三
「君、君」
ごま塩髭を生やした男が助手を呼んだ。
「はい、先生、何でしょう」
「そこに積んである本の中から『夕方の霧』を持ってきてくれたまえ」
「一宮稔彦先生のデビュー作ですね」
「そうだ、一宮くんのだ」
助手は先生の元へ、速やかに届けた。
「先生、でも、何で今になって……楠橋の件ですか」
「そうだ。楠橋くんだ」
先生は鷹揚な調子で答え、本を開いた。
「あり得るでしょうか。一宮先生が生まれ変わっただなんて」
「あり得るかどうか、これから私が鑑定するのだ」
先生は老眼鏡を装着する。
「鑑定するって、」
助手は一旦言葉を切る。
「どうやるんですか」
「何、読めば分かるものだ」
先生はすると、ぶつぶつ物を言いながら、書に目を通し始めた。特段集中しているらしいから、助手も声をかけるのを諦める。
そこは立派な書斎である。書斎が立派となるには、やはり本が幾冊も整然と棚に並んでいなくてはなるまい。だから、この部屋もそのとおりである。天井近くまでの背丈のあるものが、余すところ無く背表紙に埋まっている。それが壁を所狭しと支配しているのだから、助手は見回して目眩を起こしそうになる。
そのある区画へ寄って、本を撫でながら目当てを探し当てようとする——『一宮稔彦』の作者名で指が止まった。で、器用に片手でその一冊、二冊……を抜いてくる。ふと振り返って、先生はまだぶつぶつ言っている。だから、ひとまず自分も、その『鑑定』とやらに挑戦してみることにした。
助手は、一宮の著書を一通り読んだ事がある。よって、『鑑定』をやる資格はあるはずだ、と自身に言い聞かせた。——ここで、助手は重大な事に初めて気がついた。普通、楠橋が一宮の生まれ変わりかどうか確かめるなら、一宮と合わせて、楠橋も読まねばなるまい。先生をよく見ると、手元に楠橋の処女作を置いてある。楠橋はこの書斎に蔵されていないから、先生が最近自ら買ってきたものだろうと思われる。助手は楠橋の本が無くて窮した。自分も買いに行こうと思い立つのに、そう時間はかからなかった。
「先生、出かけてきます」と声かけると「ん」と返事が聞こえたが、恐らく紙面より目を離した途端、「あの子はどこへ行った」とでも独り言つに違いないと、助手は十分理解しながら外へ出る。
寒い。季節は日本の冬だ。地球温暖化などと言われるが、冬はちっとも暖かくない。助手は毎度、寒いと思うとこう文句を垂れる。近くの本屋へ、歩きで行く。
入店し、途端に防寒具が邪魔となり、ネックウォーマーを歩きながら脱いで、ピタリと足を止めると、楠橋の所だけ空いていた。助手はうっかり者である。楠橋の本は、一連のいざこざで出版差し止めである。助手は、この現状を、目の前にすることでやっと思い出した。
仕方無く踵を返す。帰り着くと、先生がこちらに素朴の顔を向けている。口は半開きにして、目は少しも何かを探っていない。
「手ぶらかね」
「はあ」
暫く先生は詮索をしない。助手も部屋を漂っている。あちこち泳ぎ回っている助手を見かねた先生は、
「何だね」と問いかける。
「いえ」
「楠橋くんを読みたいのかね」
助手は、心中を悟られた! と思う。矜持を持たぬ助手は、「はい!」と元気よく受け答える。先生は満足げ「よし」と応じてやる。本をもらいながら助手は、「生まれ変わりかどうかは分かりましたか」と問う。
「いや、違うだろう」
先生は明らかに否定する。
「どうしてです?」
「どうしても何も、勘だよ」
「勘だって……」
「君も勘で鑑定してみるがよい」
助手は、言われなくともそのつもりである。いざ、そこら辺の席に落ち着いて、楠橋の本に目を通す。すると、何だか一宮の新作を読んでいる気になった。我に返って表紙に立ち戻ると、作者名の欄には楠橋としっかり刻まれている。これはどうしたことだと思って、次へ読み進める。
例えば、楠橋の言葉遣いは一宮と酷似している。いや、似ていると言うものでは無い。全く同一である。『確と』と言う形容や『把握』と言う名詞一つずつ取り上げてみても、一宮が選択しそうな言葉が取り上げられている。
助手は覚えず興奮の面持ちで、「先生!」と向き合った。
「先生! これは、楠橋は、一宮先生ですよ」
「いや、違う」
「違うったって、文章の体裁も物語のつくりも、何から何まで一宮先生ですよ、これは」
「何を根拠にそう思う」
「何を根拠にって……勘ですよ! 先生」
実は、この時、より勘で見当をつけたのは先生で、より実態に基づいているのが助手である。つまり助手の方が先生よりは論理的に、楠橋は一宮と同じだと主張するのだ。——これが勘の方が当てになる事があるから、世の道理などは分かった気でちっとも知られていないものである。
「先生、逆にお聞きしますけれど、楠橋は何故一宮先生とは違うと」
「……勘じゃ」
助手はこの時ばかり、いささか先生に呆れてしまった。全く、自分の方が真に迫った鑑定をし得ていると自信していた為である。
「先生、僕だって生まれ変わりだとか乗り移っただとか、本気にしているわけじゃありません。要は、これは科学の力が、とうとう芸術の真似事ができるようになったとしか——」
「くだらん!」
先生は機嫌を悪くした。助手も損ねそうだと分かっていながら、提言した。先生は書斎からのっしのっし床を踏みしめながら出て行く。助手は一人になって、また二冊を見比べるのに没頭した。
こんな風に、このとある先生と助手をはじめとして、至る所で楠橋が議論になった。無考えの者は、科学技術の進歩は偉大だなどと賛美した。芸術志向の者は、これは人の精神の破滅だなどと大々的に発表した。ともかく、作者の一意見を述べておくと、これは人間の存在価値云々に関わってくる問題だと思う。人が何を考えようと、決して固有ではなく、非常に類似したものを世に出現させることができるようになるのである。これですべからく、人間はメカに置き換えるのが可能になると言っても正しい。ーーと、こんな風に人が思い思いに書いたり語ったりした。けれども考えてみると、このそれぞれの感想も何もかも、メカごときが真似できると思うと、人はつまらなくなる。人は人と異なるところに個性を見出し、人より優越するところに生きる意欲を得る。でも個性と言うのが全く分からなくなると、他に優れようにも比較対象がおらん。皆メカの人格となる。
無論、そこまで深慮しない者は数多いる。けれどもやがてはおそらくこの世にあって、向き合わなければならない現実だろうと思う。
で、例の先生はと言うと、楠橋に会いに行く事にしたらしい。助手も付き添うつもりである。先生はある筋から楠橋と連絡を何とか取って、面会の算段を立てた。すると、こちらから出向くまでも無く、楠橋の方から先生の元へやって来るのだと言う。先生はあの書斎に腰を下ろして、机上に散らかっていた本を棚に整理して、楠橋を待っていた。助手は先生の居座る側に行儀良く直立している。
「先生、楠橋さんが来られました」と扉を開けた女の脇から、ひょいと彼が顔を覗かせた。もみあげからあごにかけて、無精髭を段々濃く生やしている。先生はまず、彼は大分変わり者だろうなと偏見を持った。楠橋は緩やかな前傾姿勢で部屋へ入り、一度ぐるりと圧倒的な蔵書を見回してから助手を見、先生をやっと認めた。
「やあ、座りなさい」と先生は指図する。
「はあ」と応じる楠橋は、どうも体調が優れなさそうである。
「どうしたね、元気が無いようだが」
「ええ。ここのところ、」
「騒ぎが辛いかね」
「辛いですね」
「ふむ。けれども君は革命を起こしたようなものだから仕方あるまい」
「私の辛いのは——一宮稔彦が今死んでいる事なのです」
「と言うと、」
「一宮稔彦は本を公に向けて出し続けなくてはいけない、それなのに家でくすぶって原稿ばかり綴るようでは、死んでいるのと同じです」
先生はちょっと考え込む。助手はちらと先生の白髪に目線を落とした。
「君ね、一宮くんはもうとっくに亡くなったのだ。惜しい人材だった、彼は他の作家よりずっと縛られておらず、自由だった。故、懊悩に苛まれたのかもしれんが、」
「……先生、何を言ってるんです。一宮稔彦はこの世から消えてなくなったわけではません。ただ、生きているとは言えないまでです」
「……君がそう思うならそれで良い」
先生は早々、楠橋と一宮の生死を論じるのを諦めた。
「……先生、で、一体何の用です」
何食わぬ顔で、楠橋は言い放った。机上で揉み手しながら、ちらちら脇に目線をやったり落ち着かない。でも、落ち着かないのは決して緊張しているのでは無くて、恐らく彼は常に挙動不審である。先生は楠橋の有り様が、何だか分かるようで分からない。掴み所が無いのとは違って、彼の性格を言うなら単一に絞り当てられよう。ただ、分かりかけるところで影が落ちるのである。ーー依然彼の挙措は忙しない。失っているわけでは無いのは、繰り返しておく。
「うむ、用と言うと、」
先生はいっぺん仕切り直す事にした。
「君は、一宮くんの生まれ変わりだと言うが、本当にそうかね」
「分かりきった事を」
彼は両手を尻の下に敷いて、上半身を伸ばすようにした。
「私にはそうは思えんのだ」
「……そうですか。僕は別に、あなたに分かってもらおうと言う気は無い」
先生も楠橋も、なかなか感情的にならない。こうなると、人情に傾いた方が負けのように思えてくる。
「うむ。だが、それでは済まされんのだ。君が生まれ変わりか憑依されたか知らんが、そこははっきりさせておかなくちゃいけない。何故なら、今後生きものの在り方に関して、大きく事を左右する問題だからだ。この事案は」
「はあ」
「君は、ヒトを冒涜しているのだよ」
「冒涜だって? ——聞いていれば、あなたの方こそ、僕を侮辱している」
「侮辱と冒涜とは違うよ、君。冒涜は、そのものの意義とか価値とかを脅かす、許されざる行為なのだ。ただ、許されぬとは言え、誰かが必ず手を染めざるを得ぬ禁忌なのではあろうが」
楠橋は分からぬ。分からぬから、心に不満しか生じない。
「先生、不愉快なので帰らせていただきます」
「楠橋さん!」
助手が不意に呼んだ。だが、どうやら引き止められそうに無いから、もう一言重ねて、「僕は、生まれ変わりだって信じますよ」などと口走った。楠橋は一旦ぴたりと停止した。先生は少しも動揺しなかった。ただ、去る楠橋の猫背を、名残惜しそうに見つめていた。