知らない世界へ
光が消えた。
そう思った瞬間、リヴィアは自分の身体が何かに包まれていることに気づいた。
温かい。
けれど、足元には何もない。
身体が宙に浮いているような、不思議な感覚だった。
「――っ!」
声を出そうとした。
しかし、声にならない。
目を開けても、何も見えない。
白。
ただひたすらに白い。
上下も分からない。
前も後ろもない。
まるで世界そのものが消えてしまったようだった。
その時。
手に、温かい感触があった。
「……リヴィア」
聞き慣れた声。
ルシアンだった。
「殿下……?」
ようやく声が出た。
「ここにいる」
すぐ近くから返事が返ってくる。
リヴィアは暗闇の中で手を伸ばした。
指先が何かに触れる。
そして、そのまま強く握った。
「……よかった」
無意識に口から言葉が漏れた。
「離れていませんでした」
「ああ」
「本当に……」
「言っただろう。離すなと」
ルシアンの声が少しだけ笑っている。
「……そうでしたね」
リヴィアも小さく笑った。
それだけで、不思議と安心した。
何も見えない。
どこにいるのかも分からない。
それでも、隣にルシアンがいる。
その事実だけが、今のリヴィアにとって唯一の確かなものだった。
「ところで……」
ルシアンが言った。
「ここは、どこだ?」
「……分かりません」
「セラ?」
「ここにいる」
少し離れた場所からセラの声がした。
「あなたも無事?」
「うん」
「よかった」
リヴィアは安堵した。
三人とも無事。
それだけでも十分だった。
「セラ」
「何?」
「門は……どうなったんですか?」
「閉じた」
「じゃあ、私たちは戻れない?」
沈黙。
その数秒が、答えを物語っていた。
「……今は無理」
「そんな……」
リヴィアの胸が重くなる。
学院。
エルディア王国。
エヴリン。
父。
そして、学院で戦っているかもしれない人たち。
みんなを残してきた。
「でも」
セラが続ける。
「完全に閉じたわけじゃない」
「どういうこと?」
「門との繋がりは残っている」
「なら、戻れる?」
「可能性はある」
リヴィアは少しだけ息を吐いた。
「よかった……」
その時だった。
白い空間の奥に、何かが浮かび上がった。
最初は小さな光だった。
やがて、それは円形に広がっていく。
「何でしょう……?」
「分からない」
ルシアンがリヴィアの前に出る。
けれど、今度は剣を抜かなかった。
光の中心から、風が吹いてくる。
冷たい風。
それに混じって、草の匂いがした。
「……外?」
リヴィアが呟く。
光がさらに強くなる。
そして――。
三人の身体が、一気に引っ張られた。
「――っ!」
リヴィアは反射的にルシアンの手を握った。
「殿下!」
「離さない!」
次の瞬間。
身体が落ちた。
――ドサッ!
「いたっ……!」
柔らかな草の上だった。
リヴィアはしばらく動けなかった。
背中に草が触れている。
空気が冷たい。
風が頬を撫でている。
そして――。
空が見えた。
「……空?」
リヴィアはゆっくり身体を起こした。
目の前に広がっていたのは、青い空。
雲一つない。
太陽の光が眩しい。
周囲には広大な草原が広がっている。
遠くには山。
さらに、その向こうには巨大な建造物のようなものが見えた。
「ここは……」
ルシアンも立ち上がる。
服についた草を払いながら、周囲を見渡した。
「少なくとも学院ではないな」
「……はい」
セラも少し遅れて立ち上がった。
彼女は空を見上げる。
そして。
「……成功した」
小さく呟いた。
「何が?」
リヴィアが尋ねる。
「門が、私たちを安全な場所へ送った」
「安全な場所……?」
「そう」
セラが遠くを見る。
「ここは、ヴァロリアでもエルディアでもない」
「……え?」
リヴィアは固まった。
「じゃあ、どこなんですか?」
「分からない」
「また……」
思わずため息が出る。
セラは申し訳なさそうに笑った。
「でも、少なくとも危険な場所ではないと思う」
「その根拠は?」
「魔力の流れが安定しているから」
「……なるほど」
リヴィアは周囲を見渡した。
確かに、魔物の気配はない。
空気も穏やかだ。
鳥の声が聞こえる。
草原の向こうには森があり、そのさらに奥には巨大な山脈がそびえている。
どこか美しい場所だった。
けれど。
リヴィアには一つの違和感があった。
「……あれ」
遠くに何かが見える。
「どうした?」
ルシアンが尋ねる。
「山の近く」
リヴィアは指を差した。
「何か建物があります」
ルシアンが目を細める。
確かに見える。
白い城壁。
高い塔。
そして、その上には見たことのない旗が掲げられている。
「国……?」
「おそらく」
セラが答えた。
「なら、まずは人を探そう」
ルシアンが言う。
「ここがどこなのか確認する必要がある」
「賛成です」
三人は草原を歩き始めた。
リヴィアは歩きながら、何度も後ろを振り返った。
何もない。
門は完全に消えている。
「……エルディア、大丈夫でしょうか」
思わず呟く。
「大丈夫だ」
ルシアンが言った。
「学院には教師も騎士もいる」
「でも……」
「それに」
ルシアンがリヴィアを見る。
「俺たちが戻ればいい」
「……」
その言葉に、リヴィアは少しだけ笑った。
「そうですね」
戻る。
そのためにも、まずここがどこなのか知る必要がある。
そう考えた時だった。
森の中から、突然何かが飛び出してきた。
「!」
ルシアンが瞬時に剣を抜く。
リヴィアも立ち止まった。
草むらから出てきたのは、一匹の小さな動物だった。
白い毛。
長い耳。
赤い瞳。
ウサギに似ている。
「……可愛い」
リヴィアが思わず呟く。
しかし、セラは首を振った。
「触らないで」
「え?」
「普通の動物じゃない」
リヴィアがよく見る。
その小さな動物の額には、淡い青色の紋様が浮かんでいた。
魔法陣。
「魔獣……?」
「違う」
セラが答える。
「精霊に近い」
白い動物はリヴィアを見る。
そして、ゆっくり近づいてきた。
「……私に?」
リヴィアがしゃがむ。
ルシアンが止めようとする。
「待て」
「大丈夫だと思います」
「しかし――」
白い動物はリヴィアの足元まで来ると、彼女の靴に鼻を近づけた。
そして。
――ポンッ。
小さな光が弾けた。
動物の姿が変化する。
白い毛が光に包まれ、身体が人間の少女ほどの大きさへ変わっていく。
「え……?」
リヴィアは目を見開いた。
光が消える。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
白い髪。
赤い瞳。
長い耳のような装飾。
そして、淡い青色の衣装。
少女はリヴィアを見つめた。
「……異世界の人」
リヴィアの心臓が跳ねる。
「あなたも……私を知っているんですか?」
少女は首を傾げた。
「知ってる」
「どうして?」
「あなたの匂いが、この世界の人とは違うから」
「匂い……?」
リヴィアは自分の服を確認する。
特に変な匂いはしない。
ルシアンが小さく笑った。
「そういう意味ではないと思うぞ」
「分かっています!」
思わず頬を膨らませる。
ルシアンは楽しそうに笑った。
こんな場所でも、いつもの調子を忘れない。
リヴィアは呆れながらも、少しだけ安心した。
「あなたの名前は?」
リヴィアが少女に尋ねる。
「名前……」
少女は少し考える。
「ユナ」
「ユナ……」
「そう」
ユナはリヴィアを見つめる。
「あなた、門を通ってきた?」
「はい」
「じゃあ、やっぱり」
ユナが嬉しそうに笑う。
「預言の人だ」
「……預言?」
リヴィアの顔が引きつる。
まただ。
また、自分を知っている人間が現れた。
「一体、私のことを何だと思っているんですか?」
ユナは答えた。
「世界を変える人」
「……」
リヴィアは頭を抱えたくなった。
「私、ただ静かに生きたいだけなんですけど……」
「無理だと思う」
ユナが即答する。
「どうしてですか?」
「もう、世界があなたを見つけたから」
「……意味が分かりません」
リヴィアが困惑する。
その横で、ルシアンは真剣な顔をしていた。
「ユナ」
「なに?」
「ここはどこだ?」
「あなたたちがいる場所?」
「……」
「ヴァロリアでも、エルディアでもない場所なのは確か」
「では、この国の名前は?」
ユナは遠くの城を指差した。
「あそこが王都」
「国名は?」
「アルカディア」
その名を聞いた瞬間。
セラが息を呑んだ。
「……アルカディア?」
「知っているのか?」
ルシアンが尋ねる。
セラは青ざめた顔で頷いた。
「昔の記録で……一度だけ見たことがある」
「どんな国なんですか?」
リヴィアが尋ねる。
セラは遠くの城を見つめた。
「存在しない国」
「……え?」
「私が知る限り、アルカディア王国は――」
セラの声が震える。
「数百年前に、世界から消えたはず」
リヴィアは言葉を失った。
目の前には確かに城がある。
人が暮らしている。
風が吹いている。
大地がある。
なのに。
この国は、存在しないはずだった。
そしてリヴィアは、ようやく理解した。
自分たちは別の国へ来たのではない。
別の場所へ来たのでもない。
もしかすると――。
別の時代へ来てしまったのかもしれない。
その瞬間。
遠くの王都から、大きな鐘の音が鳴り響いた。
――ゴォォン……。
ユナが空を見上げる。
「始まった」
「何が?」
「異世界から来た人を迎えるための鐘」
リヴィアの背筋に、冷たいものが走った。
「……私たちが来ることを、最初から知っていた?」
ユナは頷く。
「うん」
そして、少女は笑った。
「アルカディアの王様が、あなたたちを待ってる」




