悪役令嬢にならないか?
「悪役令嬢にならないか?」
リスティアは右手を、動いている心臓を握りしめるかのように胸元に当てた。震える心を落ち着かせたいからだ。
「今、なんておっしゃったのでしょうか?」
彼女は今、一人の男と向かい合って立っている。
ここは王立学園付属図書館の地下書庫。
このような場所を定期的に訪れるのは、変な女と言われているリスティアくらいだと思っていた。だが、今日は先客がいたのだ。
その先客は目の前に立っている男、ウォルグ・シュノールである。艶のある黒髪は短く切り揃えられ、光の加減によっては金色にも見えるような薄茶の瞳が、楽しそうに揺らめいている。
「悪役令嬢にならないか、と。リスティア嬢を誘ったつもりなんだけど」
彼の色めいている唇が紡いだ言葉は、リスティアでさえも首を傾げたくなるような内容だった。
「悪役令嬢、ですか?」
彼を見上げるようにして尋ねると、一つに結わえていた象牙色の髪が肩からハラリと落ちる。
「そう、悪役令嬢」
確かめるかのように、彼はまたその言葉を口にする。
やはりリスティアの聞き間違いではなかったのだ。これだけ何度も言われれば、彼の言い間違いでもないだろう。
彼はリスティアが書庫に入った途端、いきなり声をかけてきたのだ。
初めは誰に問いかけているかわからなかった彼の言葉であるが、ここにリスティアしかいないのであれば、間違いなくリスティアに声をかけている。そして、その内容が『悪役令嬢にならないか?』だった。
「ところで、悪役令嬢とは一体どのようなものなのでしょう」
悪役令嬢にならないかと誘われたのはいいが、その『悪役令嬢』がなんであるのかがさっぱりわからない。
「とてもいい質問だね。君に、この本を薦めよう。これに、悪役令嬢とは何かが書いてある。たまには、このような本を読んでみるのはどうだろうか」
リスティアはウォルグが差し出した本を、躊躇いもせずに受け取った。ワイン色の凝った装丁が、本好きのリスティアに好奇心を抱かせた。
「君も、毎日ここに来ているだろう?」
地下書庫はリスティアのお気に入りの場所である。古文書や絶版本などの貴重な本がたくさんあるからだ。それに史実解説資料や歴史書など、ぶ厚い禁帯出の本もある。
「はい……」
「君はいつも、あの席で本を読んでいる。特に最近は古代史に興味を持っているよね」
「まあ、詳しいのですね」
「君は気づいてなかったかもしれないが、僕の指定席はあそこだからね」
彼が指で示した指定席は、リスティアのいつもの場所から、本棚を挟んで背中合わせの場所だった。
地下書庫は壁際に沿ってずらっと書棚が並び、真ん中にも行儀よく書棚が列になって並んでいる。その列と列の間には、ささやかなソファとテーブルが置いてあり、自由に本を閲覧することができる。
最近のリスティアは古代史に興味を持っていたため、古代史の書物が並ぶ棚の近くにあるソファに座っているのが多かった。
その隣の書棚であれば、そこは天文学や薬草学の書物がある場所だ。
「まあ、そうだったのですね。てっきり、ここにはわたくし一人だと思っておりました」
「うん、そうだな」
「では、こちらの本は……」
「ゆっくり読んでいい。どうせ君は、毎日ここに来ているのだろう? 僕も毎日来ている。読み終わったタイミングで僕に返してくれれば、それでいいから」
「ありがとうございます。ほかの方から、こうやって本を薦めていただいたのは初めてですので、とても嬉しいです」
リスティアはラズベリーのような瞳を柔らかく細めた。
「そうか。僕も、君の初めてになれて、嬉しいよ」
「ウォルグ様は、お上手ですわね」
変な女認定されているリスティアを褒めるような人物はいない。それは自覚がある。
「リスティア嬢は、今日も本を読んでいくのかい?」
「はい。今は古代史を読んでおりまして、ちょうどマキノン時代まで読み終えたところなのです」
「へぇ、マキノン時代ね。何か興味のあることがあったのかい?」
「そうですね。マキノン時代は、人の埋葬の仕方に特徴がありますね。大事なものを守るような姿勢で埋葬されるそうです」
そこから、リスティアは饒舌になった。
だが、しばらくしてはっとする。
「申し訳ございません。このようなお話、つまらなかったですよね」
「いや、とても興味深く聞かせてもらった。君は、勉強熱心なんだな。僕は歴史が苦手なんだ。だけど、君がそうやって教えてくれるなら、興味が持てそうだ」
「それは、よかったです。興味を持ってもらえるのが、一番嬉しいです」
リスティアは微かに笑んだ。
「僕としては、リスティア嬢に興味があるんだけどね」
ウォルグのそのつぶやきは、リスティアの耳には届かない程、小さなものだった。
◆◆◆◆ ◆◆◆◆
リスティアは、ハンメルト侯爵家の長女として十七年前に生を受けた。彼には三つ年上の兄がいる。兄は、王立騎士団の近衛騎士隊に所属し、王族の警護についていた。
リスティアの両親は、領地にある本邸で暮らしている。
そしてリルティアは、王立学園の最終学年として勉学に励み、学園にある寮で侍女のメルシーと生活をしていた。
メルシーは、リスティアが幼いときから身の周りの世話をしてくれる、心許せる人物である。
「ねぇ、メルシー。悪役令嬢って知っている?」
リスティアは食事を部屋で取っていた。寮での食事は食堂でも部屋でも、好きな場所で食べていいのだ。他人と付き合うのが苦手なリスティアは、こうやって自室でメルシーと二人で食事をする。
メルシーはリスティアに食後のお茶を差し出した。
「そういった本が人気ですね。お嬢様も読まれたのですか?」
なるほど、悪役令嬢とは本の話なのか。だからウォルグもあの本を貸してくれたのだろうか。
「そうなの? 人気なの? 実はウォルグ様から本をお借りして」
「まぁ、ウォルグ殿下から? お嬢様、いつの間にウォルグ殿下とそのような関係になられたのですか?」
なぜかメルシーが目をきらきらと輝かせている。彼女は茶色の髪を低い位置で一つのシニヨンにしていて、見るからに侍女らしい女性であるのだが、昔からリスティア付きということもって、このように二人きりのときはくだけたように話を盛り立ててくれるのだ。これは、リスティア自身も望んだことであるため、それを咎めることはしない。
「ええと。つまり、悪役令嬢って小説のジャンルなの?」
ウォルグのことをこれ以上聞かれても、リスティアは答えに困ってしまう。だから、話題をさりげなく変えてみた。
「そうですね。最近、人気なんですよね。こう、スカッとするといいますか、ざまぁみろといいますか」
メルシーは顎に手を当て、何やら思い出している様子。
彼女もこのような本を読んでいるのだろうか。
「でも、悪役令嬢って、悪役と言われているくらいだから、悪い人なのでしょう?」
ノンノンノンとリズミカルにメルシーは右手の人さし指を横に振った。
「そうではないところが、悪役令嬢の面白さなのです。せっかくお借りしたのですから、まずは読んでみてください。ウォルグ殿下が薦めてくださったのですから、読みましょう」
「そうね」
メルシーの話を聞いただけではよくわからないし、そしてウォルグの誘い方はもっとわからなかった。
(どうして、悪役令嬢になる必要があるのかしら)
紅茶の入ったカップを手にして口元に近づけると、お茶の爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
学園の寮には、自室に浴室がついているとても便利な造りである。というのも、リスティアがそれなりの身分であるため、そういった部屋を与えられているのだ。
特別広いわけでもないが、それでも手足を伸ばせる浴槽が部屋についているのは、とてもありがたい。
リスティアの部屋の隣には、メルシーが控える部屋もあり、二人にとってはそれなりに快適な時間を過ごしている。
すでにナイトウェアに身を包んだリスティアは、寝台の上で大きな枕背を預けながら、ウォルグから借りた本を読んでいた。
寝台の脇の小さな机の上には、手元を照らす白熱灯が淡く輝いている。
そろそろ眠らなければならない時間だとはわかっているのに、頁をめくる手が止まらなかった。
(悪役令嬢……。すごいわ)
本の中には、リスティアが想像していたものとは違う『悪役令嬢』が描かれていた。
本の世界の悪役令嬢は、取り巻きを使ってヒロインをいじめ、ヒロインを仲間外れにし、ヒロインを孤立させる。そのように見えているが、実はすべて悪役令嬢が正しい行いをした結果。
ヒロインをいじめているように見えるのは、ヒロインが婚約者のいる男性を取り巻きとして利用していることを咎めたため。ヒロインが仲間外れにされているように見えるのは、それぞれの役割の違いによるもの。その結果、悪役令嬢のせいでヒロインが孤立しているように見えたのだ。
学園の卒業パーティーで、悪役令嬢は今までの悪行の数々をヒロインによって暴かれていく。だが、本当の悪役令嬢の姿を知っている者たちは、彼女はそのような行いをしないと口にし、誰も信じない。
悪役令嬢の婚約者であった王太子は、ヒロインが好きであると洗脳されていたようだが、悪役令嬢の行いと周囲から突き付けられた現実によって、悪役令嬢の真の魅力を知る。
ヒロインは王太子を洗脳した罪と、その婚約者である悪役令嬢を陥れた罪で国外追放されるのだが――。
(だけど、ウォルグ様は、わたくしに悪役令嬢になれとおっしゃったのよね?)
悪役令嬢のなんたるかは、なんとなくわかったような気がする。だが、悪役令嬢になれと言った意図がわからない。
わからないのであれば聞くしかない。
本が面白くて、つい夜ふかしをしてしまった。これでは明日の朝は起きられないかもしれない。もしかしたら、授業中に居眠りをしてしまうかも。
そんなことを考えつつ、掛布を肩までしっかりとかけて、眠りについた。
それでも、いつもと同じ時間に目が覚めたのは、ウォルグのことが気になっていたからだ。いや、正確にはウォルグの言葉である。
――悪役令嬢にならないか。
その言葉が耳にこびりついて離れない。授業を受けていても、つい悪役令嬢について考えてしまう。
(悪役令嬢ということは、ヒロインと呼ばれる相手がいるわけよね。どの方かしら)
教室の一番後ろの窓際という特等席は、リスティアの指定席のようなものだった。リスティアにとっては特等席だが、他の生徒は、教室の真ん中の席が好きなのだ。真ん中にいれば、自然と人が集まる。
今も二つの輪ができていた。スルク公爵家のエリーサが中心にいる輪と、もう一つは別の令嬢がいる輪である。だがリスティアはその輪から離れ、一人で本を読んでいた。
スルク公爵家のエリーサはこの国の第一王子であり王太子であるアルヴィンの婚約者だ。そのような彼女が輪の中心にいるのは、なんら不思議でもない。
金色の豊かにうねる髪と大きなエメラルドグリーンの瞳は見る者を惹きつけ、陶磁のような頬もぷっくりとしている艶やかな唇も、すべてが完璧に整っている女性だ。
アルヴィンはウォルグの三つ年上の兄で、学園卒業後は父王と共に政務に携わっており、すでに次期国王としての期待が寄せられている。
リスティアから見てもお似合いの二人である。
そして、リスティアもエリーサとの仲は悪くはない。特別親しいわけでもないが、必要最小限の付き合いはしている。と、リスティアは思っている。
だが今日は、本を読んでいてもちらちらと視線を感じた。この教室にいる生徒は、リスティアがいてもいない者として扱っているはずなのに。
視線の主が誰であるのか確認するために顔をあげると、エリーサと目が合った。輪の中心にいるような彼女の邪魔をしたつもりはない。そうしないためにも、こうやって教室の隅っこで本を読んでいるのだ。
リスティアが困って首を傾けると、エリーサは慌てて目を逸らした。
(もしかして、エリーサ様がヒロイン?)
いやヒロインは身分差を越えて、王太子や王子と結ばれようとするのだ。身分も見目も知識も性格もすべてにおいて完璧なエリーサが、あのようなヒロインであるわけがない。
リスティアは再び本に目を落とした。
ウォルグから借りた本は読んでしまったから、これはメルシーから借りた本である。メルシーも悪役令嬢が登場する本を何冊も持っていた。
彼女がこのような本を好んで読んでいたのが、意外だった。だけど、悪役令嬢でわからないことがあれば、メルシーに聞けばいい。
◆◆◆◆ ◆◆◆◆
リスティアはいつもの通り付属図書館の地下書庫にいた。
今日も、古代史資料の続きを読むためにやって来たのだ。
だが、昨日の夜ふかしがたたってか、古代史の文字が目を滑っていく。ぼやぼやと文字がかすんでいき、いつの間にかリスティア自身がマキノン時代の人物へと変化していく。
木の実を集めるために、籠を持って森の中へ入っていくが見知らぬ場所だ。いつも足を運んでいる場所なのにおかしい。なぜだろうか――。
身体が大きく震えた。
「あ。目が覚めた?」
ジャーキングの様子を間違いなく見られている。リスティアも驚くくらいに、大きく身体が震え、ガクっと目の前のテーブルを鳴らしてしまったからだ。
頬が熱くなるのがわかったが、恐る恐る顔をあげると、やはりウォルグであった。
「ごきげんよう、ウォルグ様」
「こんにちは、リスティア嬢。君が居眠りだなんて、珍しいね。夜ふかしでもしたのかい?」
彼は自然とリスティアの隣に座った。
「ええ。ウォルグ様からお借りした本が、面白くて。つい。ありがとうございます」
リスティアはワイン色の装丁の本を、両手でウォルグに差し出した。
「もう読んだのかい?」
「はい。とても面白くて。途中でやめることができずに、つい夜ふかしを」
ふふっとウォルグが笑みを浮かべる。
「だから、君は珍しく居眠りをしていたわけだ」
やはり眠っているところからすべてを見られていたのだ。羞恥に染まる頬を隠すかのように、顔を逸らす。
「ごめんごめん、リスティア嬢、怒らないでくれ」
「怒ってはおりません。ただ、恥ずかしいのです。ですから、しばらく時間をもらえませんか?」
恥ずかしすぎて顔が熱い。それを冷ます時間が欲しい。リスティアは右手を自身に向けて、ひらひらと振って風を送った。
「ふぅ。大丈夫です」
リスティアはウォルグに身体を向ける。
「ウォルグ様にお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「なんなりと、どうぞ」
「悪役令嬢については、そちらの本を読みまして、なんとなくわかりました。ですが、わたくしが悪役令嬢になるというのは、どのようなことなのでしょう?」
「そうだよね」
くくっとウォルグは喉の奥で笑った。
「リスティア嬢には悪いけれど、当て馬になって欲しいんだな」
「当て馬、ですか?」
「そう。悪役令嬢って、結局は当て馬のような存在だと思わない? 悪役令嬢がいるから、ヒロインが光るんだ」
「そうですね」
ヒロインがいるから悪役令嬢がいて、悪役令嬢がいるからヒロインがいる。ヒロインと悪役令嬢は対になる存在だ。
「わたくしはどなたの当て馬になればよろしいのでしょうか?」
「もちろん、ヒロインだよ。ヒロインを輝かせるために、悪役令嬢になってもらいたい」
「ヒロインはどなたですか?」
「エリーサ・スルク公爵令嬢。エリーサ嬢が兄の婚約者であるのは知っているだろう? 最近、二人の仲があまりよくなくてね。だから、君に二人の仲を取り持つ当て馬になってもらいたいんだ」
リスティアは考える。
つまり、エリーサ様をいじめて、仲間外れにし、孤立させたところをアルヴィンがリスティアに婚約破棄を告げる。
(わたくしがエリーサ様を? 仲間外れにされるのは、わたくしのほうではなくて? それに、わたくしはアルヴィン様の婚約者ではないし……)
リスティアは、不安げにウォルグを見つめた。
「無理……です。わたくしのほうが孤立している人間ですから」
「だから、僕が君を立派な悪役令嬢にしてあげよう。僕もね、あの二人に婚約を解消されると非常に困る立場なんだよ。ああ、リスティア嬢は何も兄と婚約するわけではないから、そこは安心してほしい。ちょっとだけ兄と仲良くなってくれればいいから」
「ですが。わたくしよりも相応しい女性がいらっしゃいます。こんな変な女ではなく、もっと美しくて、友達の多い女性が」
自分で口にしながらもリスティアは情けなくなり、視線を逸らした。
「逆に、そういう女性だと困るんだよ。自分が当て馬であることを忘れ、兄に本気になろうとするからね。だけど、リスティア嬢なら安心だ。君は、自分の立場をよくわきまえている」
「ですが……」
「このようなこと。君にしか頼めない。……、頼む」
突然ウォルグが頭を下げたため、リスティアは慌ててしまう。
「ウォルグ様。頭をあげてください」
相手はこの国の第二王子だ。その彼がリスティアに向かって頭を下げている。
「君が引き受けてくれるまで、頭は上げない」
そこまで言われてしまえば、引き受けるしかない。それだけ、リスティアは押しに弱いし、立場的にも弱い。
「わかりました。やります、やりますから、どうか頭を上げてください」
「本当か?」
頭を上げたウォルグの顔は輝いていた。
(もしかして、騙されたのかしら?)
リスティアがそう思ったところで、もう遅い。やりますと一度口にしてしまった以上、撤回はできない。なにしろ相手がウォルグだからだ。
「ですが。わたくしでは、ウォルグ様が望まれるような悪役令嬢にはなれないかもしれません」
「大丈夫だ。君が立派な悪役令嬢になれるように、僕が指導する」
「ウォルグ様がですか?」
「ああ」
ウォルグが大きく頷いたが、リスティアはどことなく不安であった。
「ところで、立派な悪役令嬢になるためには、どのようなことをすればよろしいのでしょうか? ヒロインを孤立させるためには、悪役令嬢に多くの女性の取り巻きが必要です。それに、ヒロインを苛めるためにも、相手に知られないように階段から突き落とすとか、教科書を盗むとか。そういった機敏な動きが求められると思うのです。それに、婚約者も……」
それがウォルグから借りた本に描かれていた理想の悪役令嬢である。メルシーから借りた本も、悪役令嬢とは似たようなものであった。そして、最終的には婚約者から一方的に婚約破棄を突き付けられるのだ。
「その辺も僕に任せて欲しい」
ウォルグが熱く見つめてくる。
「わかりました。わたくしも精一杯、頑張ります」
リスティアはそう答えるしかなかった。
◆◆◆◆ ◆◆◆◆
――まずは、取り巻きを作るべきだ。
ウォルグが最初に提案したのはそれだった。
だが、残念ながらリスティアには特別仲の良い友人はいない。侯爵家の娘であるのに、取り巻きもいないし、取り巻きになってくれそうな人物に心当たりもない。
それを正直にウォルグに伝えると、自分にまかせて欲しいと言った。
その言葉を信じた結果が今に至る。
「あなたとお話をしたいと思っていたのよ」
リスティアの目の前には、エリーサがいる。エリーサの隣には、この国の王妃もいる。つまり、ウォルグの母親でもある。
それから、エリーサが仲良くしている令嬢たち。
「私も、ウォルグからリスティア嬢の話をいつも聞いていますのよ。いつ会わせてもらえるのかと、楽しみにしておりましたの」
名目は王妃主催のお茶会である。しかも、招待されたのは学園に通う令嬢たちだけ。
「リスティア様は、いつも難しい本を読まれていて。お邪魔をしてはいけないと思っておりました」
「どのようなご本を読まれているのですか?」
「リスティア様。よろしければ、少し歴史学を教えていただきたいのですが」
リスティア様、リスティア様と、声をかけられる。
そうなればリスティアとしては目を白黒させるしかない。
「みんな、リスティアとお話をしてみたかったのよ。だけど、あなたはいつも本を読んでいるから。別に、休み時間に本を読むのが悪いとは言っていないのよ。例えば、そう、例えばよ。お昼ご飯を一緒に食べるとか、夕飯も食堂で食べるとか。そういったことをしてもらえると、お話できる機会が増えると思うのよね」
エリーサの言葉に、他の令嬢たちも頷く。
リスティアは、周囲から変な女と呼ばれている自覚はあった。いつも本ばかり読んでいるからだ。だが、ここにいる彼女たちはそうは思っていないようだ。
「ですが……。わたくしは、変な女ですから……」
消え入るような声でつぶやいた。それでもエリーサが素早く反応を示す。
「それって、ミエル嬢が言っているのではなくて?」
ミエル嬢とは、オスレム男爵の養女となったミエル・オスレムのことである。学園には、中途半端な時期に入学してきて、幾人かの貴族子息たちをはべらせている。
「少なくとも、私たちはあなたのことを変な女とは思っていないわ。むしろ、知的で魅力的な女性だと思っているもの」
エリーサの言葉に、他の令嬢たちも一斉に首を縦に振る。
「ですが、ミエル嬢には困ったものですわよね、エリーサ様。リスティア様にもご相談なされたらどうでしょう?」
一人が口にすると、エリーサは困ったように眉をひそめた。
「あら、私も聞きたいわね。息子の婚約者の悩み事を相談してもらえるなんて」
「王妃様まで」
エリーサは困惑した声をあげたが、観念したかのようにポツポツと話し始めた。
それを聞いたリスティアは、以前、ウォルグから借りた悪役令嬢の本の話を思い出していた。
「エリーサ様、大変でしたね」
リスティアは、そう声をかけることしかできない。
だが、現状がいいものとも思えなかった。むしろ、ミエルの行為は褒められたものでもない。
「エリーサ……。あなたはよく頑張りました」
王妃の声が心に染みる。
「あとは、私にお任せなさいな」
「いえ、王妃様。王妃様の手を煩わせることはできません。わたくしが対処いたします」
「リスティア……」
エリーサは目の縁に涙をため、リスティアを見つめてくる。
「リスティア様。私たちにもできることがありましたら、お声がけください」
リスティア様、リスティア様と、この場にいる令嬢たちが、次々に口にする。
「はい。必要なときには、皆さまの力をお借りすることになるかと思います。エリーサ様のためにも、一肌脱がせていただきます」
――だって、わたくしは悪役令嬢ですから。
リスティアは、その言葉をそっと心の中で唱えた。
エリーサや他の令嬢たちと仲を深めたリスティアであるが、学園にいるときはいつもと変わらず本を読んで過ごしていた。変わったことと言えば、定期的に開かれるエリーサ主催のお茶会に呼ばれるようになったくらいだろう。
そこにまれに王妃も姿を現すものだから、リスティアも緊張してしまう。だが、緊張とは長く続かないもので、王妃と三度も顔を合わせると普通に会話をこなせるようになっていた。
そうやって定期的にエリーサのもとを訪ねていると、図書館の地下書庫に来る回数も減ってしまう。今までは毎日足を運んでいた地下書庫だが、四日に三回の割合になっていた。
「昨日はエリーサと会っていたのかい?」
禁帯出の辞典を読んでいると、頭の上から声をかけられた。
「ごきげんよう、ウォルグ様」
「こんにちは、リステァア嬢。隣に座っても?」
「ええ、もちろん」
リステァアが笑顔で応えると、ウォルグも笑顔で隣に座った。
「最近、こちらに来ている回数が減っているようだな。エリーサと会っているのかい?」
「はい。エリーサ様のお茶会のほうに。お友達も紹介していただきました。きっと、わたくしのいい取り巻きになってくださると思っています」
ウォルグは形のいい唇の端を持ち上げた。
「エリーサの友達なら、間違いないだろう。彼女たちは信頼できる」
そして取り巻きたちは、ここぞというときに悪役令嬢を裏切るのだ。それが本来の悪役令嬢の役目。だが、本に書かれている悪役令嬢は、悪役令嬢の逆転劇である。
「ところで。ウォルグ様は、わたくしにどのような悪役令嬢をお望みですか?」
ヒロインを破滅に導く悪役令嬢だろうか。それとも、本来の文字通りの悪役令嬢だろうか。
「どのような? それは立派な悪役令嬢だよ。では、次の指導にうつろうか」
◆◆◆◆ ◆◆◆◆
リスティアは、地下書庫でなぜかウォルグと共にステップを踏んでいた。
――次は、やはり機敏な動きを身に着けるべきだな。手軽なところからダンスレッスンとかはどうだろうか?
取り巻きという名の親しい友人を作ったリスティアに求められたのは、やはり機敏な動きである。これがなければ、犯人とバレないようにヒロインを階段から突き落としたり、教科書を盗んだりすることができない。
だが、それとダンスレッスンがどのような関係があるのかさっぱりわからなかった。
地下書庫に訪れる人はいないとしても、けしてダンスができる広い場所とも言えない。書庫の一番奥の少し開けた場所で、二人で寄り添って基礎的なステップを踏むしかできないような空間。
「リスティア嬢、うまくなったね」
顔を寄せ、耳元で囁かれてしまえば、頬に熱が溜まる。
リスティアも一通りのダンスはできるが、それはお世辞にも優雅とはいえないものだった。とにかく、ダンスができる、その程度のもの。
だが、悪役令嬢として機敏な動きをするには、ダンスの優雅な動きが基礎にあるとウォルグは言った。
だから二人で、こっそりとこの場で練習を始めた。これも彼の提案だった。
『君が悪役令嬢になることは、誰にも知られてはならない。だから、こっそりと練習する必要があるんだ』
彼の言葉に素直に頷いたリスティアは、エリーサとの約束がない日は地下書庫に来ていた。
毎日のように練習をすれば、少しずつ成果は現れるもの。最初の頃はウォルグの足を踏んでばかりだったが、今ではそんなことはすっかりと無くなった。彼の動きに合わせてステップを踏み、彼に身体を預け、彼と共に舞う。
狭い空間だからこそ、彼と密着する必要があった。少しだけドキドキする瞬間はあったが、ウォルグのほうは涼しい顔をしているため、意識しないようにしていた。
「少し、休憩しようか」
地下書庫は飲食厳禁である。書庫から出た回廊の石造りのベンチで二人並ぶと、そこで水分補給をする。ダンスの練習をするようになってから、ウォルグはリスティアの水筒を準備してくれたるようになったのだ。
「今の君なら、ヒロインに気づかれないように階段から突き落とすこともできそうだな」
ウォルグは、くくっと笑って、水筒の水を一気に煽った。
「ですが、ヒロインはエリーサ様なのですよね。エリーサ様にそのようなことは、できません……」
リスティアは顔を伏せ、膝の上に置いた手でスカートをぐっと握りしめた。
ウォルグの指導は楽しいものだが、その先に待っているのがエリーサを貶めるものであれば、心が軋む。
「リスティア嬢。僕は君に立派な悪役令嬢になって欲しいと言った。そして、兄とエリーサの当て馬になってほしい、ともね。だから、何もエリーサを階段から突き落とす必要はない。とにかく、二人の仲を取り持ってくれればいいんだ」
「そうなのですか?」
ぱっと顔を輝かせてウォルグを見つめる。彼は困った様に眉をひそめると、何か言いたそうに唇を動かしたが、そこから言葉が紡ぎ出されることはなかった。ただ、額にうっすらと光る汗が、彼の魅力を引き立てている。
「ウォルグ様、失礼します」
リスティアは制服のポケットからレースのハンカチを取り出して、彼の額に押し当てる。
「――?!」
ウォルグは一瞬身を引いたが、すぐにリスティアの手を捕らえた。
「自分で、できる……。これを借りても?」
その言葉に頷いてみるものの、掴まれた手は少しだけ熱かった。
ウォルグとの秘密のダンスレッスンは、地下書庫で毎日のように行われている。
普段、身体を動かす機会がなかったリスティアにとっては、心地よい刺激になり、夜になるとぐっすりと眠れるようになった。
そうなると、肌や髪も艶やかになり、ただ本を読んでいる仕草ですら、周囲から「ほぅ」とため息が出てくるほど。
だが、もちろん。リスティア自身はそれに気づいていない。
彼女の自己評価はいつまでたっても低く、たまにミエルが「相変わらず変な女」と取り巻きの男たちに零すのが耳に入ってくるのだった。
そうやってリスティアがウォルグやエリーサと親しくなり始めてから、半年も経った。
「時が過ぎるのは、早いですね」
最近、リスティアはしみじみとそう感じるようになっていた。
「わたくしが、ここでウォルグ様にお声がけいただいてから半年が過ぎました。あと一か月もせずに卒業です」
「そうだな。卒業と言えば卒業パーティー。悪役令嬢の活躍の場として相応しいだろう」
「ええ。そうですわね。あとわずかな時間で、わたくしがどれだけ悪役令嬢として振舞えるか。できるかぎり努力させていただきます」
リスティアはウォルグを力強く見つめる。学園に通い始めて六年目。最も充実した一年だった。
父の跡は兄が継ぐ。リスティアは将来の夫となるような男性との出会いも期待されながら、学園に送り出された。どうやら学園は、出会いの場の一つでもあるらしい。
特に、学園の卒業パーティーでダンスを踊り想いが通じあったカップルは、末永く幸せでいられるとも言い伝えられているし、何よりもこの国の国王夫妻がそうなのだ。
「リスティア嬢。君には悪役令嬢として足りないものが一つあるんだ」
「なんでしょう?」
今までもウォルグが悪役令嬢への道を導いてくれたが、それにもかかわらずまだ足りないものがあるらしい。
「おや、気づかないのか? 今まで僕から悪役令嬢になるためのレッスンを受けたというのに」
だからこそ、完璧な悪役令嬢に近づけたと思っている。まだ足りないものがあるとは思ってもいなかった。
小首を傾げるようにしてウォルグを見つめる。
「えぇ……。わかりません」
くつくつと、ウォルグは喉の奥で笑った。
「君は……。とんだ策士だな。だが、まぁいい。卒業パーティーまでには準備しておくよ」
「ありがとうございます」
リスティアは深々と頭を下げた。
その後も、ウォルグとは指導という名目において地下書庫で会っていたし、それは卒業パーティーの前日まで続いていた。リスティアはその時間を心のどこかでは楽しみにしていた。
卒業パーティーの前日。
もう、ウォルグと地下書庫で会うことはないだろう。
そう思いながらもリスティアは今日も本を読んでいた。マキノン時代の歴史書を読んでから、気になることがあり、ずっとそれを調べていた。歴史が苦手であると口にしていたウォルグだが、リスティアが相談すれば快く乗ってくれる。
だからこそ、今日は最後の挨拶をしたいと思っていた。
「ウォルグ様」
彼の姿を見つけたリスティアは、彼の名を口にして勢いよく立ち上がった。
そんな彼女の様子に、ウォルグのほうが面食らったようだ。
「こんにちは、リスティア嬢。君がそんなに興奮するなんて、珍しいな」
「あ、ごきげんよう。ウォルグ様。申し訳ありません。気が急いてしまいました」
「僕に会いたかったのか?」
はっきりと口にされてしまえば、顔を伏せる。
「冗談だよ」
リスティアは頬を膨らませてから顔をあげた。
「そういう冗談はおやめください。慣れていないのです」
「ごめんごめん。それで、君が気を急かせるなんて珍しいね」
「あ。そうですね。今日でウォルグ様とこのようにお会いできるのが、最後だと思ったらつい……」
「そうか。今日で最後になるな。なによりも、明日で卒業だ」
金色に輝く目は、どことなく寂しそうに細められた。
「はい。ですから、最後にウォルグ様にお伝えしたいことがありまして」
リスティアは一通の封筒をウォルグの前に差し出した。
「ウォルグ様と出会えて、本当に充実した日々を過ごすことができました」
「その卒業パーティーだが……」
ウォルグが躊躇いがちに切り出した。
「君のエスコート役は、決まっているのだろうか?」
「はい」
リスティアが力強く頷くと、ウォルグは顔をしかめる。
「兄に頼みましたので」
その言葉で、ほっと緩む。
「そうか……。よかったら明日、僕と踊ってくれないか?」
「ウォルグ様とは、一緒にダンスを練習しましたので。わたくしがどれだけ上達したかを見てもらうのも悪くはないですね」
そこでリスティアは蠱惑的な笑みを浮かべる。
「ウォルグ様にご指導いただきました悪役令嬢を立派に務めさせていただきます」
リスティアは深く頭を下げた。
だが、ウォルグが口にしていた悪役令嬢として足りないものが準備されていないことに、彼女は気づいていなかった。
◆◆◆◆ ◆◆◆◆
王城の大広間。煌々と輝くシャンデリアが目映い。それぞれ色とりどりのドレスを身に着けている令嬢たちが、この場を華やかなものにしている。
リスティアは悪役令嬢として、この場に立つ必要がある。兄にエスコートされ会場内に入り、兄と幾言か交わしてパーティーが始まるのを待っていた。
だが、パーティーが始まる直前、王太子であるアルヴィンが大広間に姿を現し、会場が騒然となった。
「エリーサ・スルク。この場で君との婚約を破棄する」
そのようなふざけた内容を大声で言ったのは、アルヴィン本人である。彼の隣には、寄り添うようにして、淡い薄紅色のドレスに身を包むミエルが立っていた。
本来であれば、その場所はエリーサがいるべき場所である。
そのエリーサは倒れそうになる身体をウォルグに支えられるようにしながら、なんとか立っている。
これから学園の卒業パーティーが行われようとしている。学園の卒業生と在校生、それから関係者が王城の大広間に集まり、卒業生の門出を祝う催しものだ。
アルヴィンは学園の出身であり、さらに王族関係者としてパーティーに出席する。本来であれば、婚約者のエリーサをエスコートすべき彼は、なぜかミエルをエスコートして会場に現れた。そんなエリーサの隣にいたのはウォルグである。
リスティアの胸の奥がチクリと痛んだが、痛みの原因はわからない。ただ、隣にいる兄と絡めている腕に、つい力を込めてしまった。
「理由を聞かせていただいても、よろしいでしょうか?」
今にも倒れそうなエリーサであるが、力強い口調で問い質す姿は凛としていた。
「理由? それは君が一番わかっているのではないか? 力ないミエルを陥れるようなことをしたのは……。エリーサ、君ではないのか?」
アルヴィンと対峙するエリーサを黙って見守る。まだ、その時ではない。もう少し話が進み、断罪が始まったら悪役令嬢の出番である。むしろ、断罪されるのは悪役令嬢でなければならないはずなのだが。
「エリーサ。君は、権力を振りかざして、学園に通う令嬢たちと定期的に茶会を開いていただろう。だが、ここにいるミエルはそれに招待されていない。同じ学園に通いながらも、ミエルだけ仲間外れにする理由はなんだ」
「それは……」
言いかけたエリーサであるが、その続きの言葉は出てこない。
「それに。君が今腕につけている腕輪も。ミエルのものではないのか? 彼女はお気に入りの腕輪を無理矢理エリーサに奪われたと、私に泣きながら訴えてきた」
エリーサは小刻みに震えている。
「それから、まだある。学園の階段で、擦れ違いざまにミエルの身体を押しただろう。危うく彼女はバランスを崩して、階段下まで転げ落ちるところだった。まぁ、近くにロバートがいたから、助かったのだが」
リスティアはじっとエリーサを見つめていた。隣の兄も同じである。エリーサがそのようなことをしていないのを、兄もリスティアも知っている。
「エリーサ。事実なだけに、何も言えないのか?」
エリーサはじっと唇を引き締めている。
「お兄様……」
リスティアは隣の兄を見上げた。兄も小さく頷く。つまり、リスティアの出番がやってきたというわけだ。
今日のリスティアは、卒業パーティーに登場する悪役令嬢に相応しく、紫紺のドレスを選んだ。象牙色の髪は高い位置で結び、白くて細いうなじを強調させた。後れ毛がちらちらと揺れている。また、化粧もきりっと引き締まった眉と目になるように、そして艶やかな唇になるようにと、メルシーが手をかけてくれた。
ここにいるリスティアは、いつも教室の隅で本を読んでいるリスティアではない。
「お待ちください、アルヴィン殿下」
彼らからエリーサを守るように、彼女を背にして対峙する。
「エリーサ様の悪事の数々と思われるものを、お聞きしましたが、それが本当にエリーサ様の仕業であるという証拠はあるのでしょうか?」
「ちょっと、あなた。アル様に対して不敬よ」
アルヴィンの腕にひしっと絡みついているミエルが、リスティアに向かって指を向けた。
「あら、ミエル嬢。あなたのほうこそアルヴィン殿下の愛称を軽々しく口にするなど、不敬なのでは?」
妖艶に微笑むリスティアを、周囲は息を呑んで見守っている。
「ちょっ……、ちょっと。あなた、誰よ。なんの権限があって、そんなことを言ってるわけ?」
「そのお言葉、そっくりお返しいたします。どのような権限があって、あなたはアルヴィン殿下の隣に立っているのですか? その場所に相応しいのはエリーサ様しかおりませんのに」
「だからっ。あなた、誰よ?」
「あら。ミエル嬢は、わたくしに見覚えがないのですか? 学園で机を並べて勉学に励んだ仲だというのに?」
リスティアの微笑みからは、婀娜っぽさを感じる。だからミエルも気がつかないのだ。
「だから、誰よ。名乗りなさいよ」
困ったわね、とでも言うかのようにリスティアは首を横に振った。
「っとに、なんなのよ。あなた、さっきから」
ミエルはアルヴィンの隣から、キーキーと騒いでいる。
「ミエル・オスレム男爵令嬢。わたくしはリスティア・ハンメルトです。今、わたくしは悪役令嬢としてこの場に立っております」
「リスティア? あなた、あのリスティアなわけ?」
どうやらミエルは目の前にいる人物がリスティアであると信じられない様子。それもそのはず。ミエルはリスティアを『変な女』と言いふらして、馬鹿にしていたのだ。教室の隅っこでいつも本を読んでいる変な女。それが、ミエルの知っているリスティアなのだ。
ミエルだけではない。会場内でリスティアを知っている者たちは、誰もがそう思っているに違いない。
会場がざわざわと騒がしくなる。
「それに……。なによ、悪役令嬢って。自分で言うの? そうね。何もしていない私に対して、そうやって詰め寄るところなんて、悪役令嬢にぴったりね」
「困りましたわね」
頬に手を添えて、リスティアは小首を傾げた。彼女の仕草の一つ一つが、周囲にいる者を魅了する。
「ミエル嬢は、悪役令嬢の真の意味をご存知ない?」
「悪役令嬢? そんなの、悪い人に決まっているじゃないの」
「悪役令嬢とは、王族の諜報部門の俗称。ミエル嬢が、取り巻きを使ってアルヴィン殿下に取り入るようになったため、国王陛下の勅命により調べさせていただきました。アルヴィン殿下、そろそろミエル嬢から離れてくださいませ。エリーサ様が今にも倒れそうです」
「ああ、すまない。エリーサ」
今までべったりと張りついていたミエルを無理矢理引き離すと、アルヴィンはリスティアの背に隠れていたエリーサをひしっと抱きしめた。
「ちょ、ちょっと。なんなのよ……」
「せっかくの舞台ですから、この場で真実を明らかにしたほうがよさそうですわね」
エリーサを兄のアルヴィンに託したウォルグも、リスティアを見守るかのように彼女の後ろに立った。
「ミエル・オスレム。そして、オスレム男爵。あなたたちには、横領の罪と違法薬物製造の罪がかけられています」
リスティアは手にしていた閉じた扇の先を、ミエルに突き付けた。ミエルの後方には、真っ青な顔色のオスレム男爵がいる。
「何を……、何を証拠にそんなことを……」
証拠が云々と言い出した時点で、罪を認めているようなものである。だが、リスティアはその証拠を手に入れていた。
きっかけは地下書庫の歴史書の書棚である。地下書庫に訪れる者はいないと思ったのだろう。書棚に不規則に並んだ禁帯出の古代史の本が気になった。パラパラとページをめくると、マキノン時代の解説ページに怪しい紙切れが挟まれていた。何かの領収書のようにも見えるが、リスティアはそれを見ただけで、不正な金の動きを察した。その領収書のようなものは、地下書庫にあるいくつかの本に挟まれていた。リスティアはそれをすべて回収できたはずだ。
おそらくミエルが、養父であるオスレム男爵から預かったものに違いない。それを人の目のつかない場所に隠せと指示されたのだろう。
考えてみれば、あの時期は半期毎の会計監査が行われる時期の前でもあった。
「ミエルさん。あなたは、誰も足を運ばないと思って学園の図書館の地下書庫を選んだようですが。あそこはわたくしの活動場所でしたの。ご存知ありませんでしたか?」
地下書庫に心当たりはあるようだ。ミエルの顔からみるみるうちに血の気が引いていく。
「ミエル……。どういうことだ……」
初老の低い声が響く。ミエルの養父であるオスレム男爵が、彼女を威圧的に見下ろしていた。
「ご、ごめんなさい。お義父様。どうか、ぶたないで……」
ミエルは養父から顔を守るように両手で頭を覆い、腕で顔を隠した。そのままその場に座り込む。
「今、ミエルさんからは聞き捨てならない言葉が聞こえたようですが……。オスレム男爵、一体どのようなことなのでしょう? まさか、娘であるミエルさんに暴力を振るっていた……とか? まさか、そんなことはありませんよね。慈善事業が大好きで、孤児院からたくさんの子を引き取っているオスレム男爵に限って、そのようなことはありませんよね?」
ざわわと、周囲が一層うるさくなる。
「今すぐ、オスレム男爵の屋敷を確認しろ。全責任は私が取る」
アルヴィンは会場に控えていた騎士に向かって指示を出す。
「アルヴィン殿下!」
オスレム男爵は、さも焦ったかのようにおたおたとその場で小刻みに震えていた。
「殿下は……。ミエルを婚約者にと望んでいるわけではないのですか! だからこそ、エリーサ嬢との婚約破棄の宣言を……」
「あははははは……。愚かだな、オスレム男爵。あの場で宣言しただけで、私とエリーサの婚約が無効になるはずなどないだろう? あれはただの演技だよ。ミエルを使って、あなたをこの舞台におびき出すための」
オスレム男爵の顔は、今にも沸騰しそうなくらい真っ赤になっていた。
「そもそも、ミエルの側に婚約者のいる彼らが取り巻きとしていることがおかしい。それをウォルグに調べてもらったところ、どうやらミエル嬢はお菓子を作るのが好きだとか? そのお菓子に幻覚によって魅せられるような薬草が混ぜられており、それを定期的に摂取していたとしたら?」
ざわめきがより一層、強くなる。
「ああ、安心してくれ。彼らにはすぐに解毒薬を調薬して与えてある。だが、洗脳された振りをして、ミエル嬢の取り巻きを継続するようにと指示を出したのは私だ」
アルヴィンの言葉に、ギリっとオスレム男爵は唇を噛みしめた。
「もう、これ以上、何も言うことはないな?」
項垂れるオスレム男爵に向かって、アルヴィンは一瞥する。だが、オスレム男爵も負けてはいない。
「だが。エリーサ嬢がミエルを虐げたのは事実だろう? それも罰せられるべき事案ではないのか?」
この期に及んで、そういったことを口にできる図々しさは褒めてやりたい。リスティアはアルヴィンとウォルグに目配せをしてから口を開く。
「まず、お茶会の件ですね。あれは王妃様主催のお茶会になります。ですから、王妃様が選んだ人たちしか参加ができない茶会なのです。残念ながら、ミエルさんは王妃様に選ばれなかった。ただそれだけのこと」
王妃が定期的に学園の生徒を誘って茶会を開いているのは、関係者であれば誰でも知っている。だが、仮にも王妃である。成績や家柄など、総合的に判断され選ばれた者だけが参加できるのだ。
「あとは、そう。腕輪、でしたね。あれはミエルさんのほうからエリーサ様に、卒業パーティーでつけて欲しいと、涙ながらに訴えてきたものになります。エリーサ様は何度もお断りしておりましたが、あまりにもミエルさんがしつこく、受け入れるようにとわたくしが助言したまでです。だって、このようなみすぼらしい腕輪が、エリーサ様にお似合いになると思いですか?」
リスティアは、他の者からも同意を得るかのように、ゆっくりと周囲を見回す。
「見る者が見ればすぐにわかりますよ。エリーサ様に不釣り合いな腕輪であることくらい。ですが、この腕輪も、オスレム家では貴重な財産でしたのよね?」
小馬鹿にしたような言い方に、オスレム男爵の顔は沸点を越えそうなほど、赤くなっている。
「それから、階段で押した、でしたっけ? 残念ながらあれはエリーサ様ではございません。ミエルさんの身体を押したのはわたくしです。だけど、優秀な取り巻き、失礼。ロバート様がすぐに気づいてしまいましてね。残念ながら、ミエルさんは階段下まで転げ落ちることはありませんでしたの」
だが、それすらリスティアとロバートが示し合わせて行ったものである。
「人の娘をなんだと思っている」
「あら。それはわたくしのセリフです。あなたは、養子をなんだと思っているのですか? 血の繋がりはなくても書類上はあなたの子。あなたがきちんと養育する義務があるのです。虐げる権利があるわけではありませんわ」
オスレム男爵もそれ以上何も言い返せないのか、悔しそうにぐぬぬぬと唸っている。
「見損なったぞ、リスティア嬢」
「えぇ、見損なってくださって結構です。わたくしは悪役令嬢ですから、嫌われるのがわたくしの役割です」
リスティアは怯まない。それもすべてはウォルグから受けた指導のおかげだ。
教室の隅で、誰の迷惑にもならないようにこっそりと本を読んでいた日々に、手を差し伸べてくれたのがウォルグ。リスティアが悪役令嬢として役目を果たせるようにと、さまざまな訓練に付き合ってくれたのだ。
諜報員が悪役令嬢と影で呼ばれるのには理由がある。調査対象は、悪役令嬢の調査結果によっては、王族との縁を失ってしまうからだ。今の国王も、王妃と出会うまでには幾人かの婚約者候補がいたらしい。悪役令嬢による試練を乗り越え、それでも国王を想い続けたの王妃であると、リスティアは聞いていた。
本来のリスティアの役目は、ヒロインであるエリーサの素行調査であった。アルヴィンの婚約者として相応しい女性であるか、学園でどのように過ごしているか。それを調査し、報告する役目だったのだ。ウォルグがリスティアを悪役令嬢に誘ったのは、彼女が級友たちに分け隔てない態度を取っており、彼女であれば公平な目で調査できると、関係者が判断したからだ。
ウォルグが彼女に声をかけたとき、悪役令嬢に関する物語の本を貸したのは、リスティアの心を緊張させないためだと彼は言っていた。
「オスレム男爵。それ以上は見苦しいぞ? そろそろ、私たちも卒業パーティーに戻りたいのでな」
アルヴィンの言葉に、リスティアの兄が動いた。彼がオスレム男爵を捕らえ、大広間から連れ出していく。女性騎士の幾人かはその場から動けなくなったミエルを立たせ、同じように大広間から連れ去った。
ほぅ、と安堵のため息がいたるところから漏れ始める。
「みなの者。茶番に付き合ってもらって申し訳なかった。どうか、このパーティーの時間を楽しんでほしい」
アルヴィンが言い終わると、楽団が音楽を奏で始めた。今までの喧騒が嘘であったかのように、ぱっと会場は華やいだ。
リスティアは大きく息を吐いた。これで、悪役令嬢としての役目は終わりだ。あとのことは騎士団に任せておけばいいし、エリーサはアルヴィンの婚約者として相応しい女性であると報告済でもある。
エリーサに視線を向けると、彼女も安堵した様子でアルヴィンに身体を預けていた。仲の良さを見せつけられ、心がじわっと温かくなる。
「リスティア……」
そんなリスティアの名を呼び、彼女の腰に手を回す男がいる。
「ウォルグ様……」
あまりにも自然な振る舞いに、すんなりとそれを受け入れていた。彼に触れられても嫌な気持ちはしない。むしろ、すべての緊張が解け、彼に寄り掛かりたい気分だ。
「わたくし、立派な悪役令嬢になれましたか?」
リスティアも彼の背に手を回して、見上げる。
「ああ。立派な悪役令嬢だった。だが、言っただろう? 悪役令嬢になるにはまだ足りないものがあると」
悪役令嬢に婚約者からの断罪はつきものだ。
「まぁ、なんでしょう?」
「さぁ、なんだろうな。やはり僕にとって君は悪女だな。責任をとってもらいたいものだ」
それが、悪役令嬢であるリスティアへ対する断罪だろうか。となれば、断罪をつきつけたウォルグは――。
それが悪役令嬢に足りないものなのか。
「君は、僕の心を振り回してばかりいる。今もヒヤヒヤしながら見守っていた。だけど、君を信じる僕もいた。だからこそ、君に足りないものに気づいて欲しいと思っている」
ウォルグの口元は綻んだ。
「まぁ……。ウォルグ様が側に控えてくださったからこそ、わたくしは自分の役目を全うすることができたのです。わたくしにとって、ウォルグ様は特別な方ですから……」
「そういうところが悪女だよ」
ウォルグは誰にも気づかれぬうちに、軽くリスティアに口づけた。
「とりあえず。君の僕に対する罪は、これで裁いておいた」
【完】
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