王子様に助けられました
夜の庭園は、昼間とはまるで別の場所のようだった。
王宮の大広間から漏れてくる光が、遠くの石畳を淡く照らしている。
庭園には誰もいない。
色とりどりの薔薇が咲く花壇の間を、細い石造りの道が伸びている。
ところどころに設置された魔法灯が、青白い光を放っていた。
私はその道をゆっくり歩いていた。
「……本当に来てしまった」
さっきまで大勢の貴族がいた場所を離れ、一人になると急に緊張してきた。
ルシアン殿下は、私に何を話したいのだろう。
毒事件のこと?
私がゲームについて知っていること?
それとも――。
「婚約の話……?」
思わず足が止まった。
父から聞いた、あの話。
ルシアンとの婚姻。
まだ候補の一人に名前が挙がっただけ。
正式な話ですらない。
それなのに、どうしてこんなに気になってしまうのだろう。
「……落ち着いて、リヴィア」
私は胸元に手を置いた。
「これは政略結婚の話。恋愛とは関係ない」
自分に言い聞かせる。
そう。
恋愛ではない。
私は恋をするつもりなんてない。
特に、ゲームに存在しない人物なんて――。
「何を一人で話しているんですか?」
「きゃっ!」
突然、背後から声がした。
私は驚いて振り返った。
そこにはルシアンが立っていた。
「で、殿下……!」
「こんばんは」
「いつからそこに……?」
「少し前からです」
「聞いていたんですか?」
「ええ」
「…………」
顔が熱くなる。
最悪だ。
よりによって、全部聞かれていた。
「恋愛とは関係ない、ですか」
「忘れてください!」
「難しいですね」
ルシアンは楽しそうに笑った。
「殿下……」
「冗談です」
彼は少し離れた場所に立った。
先ほどまでの晩餐会とは違い、今は王族としての威厳を少しだけ崩している。
月明かりが黒青色の髪を照らしていた。
深い青の瞳が、静かに私を見つめている。
「ここへ来てくれてありがとうございます」
「殿下が呼んだので」
「来てくれないかと思っていました」
「どうしてですか?」
「あなたは私を避けていますから」
「…………」
図星だった。
私は目を逸らした。
「避けているわけでは……」
「では?」
「……少し警戒しているだけです」
「同じようなものでは?」
「違います」
ルシアンが笑う。
私は小さくため息をついた。
「それで、話したいことというのは?」
「まず、先日の毒事件についてです」
やはり。
私は表情を引き締めた。
「犯人について、何か分かったのですか?」
「少しだけ」
ルシアンは庭園のベンチへ向かい、腰を下ろした。
私も少し距離を空けて隣に座る。
「捕らえた給仕ですが、王宮に仕えていた期間は長くありませんでした」
「新人だったのですか?」
「ええ。ですが、身元を調べると奇妙な点がありました」
「奇妙な点?」
「彼の名前で登録されている記録と、実際の出身地が一致していなかった」
私は眉を寄せた。
「偽名……?」
「その可能性があります」
「では、誰かが王宮へ送り込んだ?」
「おそらく」
静かな風が吹いた。
薔薇の花びらが一枚、地面へ落ちる。
「でも……」
私は考え込む。
「どうしてエヴリンが狙われたのでしょう?」
ルシアンは私を見る。
「そこが一番の問題です」
「…………」
ゲームでは、ただヒロインを狙った事件として描かれていた。
けれど現実では、その裏に何か別の理由があるのかもしれない。
「王宮内には、エヴリン嬢を狙う理由を持つ人物が複数います」
「複数……?」
「彼女は平民に近い商家出身でありながら、アルベルト殿下と親しくなっている」
「……なるほど」
王族との関係。
貴族社会では、それだけでも十分に政治的な意味を持つ。
「つまり、彼女がアルベルト殿下と近づくことを嫌う人間がいる?」
「可能性はあります」
私は黙った。
ゲームでは、そんな政治的な背景までは描かれていなかった。
まただ。
ゲームに描かれていなかった現実。
「……私が知っている物語では」
口にしてから、慌てて止まる。
「……何でもありません」
ルシアンは何も言わなかった。
ただ、私をじっと見ている。
「リヴィア嬢」
「はい?」
「一つ聞いてもいいですか?」
「……何でしょう?」
「あなたは、エヴリン嬢を嫌っていないのですか?」
私は目を瞬いた。
「どうしてそんなことを?」
「貴族社会では、婚約者のいる王子に別の女性が近づけば、普通は快く思わないでしょう」
「…………」
確かに。
本来のリヴィアなら、エヴリンを敵視していた。
けれど。
「私は……彼女を嫌いになる理由がありません」
「理由がない?」
「はい」
私はエヴリンの笑顔を思い出す。
「彼女は私に何もしていません。それどころか、私を心配してくれました」
「そうですか」
「だから、彼女が幸せになることを邪魔したくありません」
ルシアンはしばらく黙っていた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「あなたは変わった人ですね」
「……よく言われます」
「褒めています」
「分かりにくいです」
「では、分かりやすく言いましょう」
彼が私を見る。
「私は、そういうところが好きです」
「…………!」
一瞬、頭が真っ白になった。
「す、好きって……」
「人として、ですよ」
「…………」
私は胸を押さえた。
心臓が速い。
絶対に、今の言い方が悪い。
「殿下は本当に……」
「何でしょう?」
「人をからかうのがお好きなんですね」
「あなたの反応を見るのは楽しいです」
「やっぱり!」
私は頬を膨らませた。
するとルシアンは、少しだけ表情を柔らかくした。
「でも、今の言葉は本心ですよ」
「…………」
私は返事ができなかった。
その時だった。
――カチッ。
小さな音がした。
私は反射的に振り向く。
庭園の奥。
木々の向こうに、何かが動いたように見えた。
「……誰かいます」
私が立ち上がる。
「待ってください」
ルシアンも立ち上がった。
「どこです?」
「向こうです」
私は木々の間を指差した。
次の瞬間。
黒い影が走った。
「!」
私は追いかけようとした。
しかし。
「リヴィア!」
ルシアンが私の腕を掴んだ。
「危険です!」
「でも、犯人かもしれません!」
「だからこそです!」
彼は私の前に出る。
腰に差した剣へ手を伸ばした。
「下がってください」
「殿下……」
黒い影が遠ざかっていく。
ルシアンは一瞬で状況を判断すると、近くの騎士へ向かって声を上げた。
「そこの道を封鎖しろ! 逃がすな!」
「はい!」
騎士たちが走り出す。
しかし、影は庭園の奥へ消えてしまった。
「……逃げられた」
私は悔しそうに呟いた。
「無理に追わなくて正解でした」
「でも……」
「あなたに何かあったら、私は困ります」
「…………」
まただ。
どうしてこの人は、こんなことを平然と言えるのだろう。
私は視線を逸らした。
「殿下は……変な人です」
「そうですか?」
「はい」
「では、あなたにとって私は、どんな人ですか?」
「…………」
答えようとして、言葉に詰まった。
ゲームには存在しない王子。
私の未来を変えるかもしれない人。
私が警戒している人。
それなのに――。
一緒にいると、なぜか安心する人。
「……分かりません」
私は正直に答えた。
ルシアンは少しだけ笑った。
「それで十分です」
「え?」
「急いで答えを出す必要はありません」
月明かりの下で、彼の青い瞳が優しく細められる。
「これから、少しずつ知っていけばいい」
私は何も言えなかった。
胸の奥が、また騒がしくなる。
私は恋をするつもりなんてない。
そう決めている。
なのに。
この人といる時間が、少しだけ心地いいと思ってしまう。
それが何を意味するのか。
今の私には、まだ分からなかった。




