声が聞こえた。
「はい。今行きます」
扉を開ける。
そこには、旅装に身を包んだエヴリンが立っていた。
淡い茶色の髪を肩の辺りでまとめ、緑色の瞳を輝かせている。
「素敵です!」
「ありがとうございます。エヴリンも似合っていますよ」
「ありがとうございます!」
エヴリンは嬉しそうに笑った。
「今回、私も同行していいのでしょうか?」
「国王陛下から許可をいただいていますから」
「よかったです」
エヴリンは胸を撫で下ろした。
「リヴィアさんと一緒に旅ができるの、楽しみです」
「私もです」
リヴィアは微笑む。
するとエヴリンが、少しだけ意味ありげな表情を浮かべた。
「それに……」
「何ですか?」
「ルシアン殿下と長い時間一緒にいられますね」
「……」
リヴィアの笑顔が固まった。
「それは、今回の任務に必要だからです」
「はい」
「決して、別の意味ではありません」
「まだ何も言っていませんよ?」
「……」
リヴィアは視線を逸らした。
「行きましょう」
「ふふっ」
二人で王城の正門へ向かう。
そこにはすでに馬車が何台も並んでいた。
王家の紋章が刻まれた大型の馬車。
護衛騎士たち。
荷物を積み込む従者たち。
そして――。
「お待ちしていました」
ルシアンが立っていた。
今日は普段の王族用の礼装ではなく、旅に適した濃紺の服を身につけている。
肩には銀色の装飾。
腰には細身の剣。
黒青色の髪が風に揺れている。
「おはようございます、殿下」
「おはようございます、リヴィア」
ルシアンの視線が彼女へ向く。
そして、少しだけ目を細めた。
「今日のあなたは、とても綺麗ですね」
「……またですか」
「また?」
「以前も同じことを言いましたよね」
「思ったことを言っているだけです」
「……」
リヴィアは頬を赤くする。
「殿下は、本当にそういうところが……」
「嫌ですか?」
「嫌とは言っていません」
「では、問題ありませんね」
「……もう」
ルシアンが笑う。
その横からアルベルトが歩いてきた。
「出発するぞ」
「はい」
アルベルトも今回は同行することになっている。
エルディアの第一王子として、ヴァロリアとの正式な協議に参加するためだ。
セラも別の馬車に乗り込む。
彼女は王都に残る選択肢もあったが、アルカディアに関する知識を持つ唯一の人物として同行することになった。
「全員、準備はできたか?」
アルベルトが確認する。
「はい!」
エヴリンが答える。
リヴィアも頷いた。
「大丈夫です」
そして最後にルシアンを見る。
「では、行きましょう」
馬車が動き始めた。
王都の門を抜ける。
リヴィアは窓から外を眺めた。
見慣れた街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
今回の旅は、前回とは違う。
逃げるための旅ではない。
自分で選んだ未来へ進むための旅だ。
馬車の中には、リヴィア、エヴリン、ルシアンの三人がいた。
アルベルトとセラは別の馬車に乗っている。
「ヴァロリアまでは、どれくらいかかるんですか?」
エヴリンが尋ねる。
「通常なら五日ほどです」
ルシアンが答える。
「ですが、今回は王族用の街道を使いますから、四日程度で到着する予定です」
「四日……」
リヴィアは少し驚いた。
「意外と近いんですね」
「隣国ですからね」
ルシアンが笑う。
「途中で一度、湖畔の町に宿泊します」
「湖があるんですか?」
エヴリンの目が輝く。
「はい。ヴァロリアでは有名な場所です」
「楽しみです!」
エヴリンが窓の外を見る。
リヴィアも微笑んだ。
しばらくすると、エヴリンが眠ってしまった。
静かな寝息が聞こえる。
リヴィアは小さな声で呟いた。
「……よく眠れますね」
「安心しているのでしょう」
向かいに座るルシアンが答える。
「今回の旅が楽しみなのかもしれません」
「そうですね」
リヴィアも窓の外を見る。
街道の先には、広大な草原が広がっていた。
「殿下」
「はい?」
「ヴァロリアって、どんな国なんですか?」
ルシアンは少し考える。
「自然が多い国です」
「自然?」
「はい。山と湖が多く、魔力を含んだ森もあります。魔法研究も盛んですが、エルディアほど貴族社会は厳しくありません」
「そうなんですね」
「それから――」
ルシアンが少しだけ笑う。
「私の家族もいます」
「……ご家族」
リヴィアの表情が固まる。
「はい」
「つまり……」
「私の両親と、兄がいます」
「お兄様……」
リヴィアは思い出した。
以前、ルシアンの父親であるヴァロリア国王については聞いたことがある。
そして、彼には兄がいる。
第一王子。
ゲームには存在しなかった人物。
リヴィアは少し緊張した。
「私……失礼なことをしないでしょうか」
「大丈夫ですよ」
「本当ですか?」
「はい」
「……殿下のお兄様は、どんな方ですか?」
ルシアンは少し考えた。
「真面目です」
「それだけですか?」
「優秀です」
「それだけ?」
「少し心配性です」
「……なるほど」
リヴィアが苦笑する。
「殿下とは違いますね」
「そうでしょうか?」
「殿下は、もう少し人をからかいます」
「……」
ルシアンが黙る。
「否定しないんですね」
「兄にもよく言われます」
リヴィアは思わず笑った。
その時。
馬車が小さく揺れた。
「きゃっ……」
身体が傾く。
ルシアンがすぐに手を伸ばした。
「危ない」
リヴィアの身体を支える。
彼の腕が彼女の肩を包む。
「……大丈夫ですか?」
「は、はい……」
近い。
あまりにも近い。
目の前に、深い青色の瞳。
リヴィアは一瞬、呼吸を忘れた。
「……リヴィア?」
「だ、大丈夫です!」
慌てて離れる。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして」
ルシアンは何事もなかったかのように座り直す。
リヴィアは窓の外を向いた。
頬が熱い。
「……恋じゃありません」
「何か言いましたか?」
「何も言っていません!」
ルシアンは小さく笑った。
しかし。
その笑顔が消えたのは、数時間後だった。
夕暮れ。
馬車が街道を進んでいると、前方から護衛騎士が駆けてきた。
「殿下!」
「どうしました?」
「街道の先で異常を確認しました」
ルシアンが馬車から降りる。
リヴィアも続いて外へ出た。
「何があったのですか?」
騎士が指差す。
街道の脇。
一本の木に、黒い王冠の紋章が刻まれていた。
リヴィアの顔から笑みが消える。
「……また、これ」
ルシアンも紋章を見る。
「ヴァロリアへ向かう街道に、なぜこの印が……?」
リヴィアは答えられなかった。
第一章で終わったと思っていた謎。
それが。
今度はヴァロリアへ向かう道の上で、再び姿を現した。
ルシアンが剣へ手を伸ばす。
「全員、警戒してください」
夕暮れの森。
風が止まる。
鳥の声さえ聞こえなくなった。
そして木々の奥から――。
小さな声が響いた。
「……王子を連れてきたか」
リヴィアの背筋に、冷たいものが走った。
ヴァロリアへの旅は。
ただの外交訪問ではなかった。




