第十三話 悪夢の記録
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クリストフは、夢を見ていた。
遠い昔、今とは違う時代と異国の街並みは、全てが石造りで出来ている。
雄大なティグリス川の恵みによって栄えた、この小規模な都市国家で、一人の男の赤ん坊が産声をあげた。クリューと名付けられた赤ん坊は、『マギ』と呼ばれるゾロアスター教の神官階級の家庭に生まれた男児の一人である。
彼はとても聡い子供で、幼い頃から聖典『アヴェスター』を読み耽っては大人顔負けの知識で教法を語り、また多くの呪文の天啓を得てはそれを唱え、悪魔達を追い払うという、将来を期待された存在であった。
「おお、クリュー!また新たな加護呪文を得たのか…やはりお前は我が一族きっての天才だな!」
立派な顎髭を蓄えた中年の男性が破顔しつつ、クリューの肩を叩く。16歳になったクリューは、その類い稀な才能を活かし、人の生活を脅かす悪魔達を積極的に退治して回る生活を続けていた。
「いえ、父上、全ては我らが善神『アフラ・マズダー』の御力によるものです。昨夜もクスティ(祈りの儀式)の最中に神の御声が聞こえ、この呪文を賜りました。これは才能などによるものではありません」
クリューは謙遜しつつ、神への畏敬を忘れぬよう、父に釘を刺した。父ラハルは、自分と同じマギでありながら、アフラ・マズダ―への尊敬の念が足りない。息子の才能を喜ぶのは親の常かもしれないが、神への感謝を忘れては、自分達の生活はないのだ。どうにも俗物的過ぎるラハルの物言いが、クリューはあまり好きでは無かった。
「む?そうか…確かにな。しかし、それを使いこなすのは、間違いなくお前自身の力なのだぞ?もっと胸を張れ!お前の評判を聞きつけて、ダレイオス3世大王も、近くこの街を訪問してくださるそうだ。これでますますこの街は栄えることだろう!」
「実に喜ばしい!」と豪快に笑いながら、ラハルはクリューの肩を抱いて隠し持っていたハオマと呼ばれる酒を煽った。
ゾロアスター教において、飲酒は狂騒を招く悪しきものであるが、ハオマだけは善神に属するものとして許されている。しかし、事ある毎にそれを口にするラハルの行いは、どう考えても行き過ぎたものであり、そう言う部分も、クリューが父を軽蔑する一因であった。
バグダードから少し離れた土地に拓かれたこの都市国家『ソリシャード』は、かつて、クリュー達の先祖であるマギ達が、修行をする場として興したものらしい。
今も人口は数千人と規模は小さいながらも、バグダードからさほど遠くない立地もあって、中々な賑わいを見せている。
そういう歴史がある為に、クリュー達マギは、街の為政者としての側面も持っていた。ラハルはマギとしては二流だったが、長としては優秀だったのだろう。街が栄える事を何よりも喜びとし、多くの人々から慕われる存在でもあった。そんな父を、クリューは複雑な思いで見つめるのが、いつもの光景だったのだ。
「おかえりなさい、貴方、クリュー」
「「父様、兄様、おかえりなさい!」」
仕事を終えて帰宅したクリューとラハル達を、母と二人の妹が出迎えた。
母、マティは若い頃は霊的な才能に溢れた存在であったらしい。本来、ゾロアスター教において、男女は精神的平等な立場にあったとされているが、一部の支配者には女性は所有物として扱われるなど、女性の地位は決して高いものではなかった。
マティは優秀なマギであった為、そのような扱いを回避できたようだが、その実、身体が弱く、ラハルの献身的なサポートが無ければ、長生きは難しいとまで言われていたという。現在は一線を退いているが、その才能はクリューに受け継がれたのだと、祖父や祖母達は喜んでいたそうだ。
二人の妹は一つ年下の双子で、名前は姉がナーサ、妹はティアという。滅多にない双子の誕生に家族は色めき立ったが、二人とも父親に似たのか、霊的な才能には恵まれず、現在は采女の様に、家庭での仕事に精を出していた。
「うむ、三人とも元気にしていたか?」
デレデレと甘い顔をして、その太い腕で二人の娘を抱き締め、マティの頬を撫でるラハル。
一方のクリューは「ただいま」と返事をして、そそくさとその場を後にした。仕事の後は、一刻も早く水浴びで穢れを落とすのが、彼のルーティーンである。夜の食事までにはまだ時間があったし、穢れを落とした後はクスティもせねばならない。なにより、今夜は一雨来そうな空模様だ。
家族との触れ合いに時間を割いている余裕は、クリューには無かった。
クリューが水浴びを終え、身体に着いた水気を拭き取っていると、静かにナーサが訪れた。
「クリュー、お疲れ様」
「ナーサか、ありがとう」
ナーサから差し出された一杯の水を受け取り、クリューは一気に飲み干す。これもいつもの光景だった。
クリューは仕事の後、必ず水浴びをしてからクスティを行う。家族は皆その流れを知っているが、その合間に自分だけがこうして入れる事が、ナーサはとても好きだった。
再び布を手に取り頭を拭いていると、クリューの背中にそっとナーサが抱き着く。
「もうすぐだね、私達の結婚…」
「…ああ」
ゾロアスター教では、婚姻は最近親婚『フヴァエトヴァダタ』と呼ばれ、特に尊いものとして扱われていた。父と娘、母と息子、或いは兄妹という近親と契る事で、血筋と純潔を守り、財産や権力を維持する重要な行いであったのだ。クリューとナーサも、その例に漏れず、互いに愛し合い、将来を誓う間柄にあった。
母であるマティは、妹たちが双子であった事と、生来の体の弱さから子供が産めない身体になっており、クリューとナーサの婚姻が決まれば、必然的にラハルとティアが契る事になるだろう。もっとも、ラハルはマティにベタ惚れで、教義に背いてでも母一筋と豪語する人物だったので、ともすれば、ティアは余所の王族の元に行くことになるかもしれず、クリューはそれに心を痛めていた。
「ティアの事、気にしてるの?」
「ああ、どうしてもな。俺達が早々にこうなってしまったから。なんだか、アイツに悪い気がして…」
クリュー同様、ティアを気にかけているのは、ナーサも同じであった。
双子としてこの世に生まれ、いつも同じように生活し、何もかも分け合って育ってきた。そんな二人が、クリューだけはどちらか一人のものにしなければならない。それが、とても心苦しい。
「もし、アイツが別の家に嫁ぐ事を嫌がったら…父上はあの性格だし、ティアと契る事はしないだろう。その時は、三人で暮す事になるかもしれない、それでもいいか?」
「もちろん!ティアだって大事な家族だもの、あの子が嫌な思いをするのは、私も嫌。…ズルいね、私。こんな事言いながら、あの子に黙って、クリューと…」
言い淀むナーサの口を、クリューは振り返ってキスで塞いだ。その先を言わせてはならないと、そう思った。
「それは俺も同じだ。その…こんな言い方はおかしいかもしれないが、アイツも俺を慕ってくれているのは解っていた。でも、その上で俺はお前を選んだんだ。謝らなきゃいけないのは、俺の方だ…」
「クリュー…」
お互いに罪を口にした後、どちらからともなく再びキスをした。その最中、遠くに落雷が落ち、一瞬、稲光が暗闇を照らす。
暗闇の中に、誰かの影が映っていた。
場面は変わり、クリューとナーサが結婚する当日。その日は朝から曇り空で、どうにも妙な胸騒ぎが離れなかった。前日に急な報せが入り、バグダードでの仕事を終えたクリューは、急いでソリシャードに向かっている。
(今日は待ちに待った結婚式だというのに、なんだろう、この嫌な感じは…)
人は結婚前には不安になるという俗説を、以前誰かから聞いた事がある。
もしかするとそれかもしれないと、クリューは考えた。結局、あれからもずっとティアの事が気にかかっていたからだ。
昼を過ぎて、ソリシャードが目に入る距離になった頃、クリューは異変に気付いた。街の方向から黒い煙が立ち上り、まだ離れているというのに大きな喧騒と血の匂いがここまで漂ってくる。
「なんだ!?何が起きているんだ!」
大勢の賊が街を襲ったのだろうか?或いは、何者かの侵略か?両親は、ナーサやティアは無事なのか?次々と浮かび上がる疑問と逸る気持ちを抑えきれず、街道をひた走り、クリューはそれから一時間程でソリシャードに到着した。
シャムシールと呼ばれる剣を構えて街中に入ると、世にも恐ろしい光景が街のあちこちに溢れていた。
見た事もない怪物の群れが、人々を襲っている。すでに多くの人々が殺されてしまったようで、そこら中に死体が転がり、それを貪る悪魔が目に映った。
男達は兵士として駆り出されたのか、真っ先に殺されていて、既にほとんどの死体が食い散らかされている。
家屋は燃やされ、焼け出された親の傍で泣く子どもに、悪魔の爪が振り下ろされた。
別の場所では、見知った老人たちが子どもを守ろうと壁を作っているが、悪魔達は炎を吐いて、諸共に焼き殺した。
さらに別の場所では、悪魔が女を犯しながら、その心臓を抉り出している。
「あ、あああ…!や…止めろおおおおおおお!!!!」
クリューは絶叫しつつ、剣を片手に悪魔達に切りかかった。多くの悪魔達を退けてきたクリューだったが、これほどの地獄は見た事がない。流れる涙を拭く時間すら惜しみ、ただ一心不乱に、剣を振るうしか出来なかった。
…どれほどの悪魔を斬ったか、もう覚えていない。
すでに夕暮れは近く、満身創痍になりながら、クリューは自宅へ向かった。
「ナーサ!ティア!どこだ!?父上、母上!いらっしゃらないのですか?!」
自宅に近づくにつれて、悪魔達の死体と仲間のマギ達や兵士達の死体が増えていく。かなりの激戦だったのだろう、どれも、見るも無残な死体ばかりだ。
死体に群がる小型の悪魔を斬り捨てつつ、クリューは愛する家族の名を呼び続けた。もうすぐ夜が来る、未だ多くの悪魔が街に蔓延っている状況で、ここに留まるのは危険すぎた。
家族を連れて街を離れたら、大王に頼んで軍を派遣してもらうしかないとクリューは考えていた。その為にも、一刻も早くナーサ達を見つけて逃げなくては…
そして自宅の一番奥、狭いが最も厳重な倉庫の前で、父と母の死体が見つかった。
二人は折り重なるように倒れ、身体中には火傷や爪痕が残されている。山積みになった悪魔達の死体を見るに、ここを必死で守っていたのだろう。
「父上…!母上…!」
膝をつき、再び大粒の涙を流すクリュー。
優しく、また数多くの退魔の経験を持つ母は勿論のこと、父のことはあまり好きではなかったとはいえ、為政者としては尊敬していた。そんな二人をこんな形で失う事に、クリューは悲しみを隠せなかった。
たくさんの人々が死んだ。ここに至るまで、助かった人間は一人たりともいなかった。数千もの人々が、わずか半日で命を落としたのだ。クリューは神の加護を得て、その力を借り、多くの悪魔と戦ってきたというのに。あまりにも辛い現実を前に、クリューは自らの力不足と、運命を恨む事しか出来ずに泣いた。
その時、倉庫からカタっという物音が聞こえた。
クリューは咄嗟に剣を捨て、倉庫の扉を叩いて叫ぶ。
「誰かいるのか?!俺だ!クリューだ!」
「…っ!?」
小さな声が聞こえて扉が開くと、中からは涙を流しながらナーサが飛び出して、二人は、再会を喜び力一杯抱き合った。
と同時に、ナーサの背後から黒い刃が伸びてきて、二人は抱き合ったまま、串刺しにされた。
「ティ、ア…?」
その時、クリューはその眼でハッキリと見た。刃の持ち主が、背筋も凍るような満面の笑みを浮かべ、二人が崩れ落ちる様を満足そうに眺めているのを。
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