彼女は悪役令嬢じゃない
王立セイレーン学院の入学式まで、あと一週間。
屋敷では、毎日のように学院へ持っていく物の確認が行われていた。
制服。
教科書。
魔法実習用の道具。
文房具。
そして、貴族として必要になる身分証明書。
私はそれらを一つずつ確認しながら、机の上に並べていた。
「……いよいよね」
窓の外を見る。
春の風に木々の葉が揺れている。
学院へ入学すれば、本格的にゲームの舞台へ入ることになる。
私が知っている『薔薇と運命の王冠』では、ここからヒロインと攻略対象たちの物語が始まる。
アルベルト。
カイル。
セドリック。
ノア。
彼らとの出会い。
そして――悪役令嬢リヴィアによる妨害。
「でも、私は同じことをしない」
私は静かに呟いた。
エヴリンを傷つけない。
攻略対象にも近づかない。
そして、自分の未来を自分で選ぶ。
それが私の決めたことだった。
コンコン。
「お嬢様、エヴリン様がお見えです」
「エヴリンが?」
私は驚いた。
「応接室へお通しして」
* * *
応接室へ入ると、エヴリンが立ち上がった。
「リヴィアさん!」
「こんにちは、エヴリン」
「突然お邪魔してしまってすみません」
「気にしないで。座って」
二人でソファに腰を下ろす。
エヴリンは少し緊張した様子だった。
「今日は、どうしたの?」
「学院が始まる前に、リヴィアさんと少し話したくて」
「私と?」
「はい」
彼女は小さく笑った。
「学院では、今よりも色々な人と会うことになりますよね」
「そうね」
「私……少し不安なんです」
意外だった。
ゲームのヒロインであるエヴリンは、いつも明るく前向きだった。
けれど、それは何も怖くないという意味ではない。
「貴族の人たちに囲まれるのは初めてなので……失礼なことをしてしまったらどうしようって」
「そんなに心配しなくても大丈夫よ」
「リヴィアさんは慣れているから……」
「私だって緊張するわ」
「え?」
私は少し笑った。
「社交界なんて、私も好きじゃないもの」
「そうだったんですね」
エヴリンが嬉しそうに笑う。
「少し安心しました」
その顔を見ていると、私はふと思った。
ゲームの中では、彼女は「ヒロイン」という役割だった。
明るくて、誰からも好かれて。
攻略対象たちと恋に落ちる。
それに対して私は「悪役令嬢」。
ヒロインを妨害する存在。
でも――。
目の前にいるエヴリンは、ただの一人の少女だった。
不安になったり、緊張したり、誰かを心配したりする。
「……ねえ、エヴリン」
「はい?」
「私のことを、どう思ってる?」
「え?」
突然の質問に、彼女は目を丸くした。
「どうって……」
少し考える。
「優しい人だと思っています」
「……私が?」
「はい」
即答だった。
「どうして?」
「毒事件の時、私を助けてくれましたよね」
「それは……」
「それだけじゃありません」
エヴリンは私をまっすぐ見る。
「初めて会った時から、私に嫌な顔をしませんでした」
「…………」
「周りの人は、私が商家の娘だからって、少し距離を置く人もいます。でもリヴィアさんは違いました」
私は何も言えなかった。
「だから、私はリヴィアさんと友達になりたいです」
「……友達」
その言葉が、胸に響いた。
ゲームではありえなかった関係。
悪役令嬢とヒロイン。
敵同士になるはずだった二人。
「……そうね」
私は微笑んだ。
「私も、あなたと友達になりたい」
エヴリンの顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「ええ」
「嬉しいです!」
彼女は子供のように笑った。
私はその笑顔を見ながら思う。
彼女は悪役令嬢じゃない。
もちろん、私自身も本当は悪役令嬢なんかじゃない。
ただゲームが、そういう役割を与えただけ。
「……だったら」
私は心の中で決めた。
学院で何が起きても、エヴリンを敵にしない。
* * *
エヴリンが帰った後。
私は庭園へ出た。
夕方の空が赤く染まっている。
薔薇の花びらが風に揺れていた。
「友達……か」
その言葉を何度も考える。
前世では、私は特別に親しい友人を作るのが得意ではなかった。
それなのに、この世界では少しずつ人との繋がりが増えている。
エヴリン。
父。
侍女たち。
そして――。
「……ルシアン」
名前を口にした瞬間。
「呼びましたか?」
「きゃっ!」
私は飛び上がった。
振り返る。
庭園の入口にルシアンが立っていた。
「殿下……!」
「すみません。驚かせましたか?」
「驚きます!」
「そうですか」
彼は笑いながらこちらへ歩いてくる。
私は一歩下がった。
「……近づかないでください」
「まだ駄目ですか?」
「まだです」
「残念ですね」
「何がですか?」
「せっかく会えたのに」
「…………」
また、そんなことを言う。
私は視線を逸らした。
ルシアンは私の表情を見て、少しだけ笑った。
「エヴリン嬢が来ていたようですね」
「はい」
「何を話していたんですか?」
「友達になりました」
「それは良かった」
「殿下は反対しないんですか?」
「なぜ反対する必要が?」
「……いえ」
私は少し考えてから、口を開いた。
「ゲームでは、私と彼女は敵同士だったんです」
「ゲーム?」
しまった。
また言ってしまった。
「……何でもありません」
ルシアンは追及しなかった。
「あなたが彼女と仲良くしたいなら、それでいいと思います」
「ありがとうございます」
「ただ――」
「はい?」
「学院では、あなた自身も気をつけてください」
「どうして?」
「あなたは思っている以上に注目されています」
「……私が?」
「公爵令嬢であり、アルベルト殿下の婚約者。そして、ヴァロリアの第二王子とも親しくしている」
「親しく……?」
私は思わず聞き返した。
「そう見える人もいるでしょう」
「…………」
確かに。
最近、社交界で妙な噂が広がっている。
「だから、学院では今まで以上に慎重に行動したほうがいい」
「分かりました」
私は頷いた。
その時、ルシアンが空を見上げた。
「もうすぐ学院ですね」
「はい」
「楽しみですか?」
「少し怖いです」
「意外ですね」
「私だって怖い時くらいあります」
「そういうところも、あなたらしいと思います」
私は彼を見る。
「殿下は……私のことをどう思っているんですか?」
ルシアンは少し考えた。
「不思議な人」
「それだけ?」
「それから――」
彼は私を見つめた。
「もっと知りたい人です」
胸が跳ねた。
私は何も答えられない。
夕暮れの庭園に、静かな風が吹く。
学院へ行けば、きっと多くのことが変わる。
ゲームの舞台。
攻略対象。
ヒロイン。
そして、存在しないはずの王子。
私はまだ知らない。
学院で待っているのが、ゲーム通りの未来なのか。
それとも――。
私だけが知らない、新しい物語なのか。
ただ一つ確かなのは。
もう私は、「悪役令嬢」という役割だけに縛られるつもりはないということだった。




