二
ユウジローは、当小説家となったが、なかなか世間に現れてはこなかった。ユウジローは書けども書けども、本を刷れないのである。世の皆の目に、彼の作品の触れることは無い。
ユウジローは苦悶した。当小説家であるならば世間に数多の批評を受けて、作品に関して何らかを人前で語って、交流しなければならない。ところが今ユウジローの場合、書くと原稿はちっとも他の目に触れようと動かずに、静かに積載していくのみである。——当小説家は今一度、文壇への出場権を得直さなくてはならなかった。
彼は『隣の彼』がのべつに書き出す原稿を次々文学賞へと送った。それはもう、手当たり次第にである。とにかく、新しく機械の体に生まれ変わって、当小説家は疲れることを知らなかった。また、気を病むことも無かった。病まない芸術家など、とうに死んでいると言える。だが、ユウジローは暫くそんなことには頓着せず、その明らかな確固たる意思によって、送りつけた。
何も起こらなければ良い。ただひっそりと機械が書き続けるなら良かった。ユウジローのわがままに応じて、ひたすら活字を連ねておけば良かった。ところが目利きを気取る凡人が、これは良いと一言呟いた瞬間から調和は崩れ出した。
ユウジローは、自身が当小説家の意思に過ぎないことを認めている。つまり、当小説家に重なりはするが、彼一人で当小説家だとは名乗れない。そこで、楠橋と苗字を名乗る事にした。楠橋の名は、これもどういうわけか瞬く間に世間へ浸透した。ユウジローは、この情勢を当然の成り行きとして俯瞰した。何を隠そう、楠橋の正体は今一度この世に特殊な生を受けた、当小説家なのである。人気を得て当然だし、また、各方面から批評を受けて然るべきであった。
楠橋ことユウジローは、ある雑誌の取材を受ける。
「どうやって話を考えているのか」と問われると窮する。話は考えるものでは無い。定期的に、自ずと出てくるものである。この『考える』役割と言うのは『隣の彼』が担っている。この時楠橋は、「さあ。不意におりてくるものですよ」などと軽々しい返事をする。記者はどんな受け答えにも、へえと嘆声する。楠橋にとっては有難い。
彼は意思であり『隣の彼』を心服している。だから、原稿の手直しを要求されようと一切それを拒んだ。原本で、それは既に当小説家の作品として完成されている。世の中から見た楠橋は新人作家かもしれないが、実際は十年以上も執筆してきたベテランである。それも満目に晒されながら書いてきたのだ。それに対してあれがどう、これがどうなどと言う方が間違っているに違いない。当小説家の意思は決して
どうしてもうるさい時は、『隣の彼』にちょっと相談してやる。これで多少当たり障りなく修正されたものが、あっさりと受け入れられるのだから、ユウジローも驚いた。要はどこが悪くて文言を変えろと言うのではなくて、とにかく元のままでは心許ないのが本音らしい。当小説家はベテランでも、意思はやはり新人だから、こうして術を学んでいくようだ。
また、他の雑誌では、
「楠橋さんの文体は読む者に当小説家を想起させるが、リスペクトはあるのか」と問いかけられる。この時ユウジローが、「ええ、僕は当小説家本人です」と受け答えたのが波紋を呼んだ。
「本人になりきっていると?」
「いえ。本人なのです」
「本人の意思を継いでいると?」
「……ええ、そうですね」
楠橋はこの時から、一風変わった作家として認識された。
そして、あるところで、また他のあるところで、楠橋はこのように、自分が当小説家であるというような話を真顔でするから、一風どころか、変人だと言うことになる。世間がこのユウジローの正体である、当小説家の意思とは気が付かないまでも、何か変だと楠橋と言う名の冠を疑うところまでは来た。ある人は、
「楠橋は当小説家を愛しすぎるが故、とうとう信仰の域にまで達したのだ」と言い、またある人は、「ただ彼はふざけているだけなのだ」と呑気に構え、そしてどこか狂った者は「楠橋は当小説家の生まれ変わりだ!」などと狂乱し始めた。
ユウジローはそんな世の動きには少しも頓着しない。彼はただ、当小説家がこの世で確かに息づいていることが満足なのである。書き、発表し、本となり、批評を受ける、これを繰り返す当小説家がちゃんと稼働しているこのことが、ただ彼の欲求を満たしている。
もはや、ユウジローは当小説家の一ファンでは無い。生前から傍に当小説家を夢想していた狂人である。『隣の彼』——機械の頭脳を与えられたユウジローは、当小説家と一体化しているのである。世の楠橋に対する理解は、まだまだ甘い。
段々、皆楠橋の事を、当小説家の転生した姿だともてはやすようになった。だが、もちろん、楠橋ことユウジローは、当小説家とほぼ同時代にこの世に生を受けた人間であり、だから、当小説家が彼に乗り移ったのだとする説が主流だった。皆お互いに、まさか本気で楠橋の事をそう言うんではなかろうと思っているが、もてはやして、そうでは無いといつも言いそびれるものだから、また、楠橋の方でもいささかも揺らぐ所が無いから、次第に真の説のように思われた。
楠橋は、当小説家である、信じられないような話を皆が半分信じかけた頃、楠橋が平然と暴露したのは『隣の彼』の存在である。
「楠橋さんの仕事場はどんな風になっているのでしょう」
「どんな風も何も、平凡ですよ」
「見せていただくことは……」
「まあ、良いでしょう」
ユウジローは別段、隠したわけでもなく、ただこれまで聞かれなかったから答えなかったのである。
「これは……」
取材に来た者が、緻密な機械の塊を目前にして、固まる。
「彼は当小説家の頭脳です。彼が小説を書いているのです」
ちょうど原稿が一枚、印刷される音と共に、足元の口から現れた。
「ほら、新たな一ページです。当小説家はちゃんと生きているのです」
ユウジローの拾い上げた紙を、受け取った人間は困った。自分がこうしてこの部屋で自然と過ごしていて良いのか、彼と会話をして良いのか、目前の機器を認めて良いのか。自然に居られなくなった人間は、思わず外へ飛び出していった。その背を、ユウジローはおかしな人間を目撃したとでも言いたげな間抜け顔で見つめていた。
その日から楠橋ことユウジローの部屋に、数多くの人が押しかけた。ほとんどが報道陣で、中には野次馬もいた。ユウジローの方は、何がどうなったのか、咄嗟に理解が及ばなかった。暫く考えて、ようやくこの『隣の彼』の存在が革命的なのだと悟った。無理も無い、死んだはずの人間の脳が、ここにこうして生き返ったのだ。ユウジローはそう思うと得意であったが、「そんな機械が当小説家なわけあるか!」などと言う野次には、大いに気分を害された。『隣の彼』が頭脳であって、自分が意思である。形は似ても似つかぬかも知れんが、確かにこの二つの要素を合わせて当小説家本人である。それを頭ごなしに、尤もな論理もなしに否定されるから、そりゃ不快だ。そう言う輩には、ユウジローは容赦せず「黙れ!」と怒鳴り返してやったり、あらかじめ玄関にバケツで用意した水をぶっかけてやったりした。——この時、ユウジローの考えを微塵も占めていないのが、楠橋と言う人格である。楠橋は、これまでに唯一外の目に触れ、各々に理解されてきた人格である。この調和と破綻について、ユウジローは毛ほども考慮しなかった。実は、この人格を巡る問題は、世の人々にとって、『隣の彼』の存在と同じくらいに関心のある分野である。
あちこちにいるある人が、見解を述べ、またある人が意見を言い、ある人が笑い種にし、ある人がユウジローを罵った。ユウジローは乱れた。こんな風に事が展開するとは、思いもよらなかった。『楠橋はゴーストライター』などとよく分からぬ批判を受けた。『倫理に反する』といわれの無い否定を強いられた。極め付けは、押し寄せる人、人、皆が不愉快を漏れなく運んでくる。ある意味で既に気の狂っていたはずのユウジローは、このままでは気が狂いそうだなどと自覚した。——何が間違っていたろう、いや、間違ってなんかない、を逡巡した。
とどめは、楠橋の本、出版差し止めである。出版できなくては、当小説家がまた眠ってしまう。世の目に照覧され続けなければ、当小説家が活動しているとは言えない。やっぱり自分は、どこかで間違った、とユウジローは認めた。認めて、その原因を探ろうとし始めた。