振子は揺れない
「なんで今日は来てくれたの?」
1つ年上のバイト先の先輩は僕の手を握った。
何も言わずに彼女を抱きしめる。
「もう、こういうときくらいはちゃんと応えて欲しいな」
もう一回できる?と聞かれて頷いた。
甘い声を漏らしながら身体を絡ませる。
綺麗な身体をしているな、と思った。
綺麗に抜けているデコルテ。
柔らかい肩。
形の整った胸。
メリハリのあるウエスト。
子供の頃から相当周りに可愛がられてきたはず。
でもそれだけ。
この人のことを好きになることはないし、付き合うこともない。
嬌声の輪郭を曖昧にさせるベッドの軋む音に耳を澄ませながら、他のことに意識を逸らす。
僕、宮永悠には何もなかった。
学もない。
モラルもない。
コミュニケーション能力もない。
でも他の人よりも抜群に優れていたものが1つあった。
それが容姿。
僕みたいなどうしようもない人間がなんとか生きてこれたのは、一重に容姿の良さがあったから。
ずっとモテていた、というわけではない。
女の子の誰かが僕に声をかけてから、堰を切ったように声をかけられるようになる。
それは小学校から今まで全く変わらない。
誰も自分の気持ちを言わないけれど、アプローチをしてくる女の子たちの様子を見ると、人間関係というのは非常に醜いものだと感じさせる。
いかに相手を出し抜くか。
相手の悪い噂を流したり、特定の1人を仲間外れにしたり。
僕からみた女性というのは、恐怖すべき対象でしかなかった。
「大丈夫?」
なんか顔色悪いみたいだけど、と尋ねる。
そして僕の頬に触れた。
「すいません。最近寝不足だったので」
「明日って予定ある?なかったらウチで休んでていいよ?」
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
シャワー借りても良いですか?と尋ねる。
「いいよ、一緒に浴びよう?」
僕の手を取る彼女の背中を見ながら浴室へと入った。
彼女が先に入る。
僕も一緒に入る寸前、鏡に映る自分の顔を見た。
気持ちの悪いほどに整った顔だった。
「悠くんって一人っ子だっけ?」
「妹が1人います」
「へぇ、いくつ?」
「今年で18です」
じゃあ高校3年生か、と彼女は呟いた。
出来の良い妹だった。
僕とは正反対。
共通点といえば容姿くらい。
「さっきも聞いたけどさ」
「なんですか?」
「なんで今日は来てくれたの?」
シャワーを止めてまっすぐこちらを見る。
鏡に映る彼女の背中を見た。
浮き出る肩甲骨に焦点を合わせる。
「いつもは用事があるとか言って、誘っても来てくれなかったじゃん」
今日初めて彼女と出かけた。
気合の入ったメイクと服装から、本当に僕のことを意識してるんだなっていうのはひしひしと伝わった。
「でも今日は行きますって即答してくれたよね?」
それって何か理由があるの? と僕の頭に腕を回しながら尋ねる。
理由はある。
でも、それを伝えると彼女を傷つけてしまうのは明らかだった。
「先輩のこと、前から気になってたからですよ」
予定が合わなかったのは本当です、と伝えてから唇を重ねる。
「…じゃあ、これからも誘ったら来てくれる?」
キスの合間に彼女は上目遣いで聞いてきた。
その質問には応えずに彼女を抱きしめた。
「今日は大学なんだっけ?」
「はい」
「講義が終わった後、来ても良いよ?」
今日は私、全休だから、と付け加える。
「ありがとうございます。また今度来ますね」
そういって僕は彼女の家から出た。
今日は僕も全休だった。
彼女の家にいるのがしんどくなって、嘘をついて家から抜け出した。
「いった…」
背中あたりの筋肉が痛む。
久しぶりに身体を激しく動かしたからだろう。
タクシーを呼んだ。
「お客さん、良い香りしますね」
「そうですか?」
コンビニに一旦寄ってから、ここまでお願いします、と言ってからスマホを取り出す。
首あたりを軽く擦り、匂いを確かめる。
ベルガモットの爽やかな匂いがした。
「最近の若い男の人は香水を付けたりするそうですね」
「はぁ」
「ウチの息子もそうなんですよ」
お喋り好きなタクシードライバーに当たったみたいだ。
ときおり相槌を打ちながらスマホに視線を向ける。
着信が一件来ていた。
さっきまで一緒にいた先輩からだった。
次はいつ会える?という内容と、切迫感を逃がすためのファンシーなウサギのスタンプ。
「…そうじゃないんだよなぁ」
僕の小さな呟きは、タクシードライバーの耳には届かなかったみたいだ。
コンビニで飲み物を買ってからタクシーに戻る。
確かにタクシー内には柑橘系の匂いが充満していた。
おそらく、シャワーに浴びて仮眠をとっていた時に、香水を付けられたのかもしれない。
先輩の香水の匂いを付けた僕が大学に行く、ということを期待していたのだろう。
独占欲の強さを感じずにはいられない。
彼女への返信は後回しにして、窓の外を眺めて時間を潰した。
家に到着した。
今いるのは妹だけ。
なるべく足音を立てないように意識して自分の部屋に向かう。
正直、あまり妹には会いたくない。
劣等感を覚えずにはいられないから。
「あれ、お兄ちゃん帰ってたんだ」
ちょうど部屋から出ようとしていた妹に声をかけられた。
「お母さんに連絡しなかったでしょ?」
結構怒ってたよ、と呟く。
大学生にもなって、外泊許可を貰わないといけないというのも良く分からない。
「普通に忘れた」
あとで謝っとく、と付け加えた。
僕には反抗期、と言うものがなかった。
自分には親に反抗する権利がないと思っていたから。
妹を横切って部屋に戻ろうとする。
「そういえば昨日の夕方、家庭教師の人が来たんだよね」
「へぇ」
とりあえず頷く。
ドアに手をかける。
「めっちゃお兄ちゃんが好きそうな香水の匂いだったよ」
「そっか」
どんな感じの匂い?と尋ねる。
妹は小さく笑ってから続ける。
「お兄ちゃんさ、マジで匂いフェチだよね」
「人並みだと思ってるけど」
「いや、マジでキモイよ?」
もし同級生にお兄ちゃんみたいな人いたら、普通に引いてたかも、と付け加える。
妹と同級生だったら距離を置いていただろうから、引かれる機会はないと思うけど。
「で、どんな感じの匂いだった?」
「あはは、マジでフェチじゃん」
そう言いつつ、妹は少し上を見ながら考える。
匂いを思い出しているのだろう。
「んーとね、重めで落ち着いた感じだったかな」
「アンバーも入ってなかった?」
「なにそれ?」
「深みのある甘い匂い」
「いやーそこまでは覚えてないかな」
「ホテルのロビーのラウンジみたいなイメージって言ったら分かる?」
「え、なに、どうしたの?」
そんなに積極的に聞いてくるなんて、と言ってこちらに好奇の視線を向けてきた。
「ごめん、普通に寝不足かも」
今言ったのは忘れて、と言って僕は自分の部屋に入った。
スマホを充電器に挿してベッドに倒れる。
正直、妹の話を聞いてから完全に眠気が覚めた。
今の自分を纏うベルガモットの匂いを打ち消すほどの「あの匂い」が頭から離れなくなっていた。
高校の頃の話。
僕は成績が良くなかった。
常に学年最下位。
宿題も出さないし授業も基本的に寝ていた。
先生からは呆れられ、他の生徒の邪魔にならないように、と後ろの席に座るように指示されていた。
そこで出会ったのが1人の女の子。
名前は振原琴子。
めちゃくちゃ可愛いということもない、どこにでもいそうな女の子だった。
振原さんとは高校3年生の数か月間、隣の席になった。
だからと言って仲良くなったわけではない。
事実、彼女とは一度も話さないまま高校を卒業した。
それでも彼女は間違いなく、僕の嗜好を捻じ曲げた。
その理由は彼女の匂い。
振原さんは毎週の金曜日、必ず香水をつけて学校に来ていた。
香水をつけることは校則で禁止されていたのにも関わらずだ。
振原さんが先生に注意されていたのかどうか知らないが、高校卒業までの数か月間、彼女は毎週の金曜日、同じ匂いの香水をつけてきていた。
彼女が窓側の席だったので、窓を開けて風が吹くと微かに香水の匂いが漂ってきた。
そして卒業式の日。
金曜日だった。
いつも通り彼女は香水をつけて学校に来ていた。
先生の話が終わって、他の生徒の様子を見てから何事もなく教室に出て行った。
彼女と話すことはできないまま終わってしまった。
「傍から見たら、マジでキモイよな…」
そういって溜め息を吐く。
話したこともない相手の匂いにここまで執着するのって普通じゃない。
妹から気持ち悪いと言われるのも当然だ。
そろそろベルガモットの匂いが気になってきた。
シャワーを浴びて匂いを落とす。
ドライヤーで髪を乾かしながら、スマホを眺めていた。
今日の朝まで一緒だった彼女から着信が3件来ていた。
ドライヤーを切ってから、電話をかける。
1コール目で出た。
「どうしたんですか?」
「いや、返信が遅いから」
「すいません、寝てて見てませんでした」
「え、でも家を出てから10分後に連絡したときは起きてたよね?」
なんで返信してくれなかったの?と尋ねられる。
「すいません、タクシーに乗ってたんですけど運転手の人の話を聞いてて」
「それでもさ、スマホは見てたでしょ?」
「まぁ、はい」
「着信もオンにしてる?」
「してます」
「それだったらすぐに気づくと思うんだけど」
「すいません」
素直に謝った。
「あーごめん、重いって思われちゃったかもだけど、悠くんのことが心配だったからさ」
迷惑だったらごめんね、と謝られた。
迷惑だと思ってるんだったら、しない方が良いですよ、という言葉は飲み込んだ。
言っても聞かなさそうだし。
「これからはできるだけ早く返信するようにするんで」
「うん」
じゃあ失礼します、と言って電話を切った。
コンビニで買ったミネラルウォーターを時間をかけて飲み干した。
数日後。
朝起きて、大学に行って、バイトに行って、家に帰るの繰り返し。
このまま社会人になっても上手くやっていける気がしない。
バイト先の先輩からは次はいつ予定が空いているか聞かれているが、なんとかごまかしている。
今日も5時上がりだった。
「私も早めに上がるから、この後一緒にご飯食べに行かない?」と誘われたけど、今日も用事があるので、と断った。
一度誘いを受けてしまった以上、断ることが前よりも難しくなっていた。
完全に僕が悪いということは承知の上だ。
あの誘いを受けた日、先輩はなぜあの匂いをしていたのか。
まさに振原さんの匂いだった。
その匂いにつられて、受け入れてしまったのだ。
家に帰りつく。
「…え?」
小さな声が漏れる。
玄関から、あの匂いが漂っていた。
ほんのり甘い温かさのある静かな匂い。
高校生のときのあの時間がフラッシュバックした。
急いで階段を駆け上がり、妹の部屋の扉をノックする。
「はーい」といういつも通りの声が返ってきた。
「ごめん、さっきまで家庭教師の人っていた?」
「いたけど」
なんで?と聞き返される。
どう説明すればいいんだ?
直接聞いてもいい?
「家庭教師の人ってどんな感じの人だった?」
「えーお兄ちゃん、あの人に興味あるの?」
普通にキモいね、と言って笑われた。
自分でもそう思う。
「で、どうなの?」
「食い下がるねぇ」
珍しいじゃん、と呟く。
「でもいきなり全部教えるのはつまらないなぁ」
だから、まずはイニシャルから教えてあげよう、と妹は言った。
「イニシャルは?」
「イニシャルはー…」
5秒ほど間を開けた。
「Hだよ」
「本当にHであってるんだよね?」
「あってるよ」
妹は大きく頷いた。
これから家庭教師が来る日に1つ、妹から情報を貰うことになった。
家庭教師の人が来るのが週に1度の金曜日だけ。
だからその日は必ず早めにバイトを上がるようになった。
1週間後。
「家庭教師の人はお兄ちゃんと同じ大学生だよ」
2週間後
「趣味は漫画を読んだりアニメを見たりすることだって」
3週間後
「休日は家で寝てることが多くって、外出することはほとんどないらしいよ」
4週間後
「苗字が知りたいの?っていうか今まで苗字を聞かないってところもどうかと思うんだけど」
「聞いたら教えてくれたの?」
「まぁ私の機嫌次第って感じかな」
「今は?」
「まぁ悪くないね」
「じゃあ、」
「その前に、コンビニのアイス、後で買ってるって約束してくれる?」
「する」
「やっば、こんなお兄ちゃん初めて見たんだけど」
めっちゃガチじゃん、と呟く。
そして一呼吸置いて妹は言った。
「苗字はね、振原だよ」
数日後。
正直、全く仕事に集中できない。
家に振原さんが来ている。
その事実が頭の中でぐるぐる廻っていた。
僕のシフトは5時まで。
そして振原さんが家庭教師として仕事をするのは4時30分まで。
どうやっても会うことができなかった。
シフトを調整するのは、次の四半期まで基本NGという良く分からないルールがあったからだ。
そしてそれが次の週から。
僕は数週間前に金曜日のシフトを木曜日に移してもらうように頼んでいた。
「ねぇ悠くん」
「なんですか?」
お疲れさまでした、と言って店から出ると、そこには先輩がいた。
「来週から木曜日だけなんだよね?」
「そうですね」
「よかった、私もシフト、木曜日も入れるようにしたから」
「そうなんですか」
この人マジか、と言う言葉は喉元まで出かかったが、なんとか抑え込むことができた。
「今日は大丈夫?」
一緒にご飯食べに行こうよ、と上目遣いで言われる。
「今日も家に帰らないといけないので」
「なんで?」
少し大きめの声で尋ねられた。
「それって用事じゃなくない?普通に家に帰るだけだったらさ」
用事はあるんだけど。
振原さんのことが聞きたいし。
「そうですね、土曜日とかならどうですか?」
代わりの案を提案してみる。
土曜日ならまだ何とかなる。
「今日が良いんだけど」
「なんでですか?」
「だってさ、ほら…」
金曜日に家に来てくれれば、土日は一緒にいられるわけだし、と小さな声で呟いた。
先輩は俯いていた。
「ね、とりあえず私の家に来ない?」
料理とか練習してるんだよ、と付け加える。
さっきと言ってることが違う。
多分、頭に浮かんだ言葉を口にしているだけなんだろう。
「先輩、ちょっと歩きませんか?」
とりあえず頭を冷やしてもらおうと思い、散歩に誘った。
「悠くんって趣味ある?」
「うーん、あんまりないですね」
漫画は偶に読むくらいかな、と呟く。
「私も漫画、読むんだよね、なんかいい作品ないかな?」
「僕もそこまで詳しいわけじゃないので、他の人に聞いたほうがいいと思いますよ」
「じゃ、じゃあ休日は何してるの?」
「基本寝てますね」
「何時に起きる?」
「遅いと正午ぐらいかな」
「同じだね、私もそのくらいだよ!」
そうなんですか、と応える。
多分、先輩がこれまで男の人にされてきた好意の示し方をそのまま僕にしている感じだろう。
共通の趣味とかを出すことで話すきっかけを増やす、みたいなやり方だ。
自動販売機が見えてきた。
あそこで頭を冷やしてもらおう。
「飲み物とか欲しくないですか?」
「欲しいけど」
「けど、なんですか?」
「私が買うから、一緒に飲もう?」
「一緒にってどういうことですか?」
先輩はそれには応えず、ミネラルウォーターを取り出して口にした。
「はい、次は悠くんの番だよ」
そういって僕にペットボトルを向ける。
「それなら自分で買いますけど、」
「いや、これを飲んで?」
ほら、と言って僕の口にペットボトルを付ける。
「ね、おいしい?」
そう呟きながら、ペットボトルを傾ける。
口から水が零れてきた。
口を離して呼吸を整える。
「あの、先輩、大丈夫ですか?」
「私は大丈夫だけど」
悠くんは大丈夫?と尋ねられた。
先輩のせいで大丈夫じゃない。
正直、危険信号が鳴りまくっている。
この人とこれ以上関わるのはマズい。
「先輩って大学で何を学んでるんでしたっけ?」
「私は経済学」
「へぇ、経済学でもミクロとマクロがありますよね」
どっちの方が面白い、とかあります?と尋ねる。
関係のない話をして落ち着かせよう。
「私のメインはミクロかな」
「どういうことをやってるんですか?」
「ゼミで輪読とか」
「へぇ、ゼミですか」
先輩は3年だから、ゼミに所属してますよね、と付け加える。
「私たちの大学は2年の後期からゼミ所属なんだよね」
「早いですね」
「うん。だからもし悠くんが同じ大学だったら、」
「2年生は何人くらいいるんですか?」
また元に戻りそうなので、先輩の話を切って質問を続ける。
「うちのゼミ、人気がないから1人だけしかいないんだよね」
「人気がないと1人だけしか配属されないってこともあるんですか?」
「うん」
私たちの学年も2人しかいないし、と付け加える。
いつもの先輩に戻った。
少し安心して話を続ける。
「少人数の方が良さそうですね」
「まぁそうかも」
大人数だと飲み会とかあって面倒だしね、と呟く。
僕もそういうのは嫌いだ。
「人数が少ないから、2年と3年は合同でやる感じなんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。だから2年生の子とはよく話すんだけどさ、その子、変わってるんだよね」
「どんな風に?」
「私たちのゼミって水曜と金曜日の午前なんだけどさ」
「はい」
頷いて話を促した。
「その子、金曜日だけ香水をつけてくるんだよね」
先輩はいつも通りの様子で言った。
片手にはペットボトルを持っている。
「あの、先輩」
「なに?」
「その人の名前とかって、」
「なんで?」
こちらが尋ねる前に聞き返された。
「世間話程度ですよ」
先輩に興味があって、ちょっと気になったって感じです、と言って誤魔化した。
「振原っていう苗字だったかな」
下の名前は覚えてないんだけど、と付け加える。
「前に違う香水の匂いだった日があったじゃないですか」
「よく覚えてるね」
あれは振原さんに香水をちょっと貸してもらったからだよ、と応えた。
雨が降ってきた。
「すいません、雨降ってきたのでそろそろ帰らないと」
そういって立ち去ろうとする僕の腕を先輩は掴んだ。
「私、折り畳み傘持ってきてるから」
入って、と言い鞄から折り畳み傘を取り出す。
「でも狭くって先輩が濡れるかも」
「大丈夫、気にしないからさ」
もし悠くんが濡れたら、私の家でシャワー浴びればいいじゃん、と付け加える。
「先輩の家ってあっちじゃないですか」
そういって僕は自分の家とは反対方向を示す。
「反対なので大丈夫ですよ」
「え、今日は私の家に来てくれないの?」
「明日なら空いてますけど」
「それ、さっきも言ってたじゃん」
今日来てって言ってるんだけど、と言って僕の腕をつかむ。
「じゃあ一旦家に帰ってからなら、」
「家に帰って何するの?」
「着替えとか持っていこうかなって」
「それなら、帰りにアパレルショップに寄ればよくない?」
私がお金出すし、と応える。
「あの本当にすみません、今日は家族との予定があるので」
「何の予定?」
「今日は家族と一緒にご飯を食べる日って決めてて、」
「いや、絶対嘘だよね、それ」
なんで嘘吐くの?と僕の腕を力いっぱい握りしめられる。
めっちゃ痛い。
「え、本当になんで嘘吐いたの?」
「本当に違くって」
「それも嘘じゃん。なんで?私変なこと言ってないよね?」
言ってるでしょ。
「私、悠くんに嫌われるようなことしてないよね?」
「まぁ、はい」
「『まぁ』ってなに?そこはすぐに『はい』って言って欲しいんだけど」
「すみません」
「すみませんじゃなくってさ、『はい』だって」
「はい」
力が少し緩んだ。
「じゃあ一緒に来てくれるよね?」
「あの先輩、ずっと気になってたんですけど」
「うん、なに?」
何事もなかったかのように先輩は尋ねる。
できるだけ滑らかに話を変えた。
「なんで僕なんですか?」
「それってどういう意味?」
「正直言って僕、先輩なんかに釣り合わないと思うんですけど」
「え、そんなことないよ?」
だって悠くん、めっちゃかっこいいじゃん、と零す。
「かっこいいから僕、って感じですか?」
「いや、そんなことないよ?」
ほら、浮気しなさそうだし、と付け加える。
浮気するっていうか、そもそも付き合うつもりがないんだけど。
「とりあえずさ、私の家に行こうよ」
雨の中にいると折り畳み傘の中でも風邪ひいちゃうしさ、と言って僕の腕をつかんだ。
「すみません、本当に今日のところはここで帰らせてください」
帰ってから連絡するので、と言って先輩の腕を振りほどき全力で逃げた。
後ろから走ってくる足音が少し聞こえたが、しばらくすると聞こえなくなった。
家に着いた。
「え、お兄ちゃん、傘持ってきてなかったの?」
「途中で雨が降ってきたから」
すぐにシャワーを浴びたおかげで、風邪は引かなかった。
髪を乾かしてからスマホの電源を付ける。
先輩からの連絡が来ていた。
表示は99+。
1時間の間に100件以上送信していたということになる。
その内容を要約すれば『私が悪かったから、嫌いにならないで』みたいな感じ。
既読をすると、さらにヒートアップしそうなので放置した。
その日の夜。
「今日はまだ、振原さんのこと聞いてないんだけど」
妹の部屋にノックして入った。
この部屋に入ったのは数年ぶりだった。
「なんか普通に入ってきたのが気になるけど」
まぁそこはいいとして、と言って妹は続ける。
「なんでそんなに興味があるの?」
そういえば聞くの忘れてたんだけど、と付け加える。
「匂いが好きだからだよ」
「それだけでそんなに興味持つ?」
お兄ちゃんって人に全然興味ないじゃん、と呟く。
正しい。
「振原さんってその話なにもしてきてない?」
「その話ってどの話?」
「…高校の頃とか」
別に妹に言っても問題はないと思うが、一応情報は小出しにしておく。
「高校の話とか聞いたことないね」
雑談もあまりしないし、と付け加える。
「それで?」
「それでってなに?」
僕は聞き返す。
「なんで高校の話が出てくるの?」
「…振原さんと同じクラスだったから、かな」
「えーマジ?!」
かなり驚いた様子だった。
「でもそんな話、一回も聞いたことないよ?」
「普通なら、そういう話しそうだけど」
「もしかしてお兄ちゃんってさ、」
「いや、そういうのじゃなくって」
「そういうのってなに?」
説明するのも面倒だったので、僕は自分の部屋に戻った。
週末はスマホをなるべく見ないで過ごすことにした。
スマホを見るのが怖かった。
その間、振原さんのことを考えていた。
なんで高校の話をしないんだ?
僕のことを忘れてる?
いや、でも僕と妹ってかなり顔が似てるし、全く気付かないってことはないはず。
じゃあ気づいてるけど、あえてその話をしていないってことか?
1人で考えてもしょうがない。
来週の金曜日、僕は終日自宅にいることに決めた。
木曜日。
「こんにちは、悠くん!」
いつも通りの様子で先輩に声をかけられた。
「バイトって5時上がりだよね?」
「はい」
「今日は大丈夫だよね?」
「…」
「今日は大丈夫だよね?」
「あの、先輩、まだバイト中なんで…」
通る客から変な目で見られている。
「じゃあバイトが終わった後なら大丈夫?」
「まぁ、ご飯を食べに行くくらいなら…」
良かった、と呟いて先輩は離れて行った。
バイトが終わった。
「じゃあ悠くん、一緒に行こっか」
先輩はタクシーを捕まえ、街の中心部に向かう。
その間、僕はずっと先輩に腕を掴まれていた。
「何か頼みたいのある?」
「とくにないですけど」
「えーじゃあ私はこれ注文するから、悠くんはこれ注文してよ」
半分にして一緒に食べよ? と言ってこっちを見る。
注文をしてから沈黙が生まれる。
「先週はごめんね」
そういって先輩は頭を下げた。
「なんか私、1人で盛り上がっちゃってたかも」
悠くんに迷惑をかけるつもりじゃなかったんだけど、と呟く。
「子供のころから、のめり込んじゃうタイプだったんだよね」
「そうなんですか」
とりあえず頷く。
「高校の頃とか、付き合ってもすぐにフラれて長続きしなかったんだよ」
実際、そういう感じに見える。
「大学生になってからバイトを始めて、色んな人に声をかけられるようになったんだけど、長続きしなさそうだなって思って全部断ってたんだよね」
でも、と言って続ける。
「悠くんを初めて見たとき、かっこいいっていうのはもちろんだけど、私のこともちゃんと受け入れてくれそうだなって思ったんだよ」
「…」
「それから、ファッションとかメイクにもっと時間を使うようになったり、勇気を出してお出かけに誘ったりするようになったんだ」
今日は大学の講義を休んで、2時間かけてメイクしたんだよ? と付け加える。
確かに、目の前の先輩は今まで出会った誰よりも綺麗だった。
「だから、その…」
「お熱いのでお気をつけて召し上がってください」
先輩が言葉を選んでいる間に注文の品が届いた。
先輩は「あ、ありがとうございます!」と笑顔で受け取る。
「…とりあえず、食べましょうか」
「…そうだね」
僕たちは無言で料理を食べる。
他の席とは正反対だ。
先輩はこちらをちらちら見ながら丁寧に食べていた。
食べ終わった。
「でね?さっきの話なんだけど」
そういって先輩は話始める。
「悠くんから見た私ってさ、ちゃんと可愛い?」
「可愛いですよ」
正直に応える。
「それなら私、悠くんの彼女になれるかな?」
伏し目がちに先輩は呟いた。
多分先輩も何度も告白されてきたはず。
でも、初めて自分から告白をしたのかもしれない。
「この話、人にしたことほとんどないんですけど」
「うん」
「僕、容姿よりもその人の匂いのほうが重要だと思ってるんです」
「それで?」
「先輩は僕が見た女性の中で断トツで綺麗だと思います。でも、僕の好きな匂いかって言われると…」
「え、私、今断られてる?」
「すいません」
「ちょっと悠くん冷静になって?」
「僕は大丈夫なんですけど、」
「いや、大丈夫じゃないでしょ」
そういって先輩は対面の席から隣の席に移る。
「風邪とか引いてないよね?」
僕の額に手を当てる。
「え、どういうこと?」
ちゃんと説明して、と話を促された。
「先輩は可愛いと思いますけど、匂いはそこまで好きじゃないってことです」
「え、じゃあ匂いを変えれば付き合ってくれるんだよね?」
そういうことでもないんだけど。
「とりあえず、どの香水が好きか教えてくれる?」
「僕もそれがどの香水なのか良く分からないんですけど、」
「分からないなら、今から探しに行こう?」
まだお店開いてる時間帯だし、と言って僕の手を引く。
「あの先輩!」
少し大きめの声を出した。
先輩は静かになる。
「僕、女の人のことが怖いんです」
「私も怖いの?」
僕はゆっくり頷く。
「なんで?」
「先輩が、っていうわけじゃなくって、何かを手に入れるために相手を犠牲にしたり、自分を必要以上に良く見せようとしている感じが、どうしても好きになれなくって…」
「じゃあどうやったらいいの?!」
店舗中に先輩の声が響き渡った。
周りが一斉に静かになる。
「こんなに悠くんのこと好きなのに、なんで付き合ってくれないの?!」
「いや、その、」
「前に私の家に来てくれたじゃん、あれは何だったの?!」
あの日、どれだけ私が嬉しかったか分かってる?と付け加える。
「女の人のことが怖いって言うクセに、私とセックスしたわけじゃん。あれってなに? 結局、ヤりたいから適当なこと言って重そうだって思ったら捨てるの?」
そういって先輩は泣き始めた。
店員がこちらの様子を伺っている。
「…とりあえず外に出ましょうか」
ここは僕が払うんで、と言って会計を済ませて外に出る。
ここで先輩の家に行くのはマズい。
とりあえず、腰かけることができそうな場所を探した。
ベンチに腰掛ける。
「あの、本当にすいません」
「…」
先輩は何も言わない。
「先輩の家に行った日あったじゃないですか」
先輩は黙って頷く。
「あの時の香水が僕の好きな匂いなんです」
「…どういうこと?」
「多分なんですけど、先輩のゼミにいる振原さんって僕が高校のときのクラスメイトなんです」
それで、と話を促す。
「あの匂いがずっと好きで、先輩がその匂いをしていたから、あの日先輩の誘いを受けたって感じなんです」
「…そうなんだ」
しばらく間が空いた。
「じゃあさ、もし私がいつもの香水をつけてたら、いつも通り断ってた?」
僕はゆっくり頷く。
「あーマジか…」
そういって先輩は上を見上げる。
数十分、先輩は何も言わずに空を眺めていた。
僕はずっと俯いていた。
「ごめんね悠くん」
唐突に彼女は呟いた。
「やっぱり私、のめり込んじゃうところがあるみたい」
「…」
僕は何も言わなかった。
そして先輩は立ち上がった。
「これからは普通に接するから、私のことは嫌いにならないで欲しいな」
シフトが被っても逃げるようなことはしないで、と呟く。
僕は頷いた。
「じゃあ私、帰るから」
「はい」
気を付けて、と彼女の顔を見ないで言った。
先輩はタクシーを拾って、自分の家に帰っていった。
僕も数分間は空を眺めてから、家に戻った。
翌日の金曜日。
先輩からは『本当に昨日はごめんね。これからちゃんとするから』と連絡が来ていた。
どう返事をすればいいか考えているころに、玄関からチャイムが鳴った。
妹が階段を下り扉を開ける音と、階段を上る2人の足音が聞こえる。
妹には「帰りのときにちょっとだけ振原さんと話させてほしい」とお願いした。
コンビニでアイスを2本買ってくれればOKと言われたので、午前中にアイスを買ってきた。
そして1時間、振原さんは妹に英語を教える。
話声が聞こえるが、振原さんの声を聞いたことがないので良く分からない。
その間に先輩には『これからもよろしくお願いします』と返信した。
4時30分。
妹が部屋に入ってきた。
「お兄ちゃんのこと、何も説明してないけどそれでよかったの?」
「うん」
「じゃあ私、5分だけ席を外すから、その間は話してていいよ」
じゃあどうぞ、と言って妹はリビングに降りて行った。
自分の部屋から出て、妹の部屋に向かう。
歩いて3歩。
しかしその一歩一歩は重かった。
妹の部屋の扉の前に立つ。
こういう時って何回ノックするべきなのかな。
ちゃんと調べておけばよかった。
とりあえず3回ノックをする。
「別に私の部屋じゃないので、普通に入ってきていいですよ?」
と返ってきた。
「すいません、失礼します」
そういって扉を開ける。
最初に届いたのは、あの高校生の頃と同じ匂い。
重めで色気のある香り。
そして振原さんの顔を見る。
「宮永くんだよね?」
そこにいたのは、高校の頃より少し大人びた振原さんだった。
「そうです」
そう言いながら僕は部屋に入った。
「なんか話があるって聞いたんだけど?」
「あー、すいません、話っていうか…」
正直、何を話せばいいか分からなかった。
話したい事はたくさんある。
でも、限られた時間のなかで何をどう話せばいいのか、頭が真っ白になっていた。
「そんな挙動不審な感じだったっけ?」
そういって振原さんは笑う。
時計を確認する。
あと、2分しかない。
「とりあえず聞きたいんですけど」
「なに?」
「どのタイミングで気づいたんですか?」
僕の妹だって、と尋ねる。
「あー最初に来たときかな」
家の名札に『宮永』って書いてあって、妹さんの顔が宮永くんに似てたからもしかしてって、と説明する。
「でも、何も聞かなかったんですよね?」
妹には、と付け加える。
「まぁ、仕事だし」
生徒のプライベートを詮索するのって良くないから、と呟く。
「他に何か聞きたいことはある?」
そういって振原さんはこちらを見る。
「振原さんってなんで金曜日だけ香水をつけてるんですか?」
「なんでって言われても説明しにくいんだけど…」
そういって考え始めた。
「…あの、高校のときも付けてたじゃないですか」
「こっそりつけてたね」
「あのときから、気になってて…」
「私のことが?」
「まぁそうです…」
僕は頷いた。
「それなら、私の作戦は成功だったかな」
「作戦って…?」
「5分経ったよー!」
足音も立てずに妹が入ってきたのでびっくりした。
「もう振原さんは帰るから」
お兄ちゃんは出て行って、と言われた。
「じゃあ、玄関までなら」
「え、そんなこといつものお兄ちゃんならしないじゃん」
珍しいことするね、という妹の呟きを聞き流し、僕は振原さんを玄関まで送った。
「えーと、じゃあ振原さん、また今度、かな?」
「これから宮永くんはこの時間帯いるの?」
「多分いると思う」
振原さんの時間帯に合わせるつもりだし。
へぇ、と言って振原さんは僕を眺めた。
「なんか高校の頃と変わったね、宮永くん」
「そうかな」
「人間っぽくなった?」
「もともと人間だけど」
「なんか人の温かさを手に入れた感じがするね」
それは振原さんの匂いのおかげだと思う。
じゃあまた、と言って振原さんは扉の取っ手に手をかけた。
「あ、最後に1個、聞いても良いんですか?」
「いいよ」
なに?と言ってこちらに振り向いた。
「振原さんが使ってる香水の名前、教えてもらっても良いですか?」
少し考えてから、振原さんは言った。
「まだ教えてあげない」
もっと仲良くなってからかな、と言って振原さんは出て行った。
しばらくの間、彼女の匂いが消えずに残っていた。
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