あなたは何を知っているの?
「近づかないでください」
昨日、私はそう言った。
なのに――。
「……どうして気になるのよ」
朝の支度をしながら、私は鏡の中の自分を睨んでいた。
銀色の髪飾りを手に取る。
昨日、ルシアン殿下と会った時にも身につけていたものだ。
彼に褒められた。
それだけのことなのに、その言葉を思い出すたびに胸が落ち着かなくなる。
「私は恋なんてしない」
鏡の中の自分に言い聞かせる。
「絶対にしない」
そもそも、私にはやるべきことがある。
悪役令嬢としての運命を回避する。
攻略対象には近づかない。
ヒロインのエヴリンを傷つけない。
そして――。
ゲームに存在しないルシアンとは、できるだけ関わらない。
「これでいい」
私は髪飾りを戻そうとした。
しかし、手が止まった。
「…………」
結局、そのまま髪につける。
「これは気に入っているだけ」
また自分に言い訳をしてから、部屋を出た。
* * *
午後。
王立セイレーン学院への入学準備のため、私は王宮近くの商店街へ出かけることになった。
学院で使う魔道具や文房具、制服に合わせる小物などを揃えるためだ。
父の命を受けた護衛騎士と侍女を連れ、王都の大通りを歩く。
「随分と人が多いですね」
「学院の入学時期ですからね」
侍女が答える。
通りには貴族だけではなく、商人や魔法道具を扱う職人、学生らしき若者たちもいる。
色鮮やかな魔法石。
空中に浮かぶ広告板。
小さな魔法生物を売る店。
以前の世界では絶対に見ることのできなかった光景だった。
「……やっぱり、この世界はゲームよりずっと広い」
私は周囲を見渡した。
ゲームの舞台は主に王宮と学院だった。
でも、この街にはゲームに登場しなかった人々が普通に暮らしている。
それを考えると、少し不思議な気持ちになる。
私は物語の中にいるのではない。
ここには、ここで生きている人たちがいる。
「お嬢様」
侍女が声をかける。
「どうしました?」
「あちらに魔法具のお店があります」
「行ってみましょう」
店へ向かおうとした、その時だった。
「――リヴィア嬢?」
聞き覚えのある声。
私は足を止めた。
振り返る。
「……殿下」
そこにいたのはルシアンだった。
濃紺の服に身を包み、数人の護衛を連れている。
「偶然ですね」
「……そうですね」
昨日、近づかないでほしいと言ったばかりなのに。
どうして今日も会うのだろう。
「学院の準備ですか?」
「はい」
「私も少し用事があって、この辺りへ来ていました」
私は頷いた。
「では、私はこれで――」
その場を離れようとする。
しかし。
「リヴィア嬢」
「はい?」
「昨日のことですが」
私は振り返った。
「何でしょう?」
ルシアンは少し真剣な表情をしていた。
「あなたは、運命を変えたいと言いましたね」
「……はい」
「どうしてですか?」
心臓が跳ねる。
「それは……」
答えられない。
「自分の未来を、自分で選びたいからです」
「それだけですか?」
「…………」
彼の視線から逃げる。
「はい」
ルシアンはしばらく私を見つめていた。
そして静かに言った。
「あなたは、何かを知っている」
「…………!」
私は顔を上げた。
「どうして……そう思うんですか?」
「あなたの反応です」
ルシアンは一歩も近づかない。
昨日の約束を守っている。
「私を見る時、あなたはまるで、私が何者なのか知っているような顔をする」
「そんなこと……」
「それだけではありません」
彼は続ける。
「先日の毒事件でも、あなたはエヴリン嬢が危険だと分かっていた」
「偶然です」
「そして、私が存在しないと言った」
「…………」
しまった。
あの言葉を、彼は覚えている。
「リヴィア嬢」
ルシアンの声が低くなる。
「あなたは、何を知っているのですか?」
私は答えられなかった。
ゲームのことを話せばいい?
前世のことまで話す?
そんなことをすれば、きっと私は変な人間だと思われる。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
「でも……」
私は胸の前で手を握った。
「今は、話せません」
ルシアンは黙っていた。
怒っているのかもしれない。
そう思った。
けれど。
「分かりました」
意外にも、彼は穏やかに答えた。
「話したくないなら、無理に聞きません」
「……ありがとうございます」
「ただ、一つだけ」
「はい?」
「私はあなたが何かを隠していることより、それを一人で抱えていることのほうが気になります」
「…………」
「もし困った時は、私を頼ってください」
胸が締めつけられる。
どうして。
どうしてこの人は、こんなに優しいのだろう。
私は彼を避けたい。
関われば未来が変わる。
それなのに――。
「……殿下」
「はい?」
「どうして私にそこまでしてくれるんですか?」
ルシアンは少し考えた。
そして、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「あなたが気になるからです」
「…………」
また、その言葉。
けれど今回は、からかっているようには見えなかった。
「それに」
彼は空を見上げる。
「あなたと話していると、私自身も知らなかった何かが見つかる気がするんです」
「殿下自身も……?」
「ええ」
私はその言葉を聞いて、ふと疑問を抱いた。
もしかすると――。
ルシアン自身も、自分の置かれている状況に違和感を持っているのではないだろうか。
ゲームに存在しなかった彼。
そして、ゲームの世界を知っている私。
もし彼が何かを知っているのなら。
私たちは、互いに知らない秘密を抱えていることになる。
「……殿下」
「何でしょう?」
「いつか、私も聞いていいですか?」
「何を?」
「殿下が知っていることを」
ルシアンは少し驚いた顔をした。
それから、優しく笑った。
「もちろんです」
その笑顔を見た瞬間。
私は気づいてしまった。
私は彼を避けようとしている。
なのに――。
少しずつ、彼のことを知りたいと思い始めている。
それが恋なのかどうかは、まだ分からない。
でも一つだけ確かなことがあった。
私の知らない物語の中で。
ルシアン・ヴァルクレストという存在は、確実に私の未来へ入り込んでいた。




