そして裸眼はいなくなった
「誰か! 誰か女性用の予備のメガネをお持ちの方はいらっしゃいませんか?」
咳き込みながら床に力なく横たわる女性を助け起こし、スーツを着た男性が叫ぶ。女性の側には踏まれて再起不能となった濃紺のメガネが一つ転がっている。通勤ラッシュ時の大きな駅の構内、周りを行き交う人々は男の声を聞いて様々な反応を見せる。
その場に立ち止まり心配そうに眺める者、横目に見ながら通り過ぎる者、我関せずで見向きもしない者、スマートフォンで動画を撮る者、急いで駅員を探しに行く者、カバンの中の予備のメガネを確認する者。
人によって反応は異なるが、倒れる女性以外全員に共通することがあった。皆、メガネをかけていることだ。
『致死率100%』
この数字は決して大袈裟なものではなく、感染した者の命を確実に奪うウイルスが現れる。その名も『G-Virus』。感染すると24時間以内に、『咳が止まらなくなる』、『痰が絡む』、『息切れしやすくなる』、『突然息苦しさを感じる』、『発熱』、『胸の痛み』、といった呼吸器障害を始めとする様々な症状が現れ、早ければ発症後二日、長くても七日で死に至る。感染経路は空気感染と言われているが確証はなく、完全に隔離された空間でも感染が確認されている。
このウイルスには奇妙な特徴があった。それは、症状が現れると同時に、目の周りに『メガネをかけたかのようなアザができる』ことだ。嘘みたいな話だが、G-VirusのG はglasses、『メガネ』から来ている。
現在G-Virusに対して特効薬はなく、一度発症すると治ることはない。症状がどんどん悪化して、最終的に黒縁メガネをかけているようなくっきりとしたアザが浮かび息絶える。
だが、そんな奇病にはさらに奇妙な特徴があった。それはメガネをかけると目の周りのアザが消え、呼吸器障害も鳴りを潜めるという特徴だ。そして、不思議なことにもともとメガネをかけている人の感染事例はゼロだった。
「未知なる脅威、宇宙人の侵略か?」
「過激派によるバイオテロだろう」
「政府が暗躍しているに違いない」
G-Virusが流行り始めた頃、様々な憶測が飛び交った。まだ誰も何もわからないのに、想像で無責任な発言を繰り返すコメンテーターたちにより、誤った情報が一人歩きし、世界は一時期混乱に陥った。
しかし、時間が経つにつれてウイルスについて研究が進み、詳細はわからないものの自然発生したウイルスということが判明する。WHOも初動は遅かったが自然発生したウイルスで特定の国に責任があるものではないと声明を発表。特効薬はないが対処療法としてメガネを着用するように世界に訴えた。
メガネで病気が治るなんてあり得ないと多くの人が懐疑的な目で見ていたが、その効果を目の当たりにすると、首を傾げつつもWHOの声明を信じることとなった。
G-Virusが発現して三年目、世界はウイルスと共存しながらも新たな局面を迎える。
一つ目はファッションとしてのメガネの地位の向上だ。もともとファッションアイテムとしても扱われていたが、コンタクト利用者の減少と、単純に使用者の激増によってメガネ市場は急拡大。治療用としてではなく、おしゃれに対するニーズも相まってファッション性が高まっていた。
子どもも五歳になると症状が発現することがわかり、子ども用のメガネのマーケットも拡大し、メガネマーケットに参入する企業も増加。今では100円均一ショップでも様々なメガネの購入が可能となった。
次にメガネを奪われ命を落とす人が増えた。メガネを外すだけで感染者は呼吸器障害が発生するため、事故に見せかけた殺人事件が後を絶たなくなり、警察を悩ませていた。
また、警察内でも事情聴取の際に一部の捜査官が強制的に自白させるため、被疑者からメガネを奪っているという事案が発覚。世界でも同様の事例が報告されており、メガネの扱い方について考え方を改めるべきだと声が強まっていた。
「いい世界になった」
ウイルスによって一時は混乱し、今も課題が多く残る世界にも関わらず、『いい世界』だと言い切る人が少なからずいた。それはメガネフェチたちだ。
どこを見てもみんなメガネ。大半の人がメガネを落としても問題がないよう予備のメガネをメガネケースに入れて持ち歩き、テレビをつけるとバラエティの司会からニュースのアナウンサー、CMに出ている俳優もみんなメガネ。この激変した世界にメガネフェチたちは歓喜していた。
時を同じくして、ある都市伝説がオカルト界隈で注目を集めていた。日本のある霊山で何年も修業を積んだ霊能者の孫の腐女子が、G-Virusは神の推し活を拗らせた結果だと話しているという。
なんでも、ウイルスの影響で推しがメガネを着用するようになり、メガネフェチに目覚めた彼女は、メガネの素晴らしさを気づかせてくれたウイルスに毎朝感謝をするようになったそうだ。
そんな彼女が二年ほど日課のように毎朝ウイルスに感謝の祈りを捧げ続けていると、ある朝の祈り時間、急に視界が明るくなり、突然光り輝く女が目の前に現れたそうだ。その女は自らを神と名乗り、今後も毎朝祈りを続けるよう彼女に言った。
輝きにより顔はよく見えないが、本能的に目の前にいる女が本物の神だと理解した彼女は、すぐに跪くとG-Virusのおかげでメガネの魅力を理解できたと感謝を述べ、今後も毎朝祈りを続けることを誓った。
「わかってるじゃない、メガネはいいわよね。でも、もっと人類はあなたのようにメガネの良さを理解すべきだと思うの」
神はそう言ってから「まあ、今回のはちょっとやりすぎちゃったかなあとも思ってたんだけどね」、と少し申し訳なさそうに手を頬に当てた。そんな何か話したそうな神を見て、彼女はどうしてG-Virusを世界に広めたのか神に尋ねた。
「メガネをかけさせたかったの」
「メガネをかけさせたかった?」
「そう、推しの俳優のね、メガネ姿が見たかったの。でも、なかなか掛けてくれなくてね、視力を下げたらコンタクトをするし、ドラマでメガネの配役につけようとしても上手くいかなかったから、メガネをかけざるを得ない環境を作ることにしたのよ」
そんな理由で、と声をあげたくなったが、光り輝く神の姿を見ていると、とてもそんなこと口が裂けても言えなかったという。神の前では人間は無力だと、本能的に理解した彼女は、女神の話にただ「それはいいアイデアでしたね」と話を合わせるしかなかった。
「でしょう? あなたならそう言ってくれると思ってたわ。でも、本当にこんなに大事になるとは思ってなかったよね。まあ、私は彼のメガネ姿が見られて満足なんだけど。さて、次は何をさせようかしら……」
神はそう言って音もなく一瞬で姿を消したそうだ。
G-Virus発生以降、今のところ新しい奇妙な病は出現していない。しかし、それは時間の問題ではないかとオカルト界隈ではもっぱらの噂である。