第一話 クリストフと言う男
―西暦1700年、教皇領 サンピエトロ大聖堂。
いくつもの巨大な白い柱が聳え立ち、大聖堂を支えている。
黄金をふんだんに使ったその荘厳かつ壮麗な意匠は、見る者を圧倒させ、訪れた者たちに神への祈りと畏敬、そして信仰心を沸き立たせて止まない。
かの名工ミケランジェロによって設計され、計算しつくされたその内部は、完成から70年以上の時を経ても、より一層の輝きと神聖なる威光を放っていた。
クーポラから採り入れられた光が、大天蓋へ降り注いでいる。
天蓋を中心として建てられた四本の柱には、それぞれ四人の聖人達を象った像と、四つの聖遺物が収められており、感じ取る能力のあるものは、近づくだけでその力に圧されてしまうだろう。
そんな大天蓋の真下に安置された聖ペトロの墓に向かい、一人の青年が片膝を立ててしゃがみ込み、深い祈りを捧げていた。
青年の歳の頃は二十歳そこそこといった所だろうか?白人より少し濃い色の肌を持ち、髪型は短髪のツーブロックで、ブロンドの多いこの国では珍しい黒髪が印象的だった。
やや細面だが、鍛えあげられ均整の取れた肉体が、法衣の上からも見てとれる。大聖堂の神聖な空気と相まって、その祈りの姿はまるで一枚の絵画のようであった。
しばらくして、パタパタと忙しない足音と共に、息を荒くした一人の男が聖堂内へと足を踏み入れた。
「おお、ここに居たのか、探したぞクリストフ!」
静謐な聖堂内に、男の声が大きく響く。
あちこちを探し回っていたのだろう、男の額には大粒の汗がいくつも浮かび、神聖な法衣は乱れて、その様子を見た修道士や司祭達は、皆一様に顔をしかめている。
そんな男の剣幕には目もくれず、クリストフと呼ばれた青年は静かに祈りを終えると、ゆっくりと立ち上がり、男に顔を向けて声をかけた。
「これはダニエル司教、おはようございます。日課の朝の礼拝をしていたもので…ところで、その恰好はなんです?仮にも最年少で司教に任命されたのですから、もっと立ち振る舞いに気を付けた方がよろしいかと」
「あ、朝の礼拝が日課なのは立派だが…貴様はあちこちフラフラとしすぎなのだ!昨日はシスティーナ礼拝堂、その前はサン・ペトロニッラ礼拝堂、さらにその前は名もなき小さな礼拝所と…探し回るこちらの身にもなれ!」
一応、どれもそう遠くない位置にあるものばかりだが、実際に足を運ぶとなればそれなりの距離になる。
どうやらダニエルは当たりを引けず、その全てを駆けまわってきたようだ。
どうにも間の悪い男だなと、直属の上司であるダニエルを見て、クリストフは内心苦笑した。
「それは失礼しました…それで、そんなに大慌てになるほどとは、一体どんな用件で?」
「そ、そうだ!こんな事を言い争っている場合ではないのだ、教皇聖下が直々にお呼びである!今すぐ向かえ!」
「教皇聖下が…?それは一大事ですね、解りました。直ちに」
教皇聖下と聞いて、クリストフだけでなく、傍らで二人の様子を伺っていた全ての人間の目つきが変わった。
彼らにとって、教皇は神の代理人であり、最もいと尊き貴人であり、何よりも尊敬と崇拝の対象である。
司教クラスならともかく、たかだ一神父が目通りを願うだけでも烏滸がましいというのに、それを教皇自ら直接呼びつけるというのは、まずあり得ない事態であった。
ダニエルに頭を下げ、身を翻して大聖堂を後にするクリストフの背を見ながら、数人の修道士たちが密やかな声を上げた。
「おい、今のクリストフって、まさか…」
「ああ、アイツだ。対化け物に特化したエクソシスト。噂じゃテンプル騎士団の生き残りだとか…」
「テンプル騎士団って、あれは400年近くも前に解散したはずだろ?!」
「だからだよ、アイツのもう一つの異名が『不死のクリストフ』なんだ…本当にいたなんて」
次第に大きくなるざわめきを余所に、ダニエルはどこか誇らしげな面持ちで、去って行くクリストフの背を見続けるのだった。
大聖堂を後にしたクリストフは、すぐさまシスティーナ礼拝堂に設けられた、教皇の私室へ向かった。
現教皇は非常に徳の高い人間で、まさに聖人と呼ぶに相応しい精神の持ち主だ。
質素を旨とし、それまで誰も手を付けなかった悪習を根絶せんと教皇庁の綱紀粛正を始め、教皇領内の改革やフランスへの折衝などを精力的に行う傍ら、神聖ローマ帝国との関係も維持にも尽力した。
まさに質実剛健を地で行く、誰もが認める高潔で素晴らしい人物であると言える。
だが、彼も寄る年波には勝てず、ここ数か月は床に臥せており、今や面会できる人間はごく僅かである。
そんな教皇が、自分を名指しして呼びつけるということは只事ではないと、クリストフは考えていた。
教皇の部屋に到着すると、コン、コン、コンと、三回のノックをして、返事を待つ。
ややあって、ゴホゴホと咳きこむ声が聞こえた後、ゆっくりと中から扉が開いた。
扉を開けたのは教皇の付き人の修道士で、広い室内には数人の護衛騎士と、修道女が二人、そして先程扉を開けた二人の修道士も扉前に待機している。
クリストフは静かに一礼をして、十字を切って室内へ入り、少し進んでから、片膝を立ててその場にしゃがみ、首を垂れた。
「神父クリストフ、仰せにより罷り越しました。教皇聖下におかれましては、御身のお加減が宜しい様で、大変喜ばしく思っております」
恭しく言葉を発するクリストフに、御簾に隠れたベッドの中で、教皇は力なく笑いながら答えた。
「ふふふ…クリストフ、君こそ元気そうで何よりだ。久々に君の顔を見て、少し元気が出たようだよ。君に会うのは、何年ぶりになるかな?」
「…教皇選挙の前夜以来ですので、およそ9年振りかと。」
「そうか、もうそんなになるか…私も歳を取るわけだな。そうそう、君の活躍はとみに聞いている。やはり、神の法を破らんとする不届き者は、後を絶たないようだな…」
「ここ数年は大きな戦も無く、平和で人心も安定していたのですが、どんな時も人の心に漬け込む悪魔達はいるようです」
「実に嘆かわしい事だが、君と言う素晴らしい法と人間の守護者がいるのだ。悲観的になりすぎるのもよくないだろう」
「そのようなもったいないお言葉を…」
謙遜するクリストフを制するように、教皇は右手を掲げた。
「何を言う、君と言う存在こそ、神の奇跡の体現者ではないか。ああ、懐かしいな、君と肩を並べて法の教えを学んだあの頃を思い出す…こうして見ても、君はあの頃と少しも変わっていない、精悍な顔つきにこそなったが、その若さは健在だ。それが神の奇跡でなくて、なんだと言うのかね?」
睨みつけるような教皇の視線が、クリストフにそれ以上の反論を許さず、神の奇跡を信じる言葉には、威迫にも似た強いプレッシャーが込められている。
二の句を告げられなくなったクリストフは、その場で頭を下げ続けるしかなかった。
「さて…それよりもクリストフ。今日は、折り入って頼みたいことがあって君を呼んだのだ。話を聞いて貰えるかな?」
「は、何なりと」
クリストフはそう言うと、ほんの少し顔を上げて、御簾の向こうにいる教皇を見上げた。その鈍色の瞳には強い決意と、並々ならぬ力が宿っていた。
「ありがとう、我が友よ…実は―」
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